◇◇月城一颯◇◇ 捨身

 父の遺言を読んだ。叔父、品川はとにかくお金に執着する性格で、それは父の両親、つまりわたしの今は亡き祖父母もとても心を痛めていた事らしい。

 当時、叔父は自分の近辺で実家が一番裕福な女性と結婚をした。愛のない、半ば騙したような結婚で品川の家に入った。


 叔父と結婚した叔母は、自分の両親が作った品川ゼミナールの受講料を勝手に引き上げたり、詐欺まがいの広告を打ったりする叔父の所業に徐々に精神を蝕まれていったそうだ。品川の叔母は遅くに生まれた子供だった。叔父が品川ゼミナールの経営を引き継いだ時、叔母の両親はすでに高齢で、娘婿の横暴を止めることができなかった。


 わたしの父は、自分の娘達をそのような品川の叔父には、絶対に近づけたくなかったに違いない。

 遺言書の中でわたしと二葉に当てて、品川とは決して関わってはいけないことがしたためられていた。もし、自分たちに何かあった時の法的後見人の欄には、父の友達の名前が記されている。

 事故当時、あの遺言書が見つかっていれば、品川はわたしを操り人形にすることができなかっただろう。

 品川が探し出したかったのは、お金の入る生命保険の証書じゃなくて、両親からのあの遺言書だったのだ。品川は、必ずそういうものがあると予測していたに違いない。それほど両親は品川を警戒していたのだろう。


 品川は、遺言書を早く探し出して抹消してしまおうと躍起になった。わたしの記憶が戻らないようにすることと同時に、あの遺言書を破り捨てるために「お前たちの実家は焼失した」と嘘をついたのだ。


 決心がついた。わたしは両親の遺言を守り、品川との関係は断つと決めた。育ててもらった恩はある。でも今から思えば、要所要所の洗脳はあったような気がする。

 健司が「あいつ、おかしくないか?」といぶかしんでいたように、わたしに実行するよう半ば強制してきたCanalsの情報漏洩は、犯罪行為だ。承諾した時のことをわたしは覚えていない。覚えているのは、自分がそれを承諾したという事実のみ。

 両親の死亡事故を起こした当事者と、Canalsの副社長の名前が偶然同じだった事を、またとない好機だととらえたんだろう。


 両親の仇を討つのだと焚き付けられ、わたしは尋常の範囲を逸脱した憎しみを抱いてしまったような気がする。姪に犯罪を勧める叔父。父の心配は的を射ていた。

 健司は、品川の瞳の動きや所作に、催眠術のような印象を受けたらしい。わたし自身、情報漏洩以外にもなぜ自分が承諾したのかわからない事案も多く、怖いと感じるようになってもいた。だから応接室で品川に会った時も、おかしなところでうなずいてしまわないように極力下を向いて目を合わせないようにしていた。

 健司はそれも見抜いていた。



 あれから顧問弁護士さんは迅速に動いてくれ、今回、わたしにやらせようとして未遂に終わった悪事を公にしない代わりに、相応らしい慰謝料を品川から貰う約束を取り付けてくれた。

 本当に相応なのか、ゼロの数は一目で把握できないほど多い。それだけのものを出しても品川は、今回の件を公表されたくないらしい。当たり前か。その情報が出たら品川ゼミナールはおしまいだ。

 それから、決してわたしには接触しないようにとの約束も盛り込まれている。

 Canals……いやおそらく、健司が動いてくれなければ、わたしと二葉はいまだに品川に囚われたままだったに違いない。


 今もまだ入院中の二葉は、これでよくなるかもしれない。うつ病がそんなに簡単なものではないことは、素人ながらにそれなりに理解している。でも治ると信じることは大切だと思う。

 最先端のうつ病プログラムを受けるだけの資金ができた。日本の病院から、アメリカでプログラムを受ける病院に移る事ができる。

 でも……。これからも稼がなければ。二葉をアメリカに行かせるのが精一杯で、わたしまで行く事はできない。アメリカでの高額の家賃は払えず、英語も達者からはほど遠く、仕事もすぐには見つからないだろう。


 そんな中、ある辞令が発表になった。Canalsがアメリカでの活動拠点を作る。ロサンゼルス支社だ。テクノロジーを使ってこれからの事業展開を考えている我が社は、そこの支社長に、デジタル統括の役員を置くことになった。

 健司はCanalsロサンゼルス支社の支社長になる。仕事を引き継いだら、ロサンゼルスに渡ってしまう。デジタル統括から、秘書の浅見さんはじめ何人かが健司についてロサンゼルス支社に赴くけれど、その中にわたしの名前はなかった。


 なんの制約もなく、始まる日を心待ちにしていたわたし達の関係は、すでに終わったんですか?



 わたしは、指定したホテル一階のカフェで、健司を待っている。会社の人が行かないような、都心から離れた場所にあるそれほど有名ではないリゾート地のホテルだ。

 どうしても健司が会ってくれないのなら社長が呼び出してくれることになっていた。けれど、どうにかそうはならずにすみ、平日の今日、健司はわたしの指定した場所に足を運んでくれる。会社は創業記念日で休みだ。

 枝ものをふんだんに生けた豪華な壺を中心に据えた広いロビー。その一角をカフェとして使用している。ロビーとカフェは低い観葉植物で遮っただけで、お茶を楽しむ数人がロビーからでもまばらに見える。観葉植物のすぐ傍の席で、わたしはコーヒーを前に腰を下ろしている。


 心が震える。心だけじゃなく、身体もはっきり震えている。

 あの日、健司がああいうやり方でわたしの本心を引き出したのなら、わたしも同様の方法で彼に体当たりしてみれば、見えてくることもあるはずだと、覚悟を決めた。

 健司の事を〝一度決めるとテコでも動かない〟と長年の友人の一ノ瀬社長がこぼしていたのだ。めまいがするほど恥ずかしい事でも、思いつくことは何でもやらなければ、きっとあとで後悔する。


 汗をかいた両手を組み合わせて俯くわたしの前で、椅子が絨毯を擦る音がし、目の前に誰かが腰を下ろした気配がした。

「月城。お待たせ」

 白いロングTシャツを着た健司だ。

 わたしの事をこんな場でも〝月城〟って呼ぶんだね。それが健司の答え? それは本当の気持ち? 教えてよ。

 健司はホールスタッフに手を挙げて、コーヒーを注文した。そのコーヒーが運ばれてきて、ホールスタッフが行ってしまってから、わたしは口を開いた。

「どうしてわたしを避けるの? あの時言ってくれたことと……違うよね?」

 すでに震え声になりそうなところを必死で平静を装う。

「ごめん。月城。ちゃんと話してからアメリカに行こうと思ってたから、今日はちょうどよかったよ」

 棒読みのような硬い口調だ。

「話?」

「俺の気持ちは……そこまで強いものじゃないと気づいたんだ。簡単に言えば冷めた。初恋の子と再会して、俺は舞い上がってただけだとわかった」

「それ、本心じゃないよね」


 泣くな! と自分に喝を入れると、声にも無駄な力が入ってしまう。なんてかわいげがないんだろう。

「本心だよ。申し訳なかった。あれは……あの時の事は、一時の気の迷いだった」

「びゃ……白衣観音の話を聞いたの」

 健司が息を呑むのがはっきりわかった。

「わたし、そんなに弱くない。もう現実を知ったから、あのスライドを見た時みたいなフラッシュバックは起きないと思う。でもそれがたまにあったとしても、わたしは健司と別れたくない。別れる方がずっとずっと辛いよ。わたしの身に起こる事なんだから、選ぶのは健司じゃなくてわたしだよ」

「そ……それは、だから申し訳ない……。ただ人の気持ちは間違うことも、ある」

「いいよ。あれは間違いだった。でも健司が約束を守らなかったのは事実だよね? だったら、最後に一度だけ……」

「……」


「抱いて」


 

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