◇◇村上健司◇◇ 悔恨

「一颯……」

終わったあと、一颯が、俺に背中を向けて肩を振るわせている。やっと俺のものになったのに、確かに俺を好きだと言ってくれたのに、なんで背を向けるんだ。

むき出しの肩にそっと手をかける。

「泣いてるの?」

「泣いてないよ……」

「俺、乱暴だった? 一颯、かわいくて、愛おしすぎて、俺夢中で……途中から記憶が曖昧……。なあ、一颯……」


 かわいかった。恋しかった。理性なんて霧散するほどかわいくて、心臓がちぎれるように切なくて、強く強く一颯を求めた。俺、何したんだろう、と不安になる。

 背を向けられていることに耐えられず、俺はできうる限り丁寧に彼女を反転させる。一颯は俺の胸の中に深く顔を埋めてきた。

まさか、初めてだった? あの家にいたんじゃ、恋愛なんてできなかったんだろうか。

「一颯、初めてじゃ……」

「違う。大学生の時につき合ったことはあるから。バレて、すぐ別れさせられたけど」

「……なんて野郎だよ。……じゃ、今でもそいつの事が忘れられない、とか……」

 一颯の心に他のやつがいるなんて、考えただけでナイフで胸をズタズタに切り裂かれる感覚がする。


「まさか。もう五年以上昔のことだよ」

「そっか。よかった」

「でも、もっともっと昔、好きになった人の事は、きっと心のどこかにいつもあった気がするんだ。記憶喪失になっても。ごめんね、最初ひどい態度とって、取り返しのつかない事をしようとしたのに、こんな事思うなんて……おかしいよね」

「それ、俺のこと?」

 昔から変わらないサラサラの髪をゆっくり撫でる。

「うん」

「じゃあ、なんで泣くの?」

「健司のこと、わたしの事情に巻き込んだ。婚約してるのに、洋ちゃんの事は裏切った」

 俺は一颯を、胸のもっと深くに強く抱きしめて抱え込む。髪をなん度もくしけずる。この子が心の底から愛おしくて大切すぎて、俺自身がどうにかなってしまいそうだった。


「なんで一颯はそんなにいい子なんだよ。自分が何をされたかわかってるだろ? 違法だよ。人権侵害だよ。あんな婚約は無効だって」

「そうだね」

「俺は一颯を、今の状況に追い込んで育てたあいつらが許せない」

「……うん」

 一颯の返答が弱い。どうしてなのか、なぜ一颯がこんなに罪の意識に苛まれているのか、おぼろな輪郭が形作られてきたような気がする。

「ごめん、一颯。俺、急ぎすぎた。我慢できなかった」

 声が震える。涙が込み上げてくる。


一颯は、たぶんまだ心の整理がついていない。

無理に婚約者にされたとはいえ、兄弟のように育てられて、一時期は自分が面倒を見てきた男を裏切った。品川に対してよりも、洋太って男にこそ、恋愛感情ではないにしろ気持ちがあることがわかる。

 俺はそれに気づいてしまった。一颯の実家にいる時にかかってきた電話で、そのことを潜在的に悟ってしまったのだ。

だから俺は焦っていた。だって、取られたくない。どうしてもどうしても取られたくない。誰かにこの子を取られたら、俺が壊れてしまうんじゃないかと思えた。

俺よりもずっときれいな男で、選ばれた人間にしかできないモデルの仕事も、一颯のためなら辞める、と簡単に言いきる。あいつは、一颯に対して本気なんだ。

一颯にはその気持ちが伝わっているから、不当な婚約だとわかっていても切り捨てることができないんじゃないのか、裏切りだと感じて辛いんじゃないか、と理解してしまった。洋太に対して恋愛感情はない。でも家族としての愛はまだ残っている。

卑劣なことをしていたのは品川だ。一颯よりひとつ上だという洋太が、どこまで知っていたのかは不明だ。


 俺は……一颯の気持ちよりも、自分の中に芽生えた恐怖を取り払う事を優先させた。あいつらと同じじゃないか。

 それなのに一颯は、「健司のこと、わたしの事情に巻き込んだ」と俺の心配をして泣いている。

 一颯は潔癖だ。俺は汚れている。一颯に対して、どうしようもなく汚れている。

「健司……?」

「ごめん、待てなかった。一颯の気持ちを尊重して耐えて待つ、って大人な態度が取れなかった。だって待ったら、待ったら一颯の気持ちが変わっちゃいそうで……怖かった。マジで……ものすごく怖かったんだ、たぶん」

 中学生や高校生のガキじゃないのに、もう二十六だっていうのに、俺はいったいどうなっちゃってるんだ。俺は、もしかしたら、あいつよりずっと弱いんじゃないだろうか。


「健司。なんで泣くの?」

一颯の手が下から伸びてきて、俺の髪の毛をそっと包む。

「……泣いてない!」

 涙が込み上がってくる自分の対処方法がわからない。

好きな女の前で涙を見せたことはなく、今、そういう状況であることに混乱し狼狽する。

 これって俺なのか?

「泣・い・て・る!」

 ベッドの上の方にずり上がってきた一颯に、頭を抱え込まれる。その肌の香りとぬくもりに、さらに涙が込み上げ、もう観念した。

「……俺が性急に求めたせいで、一颯が傷ついてるから。俺の気持ちじゃなくて、一颯の気持ちを一番に考えられなかった」

「自分の気持ちに押さえが効かなかったのは、わたしだって同じだよ」

「でも、一颯はこうなったことに、後ろめたさを感じてる」

「……それは……」

 嘘をつくのが苦手な一颯は口ごもる。


「大事にする。一颯の大事なものは俺も一緒に大事にするよ。二葉ちゃんも……洋太さんも」

「洋ちゃんも?」

 そこで一颯が身じろぎをし、俺の顔を覗いてくる。泣き顔を見られるなんて耐えられなくて、一颯の肩口に頭を突っ込む。

「一颯が、ちゃんと心の整理がつくまで待つよ。めちゃくちゃ……もうめっちゃくちゃ怖いけど」

「なんで怖いの? 何が怖いのよ?」

「一颯の心が、俺から動くことが。洋太さん、めちゃイケメンだし。だけど一颯の幸せは一颯が決めるべきだから。洋太さんともちゃんと話し合えよ」

「嫌な気持ちにならないの?」

「ならない。いや、ならないように努力する。約束する。耐えるよ。待つ」

「健司……」


「月城家の書類に関する事は一緒に対応しよう。でも一颯の心の整理が完全に済むまでは、こういう時間は持たない。無理に求めたりしないから」

 そこで一颯は俺を両手できつく抱きしめた。

「わたしの気持ちが健司から動くことはないよ、絶対に。記憶を失ってた間にも、恋愛はした。でもこんなに強い想いを抱いた事はない。小学校からずっと健司のことを想ってた気がするもん」

「俺もだよ。真剣な恋愛をいくつも経験したはずだ。でも一颯を想うほどの切実な気持ちはなかった」

「洋ちゃんと婚約は解消してくるよ、ちゃんと。自分の本心を伝えてわかってもらう。もしかしたら泥沼かもね。品川の叔父さんが絶対に出てくるもん。そのために、今日持ち出した書類は必要かも」

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