◇◇ 村上健司◇◇ First love. Last love.
一颯はたいしてためらいもせず、腰を浮かせて俺の唇に自分のそれを、そっと重ねた。
「やっぱり天国なんじゃん」
「もうっ……」
久しぶりに見る俺だけに向けた自然な笑顔に、心が潤されていく。
「健司、意識がしっかりしてる。今度はちゃんと起きたみたいだね。今までちょっと意識が戻ると、わたしの事を呼んでくれ、って何度もお医者さんに頼んでくれたんだって。だからわたしだけこの個室にいられるんだよ。今、先生呼ぶね」
一颯がナースコールを掴もうとする。
「いいよ、一颯。呼ばないで。二人でいたい」
「健司……」
「まだ生きていたい、って切実に思う。まだ一颯といたい。結婚して家庭作って、何十年も一緒に人生楽しんで、じいさんばあさんになって……でもできれば、最後は一緒に逝けたら、最高なんだけど」
最後かもしれないと思うと、本音が正直に出てくるものなんだな。ナツの言葉が蘇る。
〝ごちゃごちゃ考えすぎなんだよ。シンプルでいいだろ、両思いなんだからさ。問題が起こってから対処すればいいんだよ〟
そうかもしれない、と今やっと思える。
「健司。死なないよ? もう今の言葉、取り消せないからね?」
「死なないんだ? マジで嬉しい」
「ほんとによかった……。あのホテルで、健司になんて辛い事をさせてるんだろ、って思ってた。カフェ出てからは『もういいよ』って伝えてたんだよね。でも、しゃくりあげてるのが止まらなくて言葉になってなかった。前に健司が同じ方法でわたしの本心を引き出したから、勇気を出したのに、自信なんて砕け散ってたもん」
「いや……。俺、どう考えても態度でダダ漏れだったじゃん」
「わかんないよ、わたしだっていっぱいいっぱいだもん」
「一颯優しいな。自分があんな酷いこと言われて傷ついてんのに、俺の気持ちの心配するとか、どんだけなんだよ。恨めよ、もっと」
「でも好きだから。好きな人が苦しそうなのは、辛いでしょ?」
「そうだな。すごい辛かった。一颯を傷つけること。この世で一番傷つけたくない相手を俺自身が傷つけなくちゃならないって、経験ないくらいしんどかったよ」
「もう……。健司、その言葉も取り消せないよ? わたしからあんなに距離取りたがってたのに」
「わかったんだよ。だってあのエレベーターの中で、一颯を守れたのは、世界中で俺だけだ。誰が一颯と一緒に乗ってたとしてもできなかった事だ。この傷が俺に気づかせてくれた。この先も、一颯を一番守れて一颯の幸せを最優先に考えられる男は俺だろ?」
「最優先に考えるなら、もう離れるなんて言わないって約束して」
一颯が握っている俺の左手を開かせる。俺は小指以外の指を軽く握った。小指に一颯の小指が絡んでくる。朝靄の二人きりの病室の中、人生で三度目の、一颯との指切りだった。
一颯は事故について、考えていた事を語ってくれた。
健司に責任のないことなのに、わたしが苦しむから身をひく。そして健司が身を引けばわたしも苦しむ。そんな負のループはおかしい。
だからわたしも、自分に責任のないことで苦しむのはやめる。わたしのせいだ。わたしが席を替わったから二葉はうつ病になったんだ、と自分を責めるのはもうやめる。
だってわたしは何か悪いことをしたわけじゃない。預言者でもない。未来の事故が二葉の身に何を起こすのかわかっていたら、席を替わったりしなかった。もう呪縛に苦しめられるのはおしまいにしよう、と。
わたしは単純に二葉に治ってもらいたいから、働いて治療プログラムのお金を稼ぐの、と。
俺も稼ぐよ。テクノロジーの本場、アメリカで、人と人を運河のように繋いで知識を運ぶビジネスを、大きく展開してみせる。一緒にアメリカに行こう、一颯。
デジタルに力を入れていくCanalsにとって、一颯は大きな戦力なのだ。そして一颯もコードを書く仕事がとても好きだ。好きで夢中になれなければ、これだけの才能を花開かせることはできない。
アメリカ行きのメンバーに入っていないことには不審の声も漏れていた。でも事情のわかっている、そして最後は、俺たちの仲を信じてくれていたナツは、ちゃんと一颯の席を空けていた。一颯の方の事情が片付いたから、彼女も行かれるようになったとのナツの話を疑うものは、ほとんどいないだろう。
実際、二葉ちゃんも連れていくわけで、日本の病院からの転院もある。
ナツといえば、今回の俺の怪我の件ではやつの
「仕事だとすごく大胆なのに、取り乱して、お医者さんに向かって『会わせてくれって!』とか懇願するし、わたしだけが健司のところに連れて行かれた時にはついてきかねない勢いで、周りの役員さんに止められてたよ」
ナツには、ナツなりのトラウマがあってそういう行動になっちゃっている。あいつの心配ばかりをしていたのに、今回は心配のかけどうしだな。
仕事上のパートナーであり、人生を通しての大事な親友だ。ほんの二十六の若造だけど、大事なものの多い人生で恵まれている。まだまだサヨナラしたくはない。
品川は懲役刑になった。
一颯を狙った動機は、完全な逆恨みだそうだ。
兄は親に贔屓をされていた。その憎い兄の娘なのに育ててやったんだ。恩を仇で返しやがって、と、思考が沸騰していたらしい。自分が一颯にしたことは全て棚にあげた態度に、情状酌量の余地は無いと判断された。
そんな品川も、実子はかわいいらしい。その後品川の意思で、息子の洋太は籍を抜いた。モデル一本でやっていくしかないと退路を断たれた状態だけれど、清々しい顔してたよ、と一颯が報告してくれた。
まだ入院状態の俺に、二人だか叔母さんを入れても三人だかで会った話をされると、正直もやもやした感情が湧かないこともない。
一颯が絡むと俺は途端に涙もろくなるわ、心が狭くなるわ、でいちいち衝撃を受ける。
品川ゼミナールは離婚をした品川の妻、洋太の母親が両親の指導を仰ぎながら、かつてのような地域の塾として一からスタートをするそうだ。
そんな洋太から、一颯ではなく俺に、婚約の誓約書と、それを反故にする司法書士の書類が届いた。短い手紙もついていた。
村上健司様
今回父が、人にあるまじき事件を起こし、苦しい思いをさせて申し訳ありませんでした。
告白します。あのファミレスで話した日、一颯ちゃんと一緒に生きようとする貴方を責めたけど、あれは言いがかりで完全な嫉妬です。
一颯ちゃんの気持ちが、恋愛対象として僕に向く可能性は皆無だとわかってはいました。なのにみっともなく縋りつき、一颯ちゃんとの婚約を解消しなかった。
一颯ちゃんは、真っ暗だった僕の人生に初めて光を当ててくれた人で、当然の如く初恋でした。
貴方の彼女に対しての強引な言動を責めたけど、僕にはできなかっただけのことなんです。そんなことをすれば嫌われるのが目に見えていたから。僕は卑怯でした。
「君と違って一颯ちゃんの気持ちが迷いなく僕に向くまで待つ」と言いながら、その実、誓約書で彼女を縛り付けるしかありませんでした。そんな日は一生待ってもこないと知っていたのだから。
貴方が現れ、一颯ちゃんの気持ちを一瞬でさらったことが許せなかった。
親子共々、どうしようもない人間でした。謝罪し、猛省し、せめて僕はゼロからスタートして自分の足で歩いて行こうと思います。
婚約は破棄します。どうか一颯ちゃんを大事に、幸せにしてあげてください。言われなくても貴方ならそうするでしょうが……。
品川洋太
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