◇◇村上健司◇◇ 邂逅
値段は高いが、これでキャリア採用の優秀人材に好印象を持ってもらえるなら、安いもんだ。
俺はカードで決済し、美容師さんに荷物の番号札を渡した。美容師さんは番号札と引き換えに俺の斜めがけカバンを出してくれる。
背後のクローゼットを開け、俺の黒のダウンジャケットもハンガーから外そうとしてくれる。
「これでしたよね?」
「そうです」
当時奮発して買ったお気に入りのダウン。人とは被りにくいブランドだ。
俺はそれに腕を通し、斜めがけのカバンを下げた。なんだかいつもと着心地が違うような気がしないでもない。右肩の下を確かめると、もう数年愛用したブランドのロゴマークがちゃんと入っている。髪を切って襟足がすっきりしたからだろうか。
「ありがとうございましたー。またこちら、よろしくお願いします」
店の外まで見送りに出てきてくれた担当美容師さんは、両手で自分の名刺を差し出してきた。
ここでも名刺か。交換じゃないけどな。
俺は身についた流れで両手を出してそれを受け取り、頭を下げる。社会人も四年目、学生被りを入れれば六年目。しかもいきなり副社長という名刺交換の多い役職についている事を、なんとなく誇らしく感じながら美容師さんに背を向けた。
歩きながら斜めがけカバンから財布を出し、そこに名刺を入れ込み、また元に戻す。スマホとイヤホンを取り出して英語学習の設定にする。
気の合う仲間とやりがいのある仕事をしている、今の環境への満足感が溢れる。
大学三年になってすぐ、ナツが「会社を作ろう」と言い出さなかったら、今、俺は普通に会社勤めをしていただろう。二年目からは不思議なほど軌道に乗ったけれど、昼夜問わず仕事のことばかり考えて必死だったことに変わりはない。ただ、あたりまえに就職していたら、今よりも楽しくて充実もし、やり甲斐を感じられていたとは考えにくい。
俺は数日後に控えたキャリア採用の面接に気持ちを切り替えた。できるだけ優秀な人材を確保したい。大手外資ほどの報酬が出せない代わりに、うちの社、Canalsにはいくつものセールスポイントがある。それを限られた時間でどう効率よく彼らに見せられるかだ。
採用とは、こちら側が選んでいるだけじゃなく、こちら側も就職希望の人間に選ばれなければならない。優秀な人材はいくつも会社を受けているはずだ。
異変に気づいたのは、自宅マンションの鍵を開けようとダウンジャケットのポケットを探った時だった。店に預けていた貴重品を受け取り、財布とスマホは斜めがけカバンの中に、家の鍵はダウンジャケットのポケットに入れた。左右どっちに入れたっけな、と両手を各々ポケットに突っ込む。鍵は右側のポケットから出てきた。でも鍵以外のものを入れる習慣のない左側のポケットに、何か硬い、長方体のものが入っているのがわかる。
俺はそれを引っ張り出した。
「名刺……?」
一枚じゃなく、数百枚単位の、発注したものを受け取っただけのような名刺の束だった。厚紙でできたごく簡易な箱に入っている。
「え……マジかよ……」
名刺を発注した覚えはない。
このダウンジャケットは俺のものじゃなくて、誰か同じブランドを着てきた客が自分のだと勘違いして、着て帰ってしまったということか。あの時、大きくクローゼットを開けられ、「これでしたよね?」と聞かれた時、迷いなく頷いた。黒いダウンは他にもあったかもしれない。だけど肩についているマークがはっきりと見えたのだ。
ダウンは年代別って感じでバカ売れしているブランドがいくつかある。街によって、制服か! ってくらいみんなそのブランドを着ている。俺はそういうのはあんまり好きじゃなく、斜めに外して買ったつもりだったのに……。
そうそう被るブランドじゃないと思っていたのに……。
「だけど、まあ……黒のダウンは被るよな」
その中にたまたま俺と同じブランドを選んだ男がいるってことだ。サイズからして男だろう。俺のダウンには何も入っていないはずだ。
とりあえず鍵を開けて家に入る。
人の名刺を勝手に開けるのは申し訳なくて気が進まないけれど、俺は仕方なくその箱を開けて中身を一枚取り出した。俺のジャケットに、俺を特定するものは入っていないだろうから、こっちから連絡するしか手段がない。店に連絡するという方法もあるにはあるが、まあ、二度手間だ。
どきんっ。と心臓がはっきり跳ねた。
名刺に書いてあった企業名は電報堂だった。社会人なら誰でも知っているような大手の広告代理店、電報堂だった。総合デジタル本部 SNS広告事業課、しかも役職がチーフだった。でも俺の心臓の高鳴りの原因は企業名や役職じゃなくて、真ん中に印字してある名前だった。
〝月城一颯(いぶき)〟
「嘘だろ……」
本当にあの月城? 小学生の頃に俺が好きだったあの月城? なんで男性サイズのダウンジャケットを? と考えて、女性でもオーバーサイズを好む人種がいることに思い当たった。
そして、考えてみれば、やっぱりこのダウンジャケットの持ち主に直接連絡を取ることはできないのだ。名刺に書いてあるのは個人情報じゃなくて、会社の情報だ。電話番号も、メールアドレスも。個人がプライベートに使っているものを印字しているわけじゃない。
月城、かもしれない。いやその可能性はかなり高い。俺の名前と違ってそこらへんに転がっているようなありふれた名前じゃない。
だとしても会社に電話なんかしたら、支給された名刺を無くしたという月城のミスが知れてしまう。やっぱり店に連絡して、月城のプライベートな情報の方で、店経由で連絡してもらう他ない。
「あー」
ニアミス。月城と俺は、同じ空間にいたのか。会ってもわからない確率の方が高い。俺は小学校の卒業から身長が二十センチ以上伸びているし、月城だって、もう子供じゃなく二十六歳の大人の女性になっている。
でも、結婚は、してないんだな。〝月城〟は小学校時代の月城の姓そのままだ。
「会いたいな……」
今朝、思いがけず見た夢のせいか、会いたい。このニアミスが残念すぎる。
そこで俺はざっと出した名刺の束の左寄りに、細い付箋がついていることに気づいた。
なんだこれは?
付箋の場所から名刺を分けてみる。すると、電報堂の名称とは違う名刺が三割程度入っていた。
エンジニア プログラミング等 月城一颯。
え? この名刺は? モスグリーンのペルシャ調蔓草模様が入った個性的な名刺だった。
俺は電報堂の名刺とそうじゃない方のメールアドレスや、電話番号を見比べた。違っている。
電報堂のメールアドレスには、当たり前だけど社名が入っているのに対し、エンジニア プログラミング、とだけ書かれた名刺はフリーアドレスだった。電話番号も、電報堂の方は固定電話を表す市外局番から始まるのに対し、他方は、あきらかに携帯電話のそれだった。
副業? 月城は個人的に副業をしているのか? こっちの社名が入っていない名刺は、副業用だと考えるのが妥当な気がする。
だけどこんな大企業で副業がOKなものだろうか。いや……。時代の潮流として副業は認められる方向に動いている。
だとしたら。こっちの名刺は月城のプライベートな情報? 携帯の番号にメールアドレス。
電話……してもいいだろうか。
何年も会っていないとはいえ、小学生時代、俺たちはそれなりに仲が良かったと自負している。月城だって俺の名前くらいは覚えているはずだ。
気がつくと俺は蔓草模様の名刺の電話番号を、自分のスマホに打ち込んでいた。
今朝の夢の続きかと思うくらい、めちゃくちゃに心臓が高鳴っている。
なんだこれ? どうしたってんだ? おかしくないか?
確かにかつて俺は、月城のことが自分で認識していたよりもさらに好きだったらしい。そのことに卒業して会えなくなってから気づいた。
とはいえ、別に十数年彼女を引きずって暮らしてきたわけじゃなく、幾つもの真剣な恋愛を経て、今に至っている。それがこんな……。
「はい。月城です」
俺が無意識にごちゃごちゃと思案している最中に、いきなり電話がつながった。しかもはっきり月城、と名乗られた。若い女の子の声。月城だ。
「あっ。あの自分……。ダウンジャケット間違えててて。あ、いえ失礼――」
「えっ! もしかして青山の美容室でダウンジャケット間違えちゃった方?」
「そ、そうです」
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