◇◇月城一颯◇◇ 捨身
出張から帰ってきてから、健司の様子がおかしい。帰ってきてからというか……出張中からすでに腑に落ちない。
このくらいはいいかな、と送ってしまう〝おはよう〟のLINEに、そっけない返信が一度戻ってくるだけ。それに返信しても、もう再度の返信はない。もちろんデートなんて誘ってもくれない。
出張から戻った次の日、健司の方からあった連絡は、簡潔で事務的だった。この間わたしの実家から持ち出せた書類はなんだったのか? わたしの今までの境遇に、Canalsの顧問弁護士を通して法的な措置をとるつもりだから、関係のありそうな書類の写しを送ってもらえるとありがたい、と、それだけだ。
両親の遺言書と自分たちにかけていたかなりの額の保険金関係の書類だ。もちろん受取人はわたしと二葉だ。両親と品川の叔父は関係が良好ではない、どころか、すこぶる悪かったことが遺言書によって判明した。
確かにわたしと健司の関係は今、微妙だ。それはわたしのせいた。
健司の気持ちに応えておきながら、紙面上とはいえ婚約していることが引っ掛かり、きっと突き放すような態度になってしまっている。健司は「待つ」と言ってくれている。
だから今の距離感がおかしいわけじゃない。
でも、わたしは自分がどれほど強い想いを健司に抱いているのか、この一週間あまりで悟ってしまっている。他人のように振る舞われるのはとても寂しい。
だから洋ちゃんには、「婚約を解消したい」となりふり構わずのLINEを送ってしまっている。洋ちゃんがわたしを想ってくれていると知っていたから、今までは切り出せなかった。
健司の近くにいたい。婚約は解消し、一刻も早く制約のない状態でつき合いたい。
想いが募る一方なのはわたしだけ?
ガラス張りの副社長室の中で、秘書の浅見さんと談笑する健司から視線をそっと外す。
初恋の相手だというだけでつい盛り上がった。でも冷静に考えてみて、面倒な過去は持っているわ、うつ病の妹はいるわ、そして肝心の本人にもそこまでの魅力を今は感じない。まさか、そう思っている?
だめだ。健司の態度ひとつで果てしなくネガティブになってしまう自分が情けない。
健司に声をかけられたのは、出張から戻って三週間後、帰りのオフィスビルゲートを出たところだった。
「月城さん」
オフィスの外で、周りにCanalsの社員はいない。なのにこんな他人行儀な呼び方をされると、胸を槍で突かれた感覚がする。
「はい」
「この間送ってくれた書類、全部精査したんだ。で、東欧塾の人間に会ってきた。まず、うちは品川ゼミナールに買収されることはない、と話した。それから簡単な報告書を作って、品川ゼミナールの品川にどんな背景があるのか説明した。で、内密に意向を聞いた」
「意向?」
「そう。これから品川ゼミナールとどんな提携を結ぶつもりか? ってね」
「そしたら?」
「品川ゼミナールとの提携は社での協議の結果、白紙に戻ったって言われたよ」
「それって、実際はその場で即決ってことじゃないの? 東欧塾の誰に会ったの?」
「社長」
「あれほどの規模の会社の社長がすぐに会ってくれたんだ?」
「な。びっくりしたよ」
笑顔が吹き抜けのエントランスの照明に弾けるようで、またしても胸が苦しくなる。
東欧塾は国内最大手のひとつだ。そこの社長が格下の会社の副社長に会う。健司は何か策を講じて出てくるように仕向けたんだろう。
「あとな。明日の終業後、できるだけ人が引けた後がいいから午後十時にしたんだけど、顧問弁護士と社長と俺、あと月城で四十二階の応接で今後の話をしたい。月城の意思にできるだけ沿った形で、品川に対しての法的な措置の方向性をまとめる」
「そんな……。わたしのために顧問弁護士なんて」
「一時期、Canalsは月城のハッキングに脅かされた。背景にはひどい操られ方をしてた月城の事情があって、今その女性はうちの大事な戦力だ。ご両親の遺言書まで託してくれてありがとう」
「ううん。こちらこそ……、一社員のためにありがとうございます」
「あと、これなんだけど。明日までに目を通しておいてもらえる?」
健司はA4サイズの封筒を差し出してきた。
「何?」
「生命保険でかなりの額が月城と二葉ちゃんには入る。だけど二葉ちゃんのうつ病を治す療養プログラムは高額だ。試算したんだ。できるだけ、品川から慰謝料を取った方がいいだろうと。十二年もの間、君の人生を奪ってきたんだ。でも月城は、それでも育ててもらった恩だとか、洋太さんもことだとかを考えちゃって多額の請求は控えそうだから。それだけあれば二葉ちゃんにプログラムを受けさせられるよ、って。考えてみてほしい」
「……はい」
健司は何かを言い淀むように、何度か唇を開きかける。
「何?」
「月城……事故の前後の記憶は最初からおぼろげにあったって言ってたよな? 二葉ちゃんと席を替わったことも最初から覚えていた。じゃあさ、なんで席を替わったのかは覚えてる? 何か見たいものがあったんだよな? それが何だか、どうして見たかったのか、思い出した?」
「ううん。それは思い出せない」
小さくため息をついたように見えた。安堵したようにも、がっかりしたようにも、どっちともとらえられる表情をしている。
「じゃあ、気をつけて帰ってな」
健司はIDカードでまたゲートを抜けオフィスビルの中に入って行った。なんだったんだろう、最後の質問。
でも今のわたしには、それよりもこの封筒を渡された事の意味を考える方に頭が働いてしまう。
「療養プログラムの試算……」
そんなことまでしてくれたのは嬉しい。すごく嬉しい。でも、違和感が徐々に寂しさに変わっていった。
健司は、二人衝動にかられて結ばれてしまったあの日、確かに言った。
「そうだな。全部終わったら一緒に暮らそう。二葉ちゃんも呼んで。アメリカでのプログラムがいくらかかるのかわかんないけど、Canalsはもっとでかくするよ。俺、稼ぐから」
これからもずっと一緒にいて、自分が二葉の療養プログラムのお金も出そうとしているように感じたのは、わたしの都合のいい思い込み?
今、その試算を渡してきて、できるだけ品川から慰謝料を取った方がいい、とアドバイスをする。
まるで、自分はもうそれに関わらないと突き離されたような気がする。気がする……じゃなくて、たぶん、そうなのだ。
どうして? あの日、あれだけ情熱的にわたしを求めたのに、冷静になったら、やっぱりそこまでの気持ちじゃなかったと判断したんだろうか。日増しに募るわたしの想いとは反比例?
とうにゲートの向こうに消えてしまった愛おしい背中を思い、気づけば溢れていた涙をそっと拭う。
次の日の午後十時少し前、オフィスに人は少なくなったけれど数人は残っている。ガラス張りの副社長室の中でパソコンを叩いている健司を後に、わたしは席をたった。四十二階の応接室に向かう。
IDカードで中に入ると、まだ誰も来ていなかった。健司と一番くらいに仲がいいのが一ノ瀬夏哉社長だ。健司はわたしとプライベートでいる時、一ノ瀬社長のことを〝ナツ〟と呼んでいる。健司が雄々しいイケメンなのに対して一ノ瀬社長は爽やかなイケメンで、二人並ぶと華やかなことこの上ない。
そのうち廊下から話し声がし、ピーっと機械音がしてから三人の男性が入ってきた。健司、一ノ瀬社長、二人より十以上上だと思われる男性、きっと顧問弁護士だ。
「月城さん、お待たせ」
一ノ瀬社長が軽く手をあげ、顧問弁護士さんを誘導してわたしの正面に座らせ、自分はその隣に座った。向こう側のソファには四人くらい掛けられるからまだスペースはあった。でも一ノ瀬社長が健司に視線で、わたしの隣に座ってやれ、と合図を送る。同じヨットクラブに在籍していて、プライベートでも一緒にいることが多い二人だ。社長はわたしと健司の関係を知っているのかも知れない。
顧問弁護士さんと名刺交換や挨拶の後、話があった。まず決まっている保険金の支払い。わたしも二葉も成人しているから後見人の叔父ではなく本人に支払われる。ひとりにつき、二千五百万もあった。
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