◇◇月城一颯◇◇ 感極
最後までは言わせてもらえなかった。
わたしの唇は、村上健司の唇で塞がれていた。唇が離れた時、頭が横に傾き、右目の目尻から涙が頬を伝って流れ落ちる。
「……裏切りだよ……。こんなの」
「
「でも……サインしたのはわたしだ」
「そうだな。天罰がおりるかもな。怖い?」
ゆるく首を振る。もう何も歯止めにはならない。天罰も。倫理観も。わたしを慕ってくれる者への強い強い罪悪感も。
「俺が強引なんだ。もう我慢できない。ぜんぜん我慢が効かない。一颯は何も悪くない。天罰は俺が全部引き受けるよ」
村上健司はもう一度わたしを抱きしめた。
彼の左手はわたしの身体を抱き、右手は後頭部を強く押さえている。右手には強い力が加えられ、角度を調整されて深い口づけをされる。舌で口内をやみくもに蹂躙される。
情熱的で、野生的で、本能剥き出しで、わたしの過去も思考も何もかもを彼方に飛ばしてしまうような、甘く激しいキスだった。
二人とも息が続かなくなり、一度離れる。至近距離でぶつかった彼の瞳はキラキラと濡れている。
「乱暴すぎるよな。謝んないけどな」
言葉を奪われたわたしは、ただ黙って頷いた。涙が床に散る。
わたしの頬を撫でる親指の腹は、大きく震えている。さっきあんなに情熱的なキスをした人のものと、同じだとはとても思えない。自惚れなのか、恋心が満ち溢れている、知りうる限りで一番優しい指の動きだ。
「後悔、してんの?」
「後悔したいよ。でも、わたしももう我慢が効かない」
そこで村上健司はようやく表情を緩ませ、両方の口角が引き上がる。大雨の中、車のヘッドライトの滲んだ光が一瞬部屋に鋭く差し込んだ。目の前で、天使と悪魔の混血児が白い歯を見せて蠱惑的に微笑んでいる。その妖艶な瞳にわたしは絡め取られる。
「行こう、一颯」
「うん」
どこに連れて行かれるのかわかっている。でももうわたしの中に理性は、砂つぶほども残っていなかった。わたし達は手を固く握りしめ合う。
「絶対忘れもん、しそうだよな」
「頭がついていかない。トートバッグだけは……」
「それと揃いのダウン。もうあとは、そのうち取りに来ればいいよ」
「一階……」
「枝でガラスが割れてリビングが水浸し」
「そっか」
わたし達は重要書類を詰め込んだトートバッグと、お揃いのダウンジャケット、あとはバスタオルや備品を詰めこんだ袋を適当に手にし、手を握り合って実家を後にした。
村上健司が車のアクセルを強く踏み込んでいる。この大嵐の中、法定速度以上のスピードが出ているんだろう。体に馴染んだ結構なドライビングテクニックだな、と虚ろに思う。ハンドル操作で動くごつごつした拳が妖艶に見え、胸の高鳴りが止まらない。
村上健司のマンションにつく。彼はわたしの肩を抱いたまま、竹や熊笹で彩られた粋なエントランスを足早に向ける。部屋は一階の突き当たりだ。
わたしを抱いている左手は離さずに、荷物を床に落とすと、ポケットを探って鍵を取り出す。焦慮に駆られながら鍵を開けると、わたしを引っ張り込むようにして中に入る。
玄関の内側に入るなり、彼は荷物を手放し、わたしを両手で、力強く抱きしめた。首筋に鼻先を強く擦り付けられ、目眩と込み上げる甘さに足がもつれ、力が入らない。わたしは村上健司にしがみつく。
抱き合ったままふたり、もどかしく靴を脱いだ。灯りもつけない。
「こっち」
わたしの手を引き、寝室に連れていく。この間は出てきたミケとチャピが、あまりに遅い時間だからか猫用のベッドで寝ている。
「悪いな、お前ら」
村上健司はそのベッド二つを両手で引っ張り、リビングに出し、扉を閉めてしまった。そんなことをされても二匹とも薄く目を開いて、村上健司を確認すると、そのまままた眠りに落ちていった。
暴風雨の真夜中。庭付きの一階で、生垣を薙ぎ倒すかのように吹き抜ける風雨の音が響く。
「悪いの。ミケとチャピ、かわいそう」
「だって……。人間にもどうにもならない事情がある」
拗ねた口ぶりをするとまたわたしを抱きしめる。今度はセーターがめくりあげられ、あっという間に首から抜かれる。協力する体制を作っているわたしもどうかと思う。
村上健司はほぼ片手で自分のセーターと肌着を、一緒くたにして首から抜き取った。服を脱ぎながら、競るように抱き合い、わたしと一緒にベッドにもつれ込んだ。
なんだか安っぽい映画のワンシーンみたいで笑いが漏れる。
「なんで笑うんだよ」
「いや……。こういうの、ほんとにあるんだな、って」
「俺だって初めてだよ。こんなの」
喋る間も彼の手は止まらずに動いている。すでに彼は上裸で、筋肉だけの硬い胸板が目の前にある。自分のベルトのバックルを操作しながら、わたしのシャツのボタンを片手で器用に外していく。
ヘッドランプだけが灯る淡い柿色の室内で、わたしは村上健司に抱かれる。
急いたキスが体中に降り注ぐ。甘さと快感に強くシーツを握りしめるわたしの手を、村上健司は自分の背中に誘導した。
「ひ……引っかき傷が……できちゃうよ」
「その方がいい」
「そ……う」
「あと、村上でも健司でもなんでもいいから、名前、呼んで。一颯」
「け、健司……」
外も暴風雨。そしてベッドの上でも、熱帯性の暴風に狂わされる。
背中で漆黒の翼を大きく広げた獰猛で美しい天使と悪魔の混血児に狩られ、わたしは捕食される。
得も言われぬほどに甘美な夢の中に引きずり込まれていく。自分の唇から紡ぎ出されたものだとは、とても信じられない嬌声が宙を舞い、恥ずかしくて死にたくなる。
この恋しさがどれほどの罪になっても、もう戻ることはできないんだと、わたしは熱風の中で悟る。
恋しくて、切なくて、狂おしくて、でもこれはやっぱり罪深いことで、わたしはたぶん、最後は声をあげて鳴いた。
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