◇◇村上健司◇◇ 対峙

 玄関のドアノブを動かしてみたけれど、もちろん鍵がかかっている。

「月城、ここで待ってて。リビングにまわってみる」

「嫌だ……」

 つないだ手に月城の方からわずかに力が加わった。

「わかった。一緒に行こう」


 二人でリビングにまわる。全面ガラス張りの大きなリビングの窓は、出入りができる仕様だ。ラッキーなことにクレセント錠だった。

「月城、ちょっとだけ離すな。大丈夫だから」

 断ってその手を離す。

「ご……ごめんなさい」

 月城が一歩後ずさりする。

「動揺して当たり前だって。こんなの。ちょっと離れてて」

 俺は背負っている通勤用リュックの中から、大理石の灰皿と、ガムテープを出した。どっちも応接室にあった備品だ。


 リビングの窓のクレセント錠の周りを囲むようにガムテープを貼る。次にガムテープを貼った内側に、大理石の灰皿を思い切り打ち下ろす。リビングの窓ガラスは一発で割れた。こうするとガムテープの内側のガラスだけが割れ、あたりに飛び散らない。少ない力ですんで、周囲に気づかれにくい。

「悪いな、壊しちゃって」

「え? あ……うん」

 ボケた返答だ。自分の家って感覚がないんだろうな。

 住宅が密集しているわけでもないし、背丈よりも高い雑草で俺たちの姿は通りから完全に隠されている。まあ、夜中の二時の住宅街に人通りは皆無だ。

 でもここも不法侵入なわけで、大きな音を聞きつけた住人に通報でもされたら面倒だった。


 割れた箇所から手を差し込み、クレセント錠を回す。リビングのガラス窓をスライドさせると、軋みながらも開いた。

 靴を脱いでリビングに上がる。

「ほら」

 月城の方に手を差し出す。

 俺のやることをただ見守っていた月城は、一瞬ためらったものの、俺の手を取り、自分も靴を脱いで中に入ってきた。


 もう十年以上空き家のはずだ。電気もガスも水も止まっているだろう。俺たち二人はスマホのランプ機能を作動させた。

 リビングの中は取り立てて変わった様子はなかったが、誰かが頻繁に出入りしている形跡はなく、どこもかしこも埃が積もっていた。リビングの奥はアイランド型のキッチンになっている。ここも埃だらけだ。久々に人が入ったせいで舞い上がった埃が、スマホのランプに照らされてできた放射状の明かりの中で、キラキラと踊っている。


 月城を振り向くと、驚きに満ちた好奇の目をして、周りを見渡している。

「月城?」

「わたし、ここに来た事がある。……知ってる」

「知ってて当たり前だって。月城の家だよ」

「そう……そうなんだ」

 月城の記憶喪失は、もしかしたらそこまで根深いものじゃないのかもしれない。家族の記憶はあると言っている。妹のこともわかる。それなら、昔の記憶を刺激するものに触れれば、充分回復する余地はあるんじゃないだろうか。

「月城の部屋はどこ?」

 一階にあるのは、大きなリビングとキッチン、バストイレだけのようだ。

「二階……?」

「だよな、普通。行ってみる?」

「うん」

 そう言ったものの、足は前に進まない。

「俺、行ってもいいの?」

「……わたしが、先に入る。廊下で待っててもらってもいい?」

 くすりと笑いが漏れそうになる。自分の部屋がどういう状態になっているかわからない。そう思っているんだろうな。

「いいよ」


 二人で埃だらけの階段を上って二階へ。

 廊下には四つの扉があった。間取りとしては4LDKってことだ。

「どの扉か、わかる?」

「……わからない」

「じゃあ順番に開けていくか」

「わ! わたしが先に入るね!」

「はいはい」

 ここでもその主張だ。月城は一番近くにあった扉を開け、素早く中に入って扉を閉めた。俺は廊下で待っている。

「ええーっ」

 中から驚愕と悲鳴が入り混じったような声が聞こえる。

「月城?」

 返事がない。

「入るぞ」

「……うん」

 かすかにそう聞こえた。


 俺は扉を開けて中に入った。息を飲んだ。

 そこは両親の寝室のようだ。シングルベッドが二つ置かれ、その足元にタンスが二つ並んでいる。ひとつは七段の引き出しだけのタンス。もうひとつは上が大きなスペースの観音開き、下が一段だけ引き出しになっているタンスだ。同じ種類の木材を使っている。おそらく婚礼ダンスと呼ばれるものだ。そのほかには膝くらいの高さのローボードがあり、小さなテレビが載っている。


 月城が声を上げた理由は、部屋が不自然な乱れ方をしているからだろう。まず、ベッドのマットレスが二つとも一目でわかるほどずれている。タンスも微妙に開いている段がいくつかあり、クローゼットに至っては服が全部下に落ちていた。

「ママもパパも、こんな部屋の使い方する人じゃなかった……と思う」

「明らかに何かを探した跡だろ」

 分厚いマットレスの端を持ち上げてみると、ずっしりとした重みがある。大きさもあるしひとりで動かすのはかなり難しいだろう。

 探し物のためにベッドからどかしたものの、完全に元に戻すことは諦めた、って感じだ。

 次に俺はローボードに近づき、天板に見入った。誰かが触った指の跡が残っている。埃の上から触ったせいで、指の跡がくっきりつき、そこにまた新たな埃が積もって、それが濃淡を作っているのだ。


 そこで、俺の背後で何かが落ちるような大きな音がした。

 振り向くと、月城が横坐りにくずおれている。手には写真たてを持っていた。小学校の卒業式に家族四人で撮った写真のようだった。おそらくローボードに伏せて置かれていたものだ。

「どうした?」

 俺は慌てて彼女のそばに膝をつく。

「パ……パ、パパと、ママと二葉だ……」

 音と体勢からしてどこかを強く打ったはずなのに、そんなことにはかまわず前面のガラスが割れた写真立てだけを手に、がくがくと震えている。割れ落ちたガラスで切ったのか手の甲に血が滲んでいた。

「月城、手! 切ったな。まずこれを離せ」

 震えがひどい月城の手から、割れた写真立てをそっと取り上げる。

 月城は血のついたままの手で口元を覆って浅い呼吸を繰り返している。過呼吸気味なのかもしれない。


 俺は、月城の切れた手の甲にガラスの破片がないかスマホの光でよく観察してから、服のポケットから出したハンカチで傷口を強く縛る。そこまで傷は深くないようで、ちょっと安心した。

「またいつでも来られるから、今日はもう帰ろう。な? 精神的に限界だろ?」

「嫌……」

 手で額を押さえて生え際の髪をかきむしる。涙が左右の頬に流れた。

 月城は昼間フルで働いたあと、Canalsのオフィスに不法侵入。俺に対峙して思いもよらない真実に向き合うことになった。


 金曜日の夜でちょうどよかったこともあるけれど、何より〝叔父さん〟の力が月城に及ぶ前にここへ連れてきたかった。

 でも後悔している。彼女は明らかに混乱……いや、錯乱状態に近い。

「帰ろう月城」

 月城は額にうっすらと汗が浮かぶその顔を、左右に激しく乱暴に振った。

「嫌だ!」

「キャパオーバーだって。体調崩す」

「嫌だ嫌だ嫌だ!」


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