◇◇村上健司◇◇ 約束

「んー!」

 俺は両手を大きく広げて腱を伸ばした。

 何時間も泥のように眠っていたらしい。

 月城はどうしただろう? ソファから立ち上がり、寝室の方に足を運ぶ。軽くノックして小声で月城を呼んでみたけれど、返事はない。まさかひとりで帰っちゃったわけじゃないよな。


 恐怖に駆られた俺はドアをそーっと開けた。もし、寝ているのなら起こしたくない。

 月城は、俺のベッドで横向きになり、日記帳を抱えて眠りについていた。

 俺はベッドサイドに膝をつく。あどけない寝顔に、切ない感情が湧く。

「全部読んだのか」

 頬にはいく筋も涙の跡が残り、まだ乾ききっていない。横になってずっと日記を読んでいて、そのまま眠りに落ちたんだろう。

「月城……」

 我知らず、彼女の頬に手を伸ばし、その涙を拭いとる。人差し指についた水滴に、唇を押し当てていた。


 その瞬間、月城がうっすらと目を開けた。俺はめちゃくちゃに焦って、口元にあった右手を後ろに隠す。これはあやしい動きだ! と気づいたけれど後の祭りで、余計に挙動不審になる。

「わたし、寝てたんだ」

 俺の不埒な行動に気づくこともなく、月城は呑気な疑問を口にする。

「……そ、そうな。いや俺がガッツリ寝過ぎたから」

「当たり前だよ、村上くんは二十四時間起てたはずだもん。今、何時?」

 月城は上半身をベッドから起こした。

「二時くらい」

「村上くん、お腹すいたよね」

「そ、そうだな」


 俺はまだ胸の鼓動の速さがおさまらず、それを隠そうとして、余計におかしな受け答えをしてしまっているかもしれない。

「どうしたの?」

 怪しげな心のうちが見透かされた。月城の涙とその後の自分の行動に、神経のほとんどを持っていかれている。

「いや……。日記全部読んだのかな、って……。月城、寝ながら泣いてた。もしかして少しは思い出した?」

 全く平常心に戻れず、俺は黙っているべきことまで口にした。

「たぶん、ほぼ全部思い出したと、思う」

「マジか!」

 大きな声が出た。それならもう、悪人の〝叔父さん〟に見切りをつけられる。

 そこで、情けないことに俺の腹が鳴った。気まずい沈黙が一瞬流れ、その後に月城が口を開く。


「もし、よかったらさ、わたし、ご飯作るよ」

「えっ? でも月城、手の甲、怪我してるじゃん」

「あんなのかすり傷だよ。甲の上の方だし、防水の絆創膏貼ってもらったもん。夕凪ちゃんが食材いっぱい買ってきた、って言ってたよね?」

「そう。冷蔵庫にパンパンに入ってた。大学が近いからたまに来るんだけど、ここまでたくさん食材買ってきたことないから、びっくりしたよ」

 そこで月城は俯いた。

「何か村上くんに話したいことがあったんじゃないかな。ご飯食べながら聞いてもらおうと思ったところに、わたしが来ちゃったから、話すタイミングを逃したんじゃないかって……、申し訳なく、思う」

「なんでそんなこと感じるの? 夕凪と会ったの初めてだよな?」

「うん。なんとなく。玄関出る時、明らかに肩の線が落ちてた。あとで、電話してあげてほしいな」

 よく見てるな、人んちの妹のことまで。

 起き上がり、腰を捻るようなストレッチをした月城は、本当にキッチンに向かった。


「開けてもいい? 冷蔵庫」

「あー、いいよ」

 月城は冷蔵庫を開け、中身を確認しているようだった。

「鍋、って言ってたよね? 鳥つくね入れるつもりだったのかな。鳥のひき肉がある」

「あいつにそんな高度なもんが作れるかよ」

 そこで月城はちょっと笑った。

「仲がいいね」

「普通だろ」

「鳥つくね、作る。ベースの味は何が好き? ざっと見た感じ、水炊きか、豆乳鍋かな。あ、キムチとコチュジャンがあるからチゲ鍋もできる」

「マジか。俺、辛いの、好き」

「じゃあそれにしよう」

「ねえ、粉唐辛子とかって、ある?」

「そんな本格的なもんはない。一味でいいか?」

 コチュジャンだって、半年くらい前に友達数人が来て宅飲みした時に買って、それ以来使っていない。その時に男友達が何かのタレに使った。

「一味で充分! 普段、作ってはいないみたいだね。あれだけ忙しいもんね。ご家族が心配するはずだよね。夕凪ちゃん、ママが心配してるって言ってたもんね」

 冷蔵庫の中にいくつも積んである宅配食の箱を手に取り、それに視線を落としている。


「まあな。ひとりだと作る気も起きないし」

「でもチューブのにんにくとか、調味料も結構そろってるね。休みの日はやったりする?」

「たまーーにな」

「待ってて。すぐ作る。エプロンってあるの?」

「悪い。ありません」

「了解。別に平気」

「あ、土鍋はあるんだ」

 月城は腕捲りをすると手を洗い出した。


 それからネギや椎茸、ニラ、水菜、トマト、を包丁で捌いていく。そのスピードが料理屋か! ってくらいリズミカルで速かった。鍋の湯を沸かしている間に、ちゃっちゃと鶏団子のタネを作り、チゲ鍋スープの調味料を合わせる。

 感心するくらい手際がいい。もう長いこと料理をやってきたに違いない。

「持っていくよー。お椀と取り皿とお箸、出してくれる? あ、鍋敷あったほうがいいでしょ? ある?」

 月城は両手にミトンをはめ、土鍋の取手部分に手をかけるところだった。

「いいよ。それ重いだろ? 俺が持ってく」

 俺や夕凪がやったら、動画アプリで手順を知るところから始まり、二時間はかかりそうな作業が二十分で済んでいる。


 俺はキッチンに入り、頼まれたものを全部用意し、月城に渡す。それからチゲ鍋をローテーブルまで運んだ。

 チゲ鍋の他には、水菜を使った韓国風のチョレギサラダも用意されていた。

 俺が蓋を開けようとすると、咄嗟に両手を出して静止させる。

「待って! あと十秒」

「ん?」

 少しの間、鍋を見つめていた月城は、ミトンをはめて土鍋の蓋を開けた。湯気とともに、香辛料のいい香りがぶわああーっと立ち上る。見るとオレンジ色のスープの真ん中に、芸術的なまでに完璧な半熟卵が乗っていた。

「うーまーそー!」

「お口にあうと、幸いなんだけど……」

 二人でいただきます、と手を合わせ、俺は月城の分と自分の分をお椀に取り分けた。

「すげー美味い! 店でもこんな美味いの食ったことないぞ!」

「ほんと? 嬉しい! ありがとう」

「いや、これ、感激なんだけど!」

 最初はスープだけで食べ、頃合いを見て半熟の卵を割ると、黄身がとろーりとオレンジ色の具材の上に流れる。味変のまろやかさも完璧だった。


 月城の料理の腕に感心しながら、俺は妙な違和感を覚えた。こいつ、こういうことするの、好きだったっけ?

 俺は六年の時の調理実習のことを思い出していた。

「月城って、昔は料理、壊滅的だったぞ。調理実習で、俺らのグループのカレーだけ、ルーの塊が浮いてるスープみたいになっちゃって」

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