◇◇ 村上健司◇◇ First love. Last love.
「抱いて」
尻すぼみに小さくなる声の最後に、少しの間を開けて一颯は叩きつけるように一気にそう言い放った。
しばし呆然とする。その意味するところが俺の中に落ち、その場合を想像するまでに時間がかかった。
そんな事ができるわけがない。できるわけがないのだ。
会社でだって日々心を鬼にして一颯から距離をとってきた。彼女とすれ違うたび、彼女が他の男と会話をしているのを目にするたび、心臓が握りつぶされたような感覚に襲われる。
俺がいなくなれば、一颯のまわりにはいくらでも男が寄ってくる。そのうちの誰かと……と想像でもしようものなら、嫉妬で自我が壊れてしまいそうになる。
それほどまでに俺は一颯が好きで、愛おしくて、強く求めている。でも、それは一颯の未来に暗い過去を持ち込むのと同じ事なのだ。
かなりの間が開いた。
「好きじゃない女は抱いた事がない」
喉がひりつく。それでも乾いたかすれ声をどうにか搾り出す。
何度かのつき合いの中で、最後かもしれないと思いながら抱いたことが、ないわけじゃない。終焉を考えている時期のことだ。
でも、おかしくなりそうなほど好きなのに、どうしてもつき合うわけにいかない子を、最後だとわかっていて抱いたことなんかない。これほどまでに好きな子を、そんなふうに抱けるわけがない。
「わたしは約束を守った。でも健司にとってそれは一時の気の迷いだった。じゃあ、一度くらいは好きじゃない女を抱くって汚れ方をしてもいいんじゃない? それで引いてあげるよ。健司の前から永遠に消えてあげる」
はっきりとした涙声だ。心臓が悲鳴をあげる。俺は顔をあげることができない。
どうすればいい? 抱けば想いが溢れる。好きじゃないふりをするなんて、とてもそんな余裕はない。だけど、ここで渾身の演技をしてでも……乗り切らないとーー。
そこでほんの微かな嗚咽が聞こえた気がして顔をあげる。
「健司ごめん……」
唐突に落とされた涙まじりの呟きと共に、正面に置かれたカードキーにすごい勢いで手が伸びてくる。脊髄反射のように俺はそのカードキーを、彼女の指が触れる一瞬前にさらった。
「行こう」
俺は一颯の側にまわって彼女の腕をひき、立たせる。
精一杯の虚勢を張り、強気な主張ばかりしていた一颯は、精神的にとうに限界を超えていたのだ。こんなことが簡単にできるやつじゃない。
さっきまでの勢いはすっかりなりをひそめ、完全に下を向いて唇を震わせ、流れ落ちそうになる涙を左手の甲で必死に堰き止めている。それでも嗚咽だけは漏れてしまっている。
どうやって決済したのか、俺たちはカフェを出ていた。気づけば一颯の左手をきつく握り、エレベーターに向かっている。
平日で、都会からそれなりの距離があるホテルだから、広いロビーに人は多くない。
感情を排除して機械的に抱こう。今は辛くても長い目で見ればそれが一颯のためだ。
決意とは裏腹に、一颯の左手を握る力がどんどん増してゆく。
愛おしさを具現化した存在に対して、そんな抱き方ができるわけはないのだ。そして何より、もしできたとしても感情抜きの行為なんて、一颯の新たな傷を作る要因になってしまうんじゃないだろうか。
だけどパニック障害のような症状を引き起こす元凶である俺と、この先も一緒にいるなんて……。もう、何が一颯にとっての最適解なのかまるでわからない。
エレベーターのケージが降りてきて、扉が開く。
別れが目前に迫っていることだけは確かで、目には涙がこぼれ落ちる寸前まで溜まってしまっている。
俺に手を引かれる一颯の方は、もはやごまかしようがないほどまでにしゃくりあげていた。
ふたりエレベーターに乗り込み、カードキーの部屋の階数のボタンを押した時だった。ひとりの男がエレベーターに駆け込んできた。ぼけた視界に、マスクにサングラス、時代遅れのハンティングハットの男が映る。本能が危機を察知すると涙が勝手にこぼれ、視界がクリアになる。エレベーターの扉がその男の背後で閉まりかけている。
品川だ。ナイフを振り上げ、こっち、いや俺の後ろにいる一颯めがけて突進してくる。
「一颯っ!」
一颯の前に出て刃(やいば)から彼女を守りながら、すでに身体に到達しているナイフを、これ以上押し込まれないようになぎ振り払う。
左鎖骨の下に激痛が走り、一颯の悲鳴が聞こえる。
俺は品川のナイフを叩き落とし、やつの腹を蹴飛ばした。そのあたりで意識が朦朧とし視界がかすんでくる。
視線を下に走らせると、白いはずのTシャツが……なぜか真っ赤だった。
「一颯……」
声にまではなっていない、唇の動きで目が覚めたらしい。ここはどこだ? ベッドに寝かされている? 病室……?。
断片的な記憶が脳裏を掠める。俺はおそらく品川にナイフで刺された。閉まり切っていないエレベーターの後ろに品川が倒れ込み、ドアが再び開いてくれた。
一颯が助けを求める声。周りの人間の悲鳴。ホテルマンの大声。
俺の傷を押さえ、泣きながら止血をしてくれている一颯。救急車のサイレン。そのあたりまでの記憶がおぼろにある。
そして、俺は死ぬのだ、と確信もしていた。シャツが真っ赤になるほどの血が流れて助かるわけがない。
夢か現実か、病院での記憶もある。死ぬ前に一颯に伝えなければ、謝らなければ、と、何度も医者に彼女を呼んでくれるように頼んだ。
だから俺は告げたはずだ。想いは伝えたはずだ。あれは本心じゃないと。一颯が好きだと……。
俺、まだ生きてるのか? 間に合ったんだろうか。
視線を、天井から横になっている身体に這わせて動かし、左側で止まる。
え……一颯?
一颯が俺の左手を握り、ベッドの横に突っ伏している。俺以外の患者の姿はない。ここは病院の個室だろうか? そっと右手を動かしてみる。十キロのダンベルでも括り付けられているように重かった。それでもどうにか一颯の髪に触れることができた。
反射のような動きで一颯が身を起こす。
外の街灯か何かなのか、部屋には青っぽい清潔な薄闇が広がっている。いや、どうやら夜明けが近いらしい。
「健司。気がついた? みんな心配してるよ。でも手術の後、何度も起きてるし、安心してご家族も、社長や役員もいったん帰った」
一颯の目が真っ赤に腫れて塞がりそうだった。俺から目を逸らすように視線を伏せる。
「俺、死んだん……ないの?」
「やめてよ。ちゃんと生きてるよ」
一颯の顔がくしゃっと歪む。
「ごめん。わたしを庇ったせいで……」
「一颯の方が大事……もん。一颯はどっか怪我、……ないよな?」
「うん」
いったんは大丈夫だった? でもこれから死ぬかもしれないよな。あれだけ血が出たし……いやここが天国の可能性だってある。一颯が目の前にいるうちに伝えなきゃ。少し呼吸がしやすくなってきた。
「ごめん、一颯。本心じゃないって……わかるよな? 傷つけてごめ……。別れるしかないと思ってた。好きだよ。めちゃくちゃ……好きに決まってんじゃん。……間に……合ったのかな」
「だから死んでないってば。血管や器官の縫合手術も成功して、もうどこにも問題は残ってない。……でも、めちゃくちゃ怖かった。死んじゃったらどうしよう、ってほんとに……。もう泣きすぎの顔、見られるの恥ずかしすぎる」
一颯はシーツを握りしめ、首を垂れた。その肩は震えている。
「俺、ほんとに死んでない? ここって、天国じゃない?」
「ほんとだよ。もう縁起でもないこと言うのやめてよ」
「じゃあキスして」
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