◇◇村上健司◇◇ 友情

 昨日の土曜日、ヨットは休むと連絡を入れておいた。でも今日、俺はその連絡を忘れたらしい。

 昨日、いや、すでに今日だよな? 二十四時間やっているファミレスから、家に戻った覚えがないのにベッドの中にいた。そこまで寒い季節は過ぎたはずなのに、俺はこれでもか、と身体に毛布を巻きつけ震えていた。

 ヨット不参加の連絡を入れていなかったから、向こうから電話がかかってきて、機械的に頭を下げ続けた。来週は来るんだろ? という問いにどう答えたのかも覚えていない。


 でも明日、会社だけはどうあっても行かなければ。月曜日は幹部会議がある。

 気づけば日曜日も夜に近い時間になっていた。下のインターフォンからチャイムが鳴った。

「一颯……」

 ベッドから飛び起き、転びそうになりながら室内のインターフォンの場所まで走る。

 モニターに映ったのは、長年の友人のナツだった。ヨットは土日欠席。さっきの電話の受け答えも明らかにおかしかったはずだ。

 俺はマンションエントランスの開錠ボタンを押す。面倒だから玄関も開けておく。勝手に入ってくるだろう。


 一番気を遣わなくてすむ人間だったことがまだありがたい。……というか、そういう存在に何もかもをぶちまけなければ、自分ひとりで抱え込めそうにない。

「健司、何があったんだよーーえっ……」

 案の定、ロックを外しておいた玄関から勝手に入ってきたナツは、俺を見ると言葉を呑み込んだ。

「え、って何?」

「いや、目が真っ赤ですごい顔。しかもその毛布にくるまってる状態、何?」

 俺、服どうしたっけ? 脱いで寝たのかそのまま寝たのか覚えていない。自分を見下ろすと、上も下も肌着、その身体を毛布で巻いてリビングに出てきたらしい。

「とりあえず着替えてくるわ、そのへん、座ってて」

「おー。コーヒー貰うわ。バイクで来たから寒い」

 葉山のヨットハーバーから直接来たのか。ナツはバイク用の上着を脱ぎ、グローブを外し、それをソファに放ると、アイランド型のキッチンに入っていく。


 デロンギは勝手にコーヒーを落としてくれるから、気の置けないやつが来た時は楽だ。

「お待たせ」

 俺はベッドルームに落ちていたパーカーを被りジーンズを履いてリビングに戻った。なんだか寒気がして、毛布をまとったままだ。

 ミケとチャピがついてくる。ミケとチャピに飯はやった。それは覚えている。

「健司、どうしたんだよ。丸山さんが、健司がおかしいって心配してたぞ。話が噛み合ってないとか」

「そうか……」

「お前、飯食ったの? 目は充血してるし、なんかげっそりしてんだけど。何があったのか知らねえけど、飯は食わないと」

「そういえば、今日食ってないのかも」

「え! もう夜だぞ?」

「そうか」

「俺なんか買ってくるか? いや、お前、宅配食取ってたよな? もうないの?」


 ナツはアイランドカウンターの後ろにまわり、冷蔵庫を開けた。

「えっ! 何? 野菜がそこそこあるんだけど!」

 昨日、一颯がカレーを作ってくれた残りの野菜がまだ入っている。そういえば、一食分は冷蔵庫に保管しておくと言ってくれていた。一緒にスーパーに行って一緒に飯を作り、一緒に片付けたのが遥か昔のことのように感じる。

「何? お前、いつの間に彼女できてたの? 珍しくここんとこ二年くらいいなかったよな?」

「いや、今もいない……」

「じゃ、これは何?」


 ナツは冷蔵庫から、器に移してラップをかけたカレーを出して見入っている。

「夕凪ちゃんじゃないよな?」

「なんでそう思うのさ?」

「これ、絶対市販のルーのカレーじゃないもん。ルーから作ってるだろ? こんだけのことしてもらってて、つき合ってないってなんなの?」

 料理が好きな奥さんがいると、カレーも市販かどうかが一目でわかるのか。

「たぶん、三時間つき合って、一時、離れよう、って決めて、でも一颯の気持ちの整理がついたら俺のとこに戻ってくれることになってた。でも……きっと、もう戻らない方がいいんだろうな……って」

 俺はごにょごにょと、小声で搾り出すように話す。


 うー、これだけで涙が出そう。

「意味わかんねえ。てか、その三時間だけつき合った、ってなに?」

「いや、だから三時間くらいはつき合った。たぶん」

「ヤッたってことだな?」

「そういうゲスい言い方はやめろよ!」

「えっ?」

 ナツの目が、〝この程度がゲスいって、お前、誰?〟 と語っている。

 そりゃそうだ。今まで俺だって普通に使ってきた言葉だ。


「いや……その表現はちょっと……そぐわない」

「とりあえず健司、なんか食おう。このカレー食うか? めちゃ美味そうだぞ? 白飯ってあるのかな」

 ナツは炊飯器に視線を移す。

「いや、今は、それは……食べられない。……とても。白飯はまだある」

「そっか。もう俺が作るわ。そこに座っとけ!」

「え……。できんのか?」

 バーベキュー料理以外のものが。

「ちょっとはな」


 それからナツは三十分くらいで炒飯を作って、俺の腰掛けるソファの前のテーブルにドン! と置いた。一颯ほどの手際の良さはないけど、俺や夕凪よりは全然まともだ。

 ふわふわの卵とイマイチ不恰好な野菜がふんだんに入っている。

「まず、食え!」

「い、いただきます」

 一緒に持ってきてくれたスプーンで口に運ぶ。

「美味い……」

 空きっ腹に染みるように醤油の風味と温かさが広がっていく。

「よかった」

「変わったな、ナツ。こんなことまでできるようになってるとは……」

「いや、お前のほうが変わったって。泣いただろ」

「げ……」

 

俺は両手で目元をごしごし擦った。

「健司は中高のラグビーじゃ常に学年のリーダーだったし、最後は部長もやってた。いつも泣く方じゃなくて慰める方だった。自分だって泣きたかっただろうに、まわりを慰めてまわってた。俺が、おっそーい初恋でうだうだやってる時からわりと最近のトラブルまで、常に慰めて鼓舞する役回りだったもんな」

「ナツ、だーだー泣くもんな。中高のラグビーなんて、試合に勝っても負けても泣くし」

「まあもうな。お前の前で格好つけるのやめたわけよ。ある程度のとこから」

「そっか」

 俺はソファの上に胡座をかき、毛布を頭の上まで引き上げた。

「何があったのよ?」


 吐き出せば楽になるし、どっちにしろ、Canalsの社長であるナツには、知っておいてもらわないといけないことが多すぎる。

 でもなんて切り出したらいいのか迷っていると、ナツのほうが語り出した。

「お互いに感情の制御ができなくなり勢いで性交渉をなさり、でもその前に片付けなくちゃならない課題があったことを後で知ったか、気づいたか。だからそれを片付けるまで別れるって感じ?」

「うわー……」

「ビンゴ? おもれー。しんせーん! お前、初恋に苦しむ十八歳だった俺になんて言ったか覚えてるか? 中坊見てるみたいで笑える、ってぬかしたぞ。余裕なさすぎ! って。まさに数年後の今、ブーメランなんだけど」

「いや、うん。そう、だったよな。……今回の自分の所業には、自分ですげーびっくりしてる」

「三時間の交際、って何? あのドラマでよくある、服脱ぐのももどかしく抱き合いながらベッドにもつれ込む、みたいなやつをやってのけたわけ?」

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