◇◇月城一颯◇◇ 感極

「えっ……」

「あんな奴より俺の方がよっぽどお前のことが好きだ。小学校五年から卒業してクラス会に出てこなくなった中二の頃まで……。俺の最初の恋はお前だった」

 驚きすぎて、声が喉に張り付く。その間にもわたしの手首を掴む村上健司の力は、どんどん増していった。

「スタバで再会して、Canalsに入社して。二十六になったお前を前に、気持ちは募る一方なんだよ」


 たぶん、わたし……身体の機能がおかしくなっている。頭上が大きく開け、世界が果てしなく広がったような浮遊感に溺れそうになる。現実のことだとは思えない。

 感情が、雫になって両の眼(まなこ)から溢れ出て止まらない。

 その一方で、目の前の人に向かう気持ちが強ければ強いほど、冷静になっていく自分もいるのだ。

 村上健司を、わたしの事情に巻き込んではいけない。不幸の源のようなわたしに、会社とは別のところで関わらせてはいけない。絶対に。

 わたしが声を出せるようになるまでに、ずいぶん長い時間がかかったような気がする。


「か……勘違いだよ」

「勘違い?」

「初恋、だって言ってくれるなら……。大人になって初恋の相手に再会してその相手が、両親を失って記憶喪失になってる。叔父から利用されてる。昔の村上の性格を考えると、救済欲求が働いてもおかしくない」

「救済欲求?」

「そ、そう。救済欲求って……恋愛感情に繋がるんだって」

「そんなんじゃねえよ。月城より困難な状況のやつだって世の中にはいる。実際に会った事もある。毒親だの宗教にハマってる親の子だのな。そういう子に同情はしても、恋愛感情なんて抱いたことはない」


「…………」

「俺のこと、どう思ってる?」

 うつむく。その瞳の煌めきに飲み込まれないように、必死に自分のつま先に焦点を合わせる。

「Canalsの……副社長」

「……だけなら、こんなに泣くはずはないよな?」

 村上健司の声の調子に、強い祈りのような色を感じる。鳩尾を貫く、甘さと切なさに窒息しそうだ。


 激しくなっていく外の大雨と雷に、強いはずの覚悟までさらわれそうだ。

 駄目だ。絶対にこの人を巻き込むことはできない。それにわたしは婚約している。

「それ以外の気持ちはないよ!」

 叩きつけるようにわたしは床に向かって言い放った。

 と、同時に、下のリビングからガラスが割れたような大音響が轟いた。おそらく、どこかのガラスが本当に割れたのだ。手入れをしていない庭木は茂り、リビングのガラス窓に大枝が接触もしている。

「……見てくる。月城、ここの書類、入れちゃえよ」

 さっきまでの強気が失せた、悲哀さえ感じる調子で呟く。

 わたしが返事をする前に村上くんは立ち上がった。部屋から出ていくその背中を見送るわたしの頬には、また新しい涙が伝った。

「なんでこんなことに……」


 混乱を極めたまま、それでも書類を片っ端からトートバッグに詰め込む。

 村上くんに伝えたことは、実は半分は本当の気持ちだ。わたしを好きだなんて、思い込みじゃないのか。


 クラスのリーダー的存在でありながら、優しい人だった。小学校時代、ふざけてわたしから走って逃げていても、ちょっと転んだふりでもすればすぐに戻ってくる。何度同じ手を使っても、ちゃんとわたしのところに来てくれる。

 わたしが初恋の相手だと思ってくれているのなら、救済欲求から恋愛感情だと錯覚してもおかしくはない。


「へへ……。両想いだったんじゃない」

 今はともかく、小学校時代は、わたしと村上健司は本当に両想いだったのだ。

 苦労して用意したのに渡せなかった卒業間際のバレンタインの記憶は苦い。

 わたしは荷物の入ったトートバッグをそのままにして、廊下に出た。

 村上くんはまだ戻ってこない。

 下からは大雨が降り込んでいるような、さっきまではなかったようなものすごい音が響いてくる。リビングは水浸しかもしれない。でも、意識が、そういう方向からかけ離れた場所にある。


 わたしは自分の部屋に入り、しゃがんで、机の一番下の抽斗を開ける。そこには、ラッピングされたままの手作りのチョコレートが、時を経てそのまま残っていた。

 小学校六年、卒業間近のバレンタインにわたしはこれを作り、でも当日、渡すことができなかった。

 お菓子作りなんてやったことがなく、不恰好もいいところになってしまったチョコレート。他の子が作ったかわいいチョコに気後れしてしまったこともあるけれど、一番の原因は勇気がなかったことだ。

 そっとラッピングを開いてみる。すでに白い粉状のブルームがチョコ全体を不均等に覆っている。ハートマークの中に健司と入れたローマ字も、もう一部分しか読めない。


 一緒に渡す予定で手紙も書いたはずだ。

「この頃に戻れたら……」

 チョコに触ったら、真ん中からパッキリ割れた。白い粉を散らしながらこぼれ落ちたチョコを拾おうとしたその時、背後から伸びてきた腕がそれを素早くさらってしまった。

 わたしは驚き、振り返る。そこには村上くんがわたしと同じようにしゃがんでいたのだ。

 大嵐で、村上くんが階段を上る音も、ドアを開けた音も聞こえなかった。意識がこのチョコに集中していた。

「こ、これは、その……同じ名前の人がいて」

「名前なんて読めないだろ。めちゃくちゃ時間が経ってる」

 そうか、いや墓穴を掘ったのか。でもそれなら何もわからないと、ほっとしたのも束の間、村上くんはまだ引き出しの中に入っていた手紙に手を伸ばした。

 その手紙の宛名には、はっきりと〝村上健司さま〟と書いてあるのだ。


「だめっ」

 わたしは村上くんの手からその手紙を取り上げた。

「同姓同名?」

「……」

「違うよな? これ、いつのバレンタインのチョコ?」

「……小六の卒業前。仲よかったから……お礼に」

「じゃあ、その手紙、読んでもいいんじゃないの? 俺に書いてくれたんだろ?」

「……だめだよ」

 わたしは手紙を胸の奥深くに抱きしめた。

「一颯……」

 村上くんはわたしの名前を呼んだ。心臓が甘く痺れる。切ない感情が理性を押しつぶしていく。

 彼は両肩に手を置き、自分の方に反転させた。わたしは完全に腰を抜かした状態で、村上くんがそうすることはしごく簡単なことだった。近距離で視線が絡み合う。

 名前を呼ばれたこと、両肩に置かれた手の重さ、その手が震えていること、全てが冷静な思考を奪う。判断能力はゼロになり、剥き出しの本心だけが残った。


「わたし……村上が好きだった。小学校の時。でも勇気がなくて渡せなかった」

 え……。わたし今、何を……。

 自分のものとは思えない告白が口をついて流れ出ていた。

「小学校の時だけじゃないよな? 今もだよな?」

 村上健司の手がわたしの背中にまわり、自分の方に引き寄せようとする。わたしはなけなしの理性を総動員し、彼の胸に両手をおいてそれを阻止する。

「好きだよ、一颯。小学校の時も、今も。再会してからどんどん……」

 手から力が抜け落ちていく。駄目だ、駄目だこんなことは……。

「俺が好きじゃないなら押しのけろよ。突き飛ばしてくれて全然いい」

 突き飛ばそう。


 弱く、わたしはその胸を押したかもしれない。弱すぎて、それは押された本人にすら響いていないだろう。でも、でも両手はまだ村上健司の胸の上だ。二人の距離をゼロにする最終砦をわたしは外していない。

「その手を外せよ一颯。その手で俺の背中を抱けよ」

 命令形を、懇願の眼差しで口にするのはずるい。わたしの視線を掬い取るように、無理に合わせてくる、その瞳の色が苦しそうでやるせない。八十パーセントの自信と、二十パーセントの恐怖が織り混ざる表情に惹きつけられ、体の自由が効かない。

 わたしの手はいつの間にか下に落ちていた。

「好きだって言えよ、今も俺を好きだって……」

 外は嵐。わたしの理性は大風にさらわれていった。残ったのは目の前にいる人への、強い強い想いだけ。

「好きだよ……だいすーー」

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