◇◇村上健司◇◇ 約束
「えっ! そんなこと……」
月城は箸を持つ手を止めて目玉を上に向けた。記憶を漁っている。まあ、そこまでは思い出さないよな。
「あったような……気がする、んだよね」
「……マジで? そんなことも思い出せるまでになったの?」
「それね、さっきの日記に書いてあったんだ。だから思い出せたのもあると思う。わたしがルーを作る係で、確か小麦粉とかの配分を間違えて、他にもいろんな失敗が重なって、溶けない塊みたいになっちゃった……いや気まずかった、あれは」
「そう。月城が『あたし全然包丁使えない』って豪語するからルーの係になった。今から思えば一番高度かつ
「いや、でもさ。小学生の調理実習でルーを作らせるって意味わかんなくない? 今でこそルーから作ることもあるけど、あれ、そこそこ難しいよ? 火加減とか」
「そんなこともできるんだ。めちゃ美味いよ。すごいこれ……」
俺は手に持っていた椀の中のオレンジ色に視線を落とした。
「ありがと」
「でも月城ってさ、そういう女子が好きそうなことより、テクノロジーの進化とか、都市伝説っぽいことに興味があったように記憶してんだけど。昔、そういう話、俺とよくしてたんだよ。いつ頃には空飛ぶ車ができる、とかな」
「そう……なのかな」
「料理が好きになってたなんてな。人ってわかんないな。いつからやりだしたの?」
「中学……かな。好き、っていうか……。めちゃくちゃ嫌いではないかもしれない。食べてくれる人がいれば楽しいし」
「叔父さんの家に行ってからってことだよな?」
月城は俯いた。
苦労したんだな。と、思う。手際の良さから考えても、かなりの頻度でやっていたはずだ。強要されたわけじゃないのかもしれないけど、
それにしても、家に連れて行って、しかも日記を読んでから、月城は驚異的なスピードで昔のことを思い出している。漫画やドラマと違うじゃんか。今まで、どれだけ昔の記憶から遠ざけられて育ってきたんだろう。
「あのさ」
「ん?」
箸を口元で止めて、月城は首を傾げた。
「えっと、さ。いろいろ思い出したんならさ。俺のことって……」
「……」
「……やっぱいいや」
まさか日記に俺のことが書いてあるわけはないし、かといって「思い出せない」と現実を突きつけられるのはかなりきつい。
「……思い出したよ。村上」
「えっ!」
「……くん」
「ほんとに? いや思い出したなら、当時のままの呼び方でいいだろ。今さらくん、つけるなよ」
喜びの稲妻が胸に落ちる。俺を、思い出してくれた?
「ものすごく複雑なんだもん。当時の記憶もあるけど、やっぱりうちの会社の副社長としての記憶もあるし。あと、思い出せないけど同級生だって事実だけは知ってる、ってあの短時間の記憶も重いの」
「ふうん。でもこれからは、村上、でいいだろ。プライベートの時は」
「ハードル高いって」
「仲良かったんだって」
「うん。仲良かったよね。わたし、何やってんだろうね……。ほんとに申し訳ありませんでした」
月城は崩していた脚を揃え、両手を膝の上に乗せて俺に深く頭を下げた。
「いやいい! マジでやめて、そんなことすんの! 月城がしてきた苦労に比べたら俺なんて……。それにもう月城の実家ですでに頭下げられてるから!」
中学二年で、クラス会に来なくなってしまった月城。もともと月城は四年生の時にうちの学校にきた転校生で、親は転勤族だった。親の転勤だろうな、と諦めてしまわず、ちょっと調べてみれば良かった。実際何もない状態でそんなことをしたらただのストーカーだから、今になってしかそんなふうには思えないけれど。
せめて事故に遭ったという噂でも聞いていれば……。それも無理なのだ。本人が記憶喪失になっていたなら、当時仲良くしていた友達も、みんないきなり連絡が取れなくなって、どうすればいいのかわからない状態だったに違いない。
そして本人は入院し、退院後は叔父さんの家だ。月城の実家に訪ねて行っても誰もいない。荒れていく月城の実家を見ながら、彼女の友人たちは夜逃げかも、とか悲しく感じていたかもな。
「みんな、いきなり連絡が取れなくなったわたしのことひどい、って思ってるだろうな」
「連絡とって、こういうわけだった、って説明すればいいじゃん」
「……うん」
俯いて、とりあえず小声で肯定の意思を示した月城だけど、そうするつもりはないように見えた。
事情がある。何か月城にとって、昔の自分に戻って昔の友達と昔と同じ交流をすることが憚られるような、高い障壁がまだある。辛い事情がきっとまだあるのだ。
「月城にとってはきつい事実だろうと思うよ。だけど月城が叔父さんにやられたことは、人権を無視した所業だよ。当時の携帯に友達から連絡だってきてただろうに」
「そうだね……。だけど、育ててもらったから」
「携帯は?」
「なかったって言われてる。交通事故だし、それはそうなのかも……」
まだ〝叔父さん〟の罪を軽くしようとしている月城に、思わず小さな舌打ちが漏れた。それを聞いてしまったんだろう月城は、唇を引き結んで視線を伏せた。
やべえ。
月城は今、もっともセンシティブな時期だ。もっと気持ちを尊重した話し方を意識しないといけない。
だけどどうしてもその〝叔父さん〟って野郎をぶっ飛ばしたい気持ちがむくむくと湧く。冷静になれ。実際、月城が中二から育ててもらった過去を、なかった事にはできないのだ。
「全部、頼ってほしいよ。だけどまだそんな気にはなれないと思う。でもこれだけは教えてほしい。どうしてCanalsを狙った? 叔父さんになんて言われたんだ?」
「それだけは……ちゃんと話さなきゃね」
「できれば、詳しく聞いてもいいか? これは俺だけの問題じゃない。Canalsの存続に関わることだ。叔父さんの家に引き取られてから、Canalsの情報を流出させようとした経緯まで」
月城は少しの間、俯いて黙り込んでいた。
「そうだね。村上くんが、わたしの記憶の扉を開いてくれたんだもんね」
「思い出したなら、昔と同じように〝村上〟って呼んでほしい」
「うー……。ハードル高い」
「二人でいる時は同級生だよ。力になりたいのが本音なんだよ」
「……ありがとう」
月城は、しばらく膝に視線を落とし、何から話そうかと頭の中で整理しているように見えた。
その後、ぽつぽつと話してくれた。
引き取られた叔父さんとは、月城の父親の弟で、中堅の会社を経営する事業者、オーナー社長だから資産はある人らしい。
病弱な専業主婦の叔母さんと、月城よりひとつ年上のひとり息子、洋太と三人暮らしのところに、事故で記憶を失った月城一颯と、月城二葉が迎えられた。
記憶喪失の娘と、両親の事故によりうつと失声症を患っている娘二人を引き取ってくれた。
家を変わったことで、地元の中学から叔父さんの家の学区の中学に転校した。入院しているうちに転校の手続きが取られていたそうで、挨拶もなしにもといた中学を去った。
月城にしてみれば、深くもやのかかった記憶しかなく、ゆえに執着することもなかった。叔父さんに、もとの小学校でも中学校でもいじめに遭っていたようだと伝えられた。自分の中ではなぜか学校が恋しくて、叔父さんの主張には不自然さを感じたそうだ。
それでも忘れて良かった、もう振り返る必要はない、と強く諭され、そんな酷いことがあったのかと、思い出すのが怖くなっていた。昔の記憶に触れないようにしていたのだそうだ。
だから俺に卒アルで〝友達に囲まれて笑っている〟と告げられた時に、好奇心に抗えなかったそうだ。
月城は叔父夫婦に対して、とにかく申し訳ないと思い続け、病弱で臥せりがちな叔母さんに変わって、食事や洗濯など家事を率先してやり始めた。料理は長年、そういう生活をしてきた賜物というわけだ。
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