◇◇月城一颯◇◇ 捨身

 物価の高いアメリカで、療養プログラムを受けさせるのに充分とはいかないまでもかなり強力な助けになってくれるお金だ。昨日、健司が試算してくれた療養プログラムの額を見て絶望的になっていたから、純粋に嬉しい。

 その後も顧問弁護士さんは、わたしが事故後に知らされた、実家焼失は、虚偽陳述にあたり、かなりの罪になると考えられると説明してくれる。


 懲役の可能性、慰謝料請求の額や裁判、それらについて詳しく語る弁護士さんの話が右から左に流れていく。

 わたしの罪については何も触れられない。Canalsに関係するから顧問弁護士さんが対応してくれるんじゃないのかな。

 それにしても、ある程度のお金があって、二葉にアメリカの療養プログラムを受けさせられるなら、もう叔父のことは忘れたい。叔父とは関係なく生きていきたい。

 洋ちゃんの事は気になるけど、彼ももう二十七歳で、品川ゼミナールとは別の場所で仕事も持っている。


 わたしは目の前の弁護士さんではなく、隣にいる健司にばかり意識がいってしまって、保険金がまとまって入る、ということ以外はほぼスルーしてしまっている。弁護士さんの名前すら覚えていない。

 おそらく健司は額を知っていたんだろう。それでもアメリカは何もかもが高額だから、少しでも多く叔父から慰謝料を取っておいた方がいいと、昨日わざわざ助言してくれたのだ。

 そしてこれだけの金額が入るから、もう自分はいらないと肩の荷が降りたんだろうか。あの日の言葉は、一度抱いてしまったから、責任から出たものなのかな。

 健司の態度を見ていると、全てが自分に都合のいい夢だったんじゃないかとさえ思える。


 その後、話が終わると、健司は率先して顧問弁護士さんを送る、と、彼をエレベーターに案内しはじめた。こんな遅い時間だから少しでも早く帰宅してもらおう、との配慮だろう……けど。


「あーあー。こういう逃げ腰のあいつって、長い付き合いで初めて見るから新鮮だよ。恋愛は人を強くも弱くもするよね」

 一ノ瀬社長が口を開いた。

 あいつ、って健司のことだよね?

 応接で、顧問弁護士さんを見送った態勢でつっ立ったまま、社長は呆れ声を出した。それからソファにどかっと座り、残っているカプチーノの入ったコーヒーカップを取り上げる。

「月城さんも座んなよ。ちょっと時間ある?」

「あ、はい……」

「健司と小学校の同級生なんだってね」

「そうです」

「俺、超間接的なんだけど、中学の頃とか大学の頃とか、ちょろっと月城さんのこと、健司から聞いたことあるんだよね。だから、なんか最近知った人、って気がしないの。不思議」


 一ノ瀬社長はなぜか、ものすごく砕けた完全にプライベート仕様の言葉遣いになっている。一人称が〝俺〟で副社長は〝健司〟だ。

「わ……わたしの話?」

「そう。初恋の子、って事で話題にあがった事があんの」

「えっ。あの、健……副社長はわたしのこと、な、なんて……その頃」

「クラスにめっちゃかわいい子がいてさー、って話してたな」

「それは……本当にわたしのことでしょうか?」

「そうそう。初恋から、他の恋を経て初恋に戻ってる稀有な男だよな」

「それは……」

 一瞬で終わってしまったんじゃないだろうか?


 わたしは手をつけていない自分のカフェラテに視線を落とした。

「でも見ててさ。月城さんの方も相当に健司が好きだよね? 辛い事実があっても健司から離れないでいてくれるな、って確信したから、話しとくわ」

 やっぱり、わたしと健司の関係は、一ノ瀬社長の耳に入っている。そして社長は、今のわたし達の微妙な距離感を見抜いている? 

「実際反則だとは思うよ、こういうの。だけどあいつがみすみす不幸になるのを俺、指くわえて見てらんないんだよね。あいつに何度も助けられてる、ってかもう助けられっぱなしだからさ。黙ってて離れちゃったら、めちゃくちゃ後悔すると思うからさ」

「……何かあるならなんでも話してください。辛くてもわたし、ぜんぜん平気です」

 健司に理由もわからずこんな態度を取られているよりもずっといい。


 一ノ瀬社長はわたしの返事に少し引き締まった表情になった。

「月城さん、事故にあう直前のパーキングエリアで、どうして妹さんと席を替わったのか覚えてる?」

 それは昨日、健司に聞かれたことと同じだ。それが、健司がわたしによそよそしい態度をとっている理由? 

 社長は「このまま離れちゃったら」とさっき口にした。わたしに飽きたとか一時の気の迷いだった、とかそういう事じゃなくて、それほどの理由があるってことなの?

「覚えていません。ただ、どうしてもってゴネて、父がパーキングエリアに入ってくれて、そこで席を替わったのは確かです。それがなければ二葉はうつ病になんかならなかった」

「健司にも言ったけど、それは不幸な偶然の重なり合いだよね? ちょっと何か条件がずれてたら、違う結果になってた。そうやって健司も月城さんも、自分のせいだ、って思って自分の首を絞めるのはやめないと」

「は……?」

「まあさ。俺も似たような事が昔いくつもあって、その度に健司に世話になってるから、当事者は見えないもんなんだって事は理解してるつもり」

「そう……なんですか」


 そこで一ノ瀬社長は、小さく深呼吸をし、居ずまいを正したような気がした。

「月城さんが見たかったものは白衣観音だよ。真っ白な巨大観音像。上信越自動車道のある位置から、山の上に人が立ってるように見えるらしい。で、それがすごい衝撃、って小学校で健司が騒いだんだってさ。月城さんはそれを聞いてたか。もしくは直接教えられたか」

「……」

「月城さんも、当時から健司の事が好きだったんでしょ? 好きな人にそんなにインパクトを与えたものを見たがるって、至極自然な事だよね」


 わたしは記憶が勝手に逆回転を始める感覚を味わっていた。

 白衣観音。そう……確かに当時、健司が、村上が……学校で友達に「すげーすげー」と興奮して話していた……気がしてきた。

「健司は、自分と一緒にいると、月城さんが事故の記憶から抜け出せないと信じ込んでる。一度、白衣観音のスライドで倒れた事があるんだってね。自分と一緒にいると、せっかく取り戻した月城さんの人生をあの事故に引き戻すと、信じ込んじゃってんの」

「……」


「どう? やっぱ、月城さんもそう思う? 『本当の事を言えば一颯は無理に努力を始めるかもしれない。知らなければ、事故の記憶からはだんだん遠のいていくのに』って言ってたよ。『そのために自分は一颯のそばにいちゃいけないって』」

「……それは違う」

「だよね。決めるのはお前じゃなくて月城さんだよ、って健司には忠告したんだけど、よっぽど月城さんを傷つけるのが怖いんだよね」

 わたしが席を替わった理由はまぎれもなく白衣観音で、それは健司が衝撃を受けたものだったからどうしても見たかったのかもしれない。というか……そうだった。思い出してきた。


 でもそんな過去のことで、今現在、これだけ好きな人が離れていこうとしているなんて、悲劇以外のなにものでもない。

「健……副社長はーー」

「健司でいいよ。もうここまでプライベートな話だからさ」

「ちゃんと話しあえば、また元に戻れるでしょうか?」

「難しいのは難しいから覚悟して。あいつ、決めるとテコでも動かないとこあるから」

 テコでも動かない。……嫌だ。


「特に月城さんに関する事で、自分の言動をめちゃくちゃ反省してるみたいでさ。そのうえ、妹さんの病気の元になった月城さんの行動の元兇が自分……って感じで、身を引く事が月城さんの幸せにつながると信じ込んじゃってるから」

 健司が、幾重にも鋼鉄の鎧を重ねたわたしから、本心を引っ張り出したあの嵐の夜。なぜわたしは自分の心に嘘がつけなくなったんだろう。健司の丸裸で体当たりの本心に揺り動かされたからだ。

 じゃあ……わたしもそうしたらどうだろう。恥も外聞もなく、自分の裸の心をぶつけたら健司も胸底を晒してくれる?

「……社長、協力してもらってもいいですか?」

「もちろん」

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