◇◇月城一颯◇◇ 覚醒

「いや、夕凪。そういうんじゃないんだよ。そもそも俺は飲んでないし。昨日はほんとに仕事上、どうしても夜中に会社に残んなくちゃならなくて。だからお前にきてもらったんだよ。ずっと人が帰ってこないのは寂しいかと。あとミケとチャピの飯がな。夕凪に懐いてるし何より心配で。あ、ほら月城、上がれよ」

 村上くんがわたしの腕を軽く叩いて促す。迷った末にわたしはとりあえず靴を脱いで上がらせてもらう。


「いいよいいよ。お兄の頭の中が仕事ばっかりなのは、知ってるし。珍しくずーっと彼女がいないと思ったら、このような綺麗なお姉様と仲良くなりかけなんだもんね。お兄、あたし帰るね」

 夕凪ちゃんは伸びをしながら踵を返し、ベッドルームに向かった。

「待て、夕凪。俺、ちょっと寝たら送ってくよ」

 そこで夕凪ちゃんはくるりと振り向いた。

「あっ! お兄、もしかして実家の車、乗ってきたんじゃない? 月城さんが自分ちもわかんないくらい酔い潰れたなら。ママの? パパの?」

「母親の」

「じゃあ、あたしがそれ乗って帰ればちょうどいいじゃん。お兄、置きに帰らなくて済むでしょ?」

「そっか、なるほどな。だけど心配だなー。お前、免許取り立てだし。車庫入れヘタだし。車線変更ぎこちないし。合流もイマイチだし。あと細い道で対向車とすれ違えないよな」

「もう一年たってるよ。お兄に付き合ってもらって練習してた頃より、ずっと上手くなってんの!」

 そう言うと夕凪ちゃんは今度こそベッドルームに入ってドアを閉めてしまった。

「え、免許? 夕凪ちゃんいくつ?」

「あいつ、ガキっぽく見えるだろ? でもあれで二十歳の大学生なんだよ」

「かわいいね」

「顔だけな」

 全部がかわいいよ、と村上くんの態度にも表情にも出ている。六つも年下の妹はかわいいものだろうな。


 そうこうしているうちに夕凪ちゃんが、タイトなニットワンピース姿に着替えて出てきた。手にはそこそこ大きなバッグを持ち、腕には丈の短いダウンジャケットをかけている。

「お兄。ママがちゃんと食べてるのか、って心配してるからさ。野菜が取れるように鍋でもやろうと思って、めっちゃ食材買ってきたんだよね。全部、冷蔵庫に詰め込んどいたから月城さんに作ってもらって」

「ごめんな、夕凪。今度なんか好きなもん買ってやるから」

「うひゃー。超期待してる。お兄の会社が加速度的急成長で、羽振りがいいのはラッキー! あたしにまわってくるもん」

「あ、夕凪。お前、絆創膏って持ってる?」

「絆創膏?」

「うん。月城、手ぇ切っちゃったんだよ、ガラスで」

 えっ……。とびっくりする。自分でもこんな小さな傷のことは忘れていた。見ると村上くんが巻いてくれたハンカチがまだ左手にある。

「ああ、それですか?」

 夕凪ちゃんはハンカチの巻かれたわたしの左手に視線を落とした。そして財布から絆創膏を出す。わたしの左手のハンカチを取ると、手際よく絆創膏を貼ってくれた。

「ありがとう、ございます」

「いえいえ」


 村上くんが手にしたままだった車のキーをさらって、厚底のスニーカーを履き始めた。そのまま、ひらりと手を上げると、玄関を出てしまう。微妙にその肩が落ちていたように思う。

「夕凪ちゃん、いつもあんな感じ? 無理に明るくしてたみたいで……気になる。村上くんになんか話があったんじゃないかな」

「んー。ちょっと拗ねてるかもな。いいよ、あとで埋め合わせはする。あいつの大学ここから近いんだよ。だから昨日、ミケとチャピの世話を頼んだ。あいつに懐いてるからさ。最悪、朝方まで四十二階の多目的ルームで張るつもりだったから」


 リビングには巨大な長方形のローテーブルを囲んで、布張りのソファが三方向に置いてある。ここに集まって会議もできそうな雰囲気だ。

 リビングの広い、大型1LDKのようだ。村上くんはソファのひとつに、クッションや毛布を整えて、すでに就寝の用意をしている。

「悪いけどマジで限界。月城は向こうのベッド使えよ。夕凪が寝たあとで、俺直接じゃないからいいよな? もうシーツとか替えんの面倒で……でもヤだったらクローゼットに洗い替えが入ってるから勝手に使って……」

 すっかり横になって毛布を被り、今にも寝息を立てそうだった。わたしは荒れ果てた実家でも、車の中でも寝かせてもらったけど、村上くんは、きっと二十四時間ぶりくらいの睡眠のはずだ。主が帰ってきたのがよほど嬉しいのか、ミケとチャピが村上くんの顔の両横で丸くなり始める。


「じゃあ、お言葉に甘えて、わたしももうちょっと寝かせてもらいます」

 返事の代わりに寝息が聞こえてくる。わたしはベッドルームに入って行った。

 ロングコートを脱ぎ、畳んで床におくと、手持ちのかばんの中を漁った。

「あった。入れといてくれたんだ」

 そこには実家で見つけた鍵付きの日記帳が収まっていた。

 わたしは鞄から出したハンドタオルを枕の上に拡げると、ゆるいニットとマキシ丈のスカートという昨日働いていたその格好のまま、ベッドに潜り込む。お風呂に入っていないどころかメイクも落としていない。せめてファンデーションがつかないようにと、タオルだけでも置いた。真冬だったことがまだ幸いだ。


 夕凪ちゃんが寝たからいいだろう、とか言っていたけれど、確かに若い女の子特有の甘い香りがかすかにするけれど、圧倒的に強いのは、男っぽい……村上健司の匂いだった。実家で敷布団だと勘違いしていた、村上健司のダウンジャケットの内側から漂うものと同じぬくもりに包まれる。なぜかとても安心できた。

 短時間だけどぐっすり眠ったせいか、そこまでの眠気はなく、それよりも日記に向かう関心の方が大きい。


 実家に行ったことでかなりの記憶を取り戻せた。とはいえ、まだ、水滴で曇ったガラス窓の向こう側を、無理に覗いた時のような漠然とした過去の風景しか見えない。

 きっと、この日記によって得られるものは多いはずだ。他のノートには何も感じなかったのに、この日記にだけは、見覚えがあるような気がする。ここには強い思いが宿っている。

 横になってわたしは日記を開いた。鍵付きなのにその鍵がどこかにいってしまったこともちゃんと覚えている。一見、鍵付き日記だから開けられないように見えるだけだということも、ちゃんと覚えている。


 布団をかぶり、ページを繰った。スタートは小学校の五年生の終わり、一月一日。お正月に、父親から今年は日記をつけてみたらどうだ、とこれを渡されたらしいことが記されていた。

 中世の洋書のような装丁に透明カバーのついた、立派な日記帳だ。きっと父はわたしの趣味を考え、これを選んでくれた。その頃の記憶を失っている今でも、この装丁には惹かれる。 どうやらわたしは、書くことが好きだったらしい。

 海馬の底に沈んでいた記憶が掘り起こされていく。窓ガラスについた水滴が、少しずつ、でも確実に、取り払われていく。

 当時の喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、そして悩み。それがリアルに、日記帳のページの上に記されている。

 読み進めていくうちに、涙が伝った。


 そこに頻繁に登場する男子がいた。名前は伏せられ、〝K〟と表現されている。

 でも……わたしはその〝K〟が誰なのかを、思い出した。

 ついさっき、実家で眠っていた時に見た夢。あれはわたしの過去だ。押し寄せる記憶の波に、溺れそうになる。

 男子に囲まれて笑う小学生の〝K〟。わたしに向かい親指を立て、OKを示してドヤ顔をする〝K〟。ドキドキしすぎて心臓が壊れそうだった校外学習でのフォークダンス。勇気を出せなかった最後のバレンタイン。卒業式の後、大きく手をあげて光に溶けていくブレザー姿。

 日記に記してある過去の感情は、昨日のことみたいに心の中心を刺し貫く。胸が重機で潰されたように苦しい。

 そして、若いスーツ姿やビジネス用の私服に囲まれ、あの頃と同じ笑顔を見せる現在の〝K〟。

「皮肉だ……」

 未来のある地点でもう一度出会うために、小学校を卒業してからも努力を重ねてきた。


 でも、その地点はすでに通過してしまった。わたしが記憶を失っている間に。

 こんな形で再会するのなら、もう二度と会えない方がマシだった。わたしには、もう自由な恋愛など許されない。それ以前に、彼にとって、自分の宝とも言えるCanalsを危機に陥れたわたしの事など、もうそんな対象ではないに違いない。

「変わってないね……」

 日記をくまなく読み、ほぼ全ての記憶を取り戻したわたしは、ただただ涙にくれる。

 そして、日記帳の裏表紙の透明カバーの間に挟んである鍵を取り出し、握りしめた。チェーンで繋がれたこの鍵は、日記帳を閉じた状態では見えない。

 この鍵が、この日記帳の鍵ではないことも、わたしは思い出していた。


どのくらいの時間が経ったのだろう。

「月城……」

 わたしの頬が、熱いぬくもりによって擦られる。



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