第29話
意外にも、慎二はすぐに回復した。
運ばれたのは学校からほど近い総合病院で、直ちに治療がなされた。心電図や脳波、血液の検査などをしたが、重大な疾病と思しきものはどこにもなかった。ただ下がったとはいえ発熱は続いており、熱さましと栄養補給を兼ねた点滴が施された。母親が駆けつけたころには意識も戻り、ふつうに会話できる状態まで回復していた。
「慎二、心配したのよ。どうしちゃったの」
「ただの知恵熱だよ」
「知恵があるようには産まなかったんだけどもねえ」
「我が子にいう言葉かよ」
息子が救急車で運ばれたと聞いてすっ飛んできたのだが、意識もしっかりとして元気そうである。疲れがたまって風邪をこじらせたようだと説明され、母親として安堵したところだ。冗談の一つや二つが出てしまう。
点滴が終わると退院していいと医者が言った。当然入院だろうと確信していた教師は、ホッと胸なでおろした。
「今日はいろいろとすいませんでした」
「うちの子がお世話になりました。ありがとうございます」
慎二は担任教師へ深々と頭を下げる。母親も一緒になっての謝罪とお礼だ。
「まあ、ただの風邪でなによりだ。ある意味、おまえは有名人だからな。あんまり無理すんなよ」
「それと、雄別さんは一所懸命に看病してくれたようで、けしておかしなことをしていたわけではないので、そのことはわかってください」
体育館での件は母親がいるので言いにくそうだったが、後々朝子に迷惑が掛からぬように、きっちりと弁明した。
「事情はわかったよ。おまえには美人の彼女がいることだしな。まあ、うまくやれよ」
慎二の担任は、見た目はアウトローだが鷹揚な態度だった。
「うちの子は、いつの間にか成長しすぎたようね。あっちもこっちもって、それは熱も出るはずだわ」
朝子と慎二の事情を知った母は、複雑な心境であった。
病院を出た新条親子はタクシーに乗った。黙って窓の外を見ている息子の顔を見て、母親が長いため息を漏らした。
次の日、慎二の登校は昼過ぎとなった。午前中は、昨夜の病院にて診察を受けていたためだ。異常があれば学校を休んで療養するつもりだったが、熱も下がっており、いたって健康な体へと戻っていた。
お昼休みも終盤へとさしかかったときに教室へ入った。食後のまったりとした空気の中に高校生らしいイキの良さが溢れ、ほどよくざわめいていた。
ところが、クラスメートが彼の姿を見た突端、教室内はシンと静まった。あらかじめ示し合わせていたような、みごとな沈黙だった。慎二は、多少訝しく思いながら自分の席についた。周囲の反応は、最初はヒソヒソと、やがてクスクスに変わった。
「おい、慎二、おまえなにやってんだよ」
さっそく赤川がやってきた。心底あきれたような、それでいて友人のことをおもんばかっているような表情だった。
「なんのことだよ」
回復したといえども、慎二はいちおう病み上がりである。頭というよりも、気持ちの回転数が吹け上がらない。
「なんのことって、いまさらとぼけるのか」
クラス中の視線が二人に向かっていた。赤川が慎二にどんなことを言っているのか、ほぼ全員が興味を持っていた。
「ああ、そうだ。資料のことか」
そもそも、体育館で倒れるハメになったのは赤川が忘れた資料を取りに行ったからだ。そのことを言っているのだと思っていた。
「資料なんかどうでもいい。とにかく」
「うわー、ヘンタイが来た」
赤川の背後に三人の女子たちがいた。そのうちの一人が、大きくというより大げさな声をあげた。
「ヤッバ、誰かと思ったらヘンタイじゃん。更衣室じゃあもの足りなくて、こんどは用具室かよ。キモッ」
「体育館が大好きヘンタイ男子だね」
前に絡んできた女子たちだ。容赦のない目線で蔑んでいた。
「やっぱり、あさっちを狙ってたんだ。ヘンタイ新条君。お味はいかがでしたか」
「あんた、なにしたかわかってんの。よく学校に来れるよね」
「ヘンタイに羞恥心はないんだわ。ホントにキモい」
いつも以上の憎まれ口の連打であった。赤川といい女子たちといい、登校した途端に突っかかってくる。慎二は戸惑ってしまう。
「だから、なんなんだよ」
着席していた慎二は、腕を組んで見下げる三人の女子たちに囲まれていた。雪子のそれとは違い、彼女たちの態度からは楽しさの欠けらも感じられなかった。
「とぼけるな、バカ」
「そうよ。しらじらしくて腹が立つ。死ねよ」
「シネ」
罵詈雑言を浴びせかけているうちに、そう意図していたわけではないが、女子たちの気持ちがラディカルな方向へ行ってしまう。
「おい、いくらなんでも言い過ぎだって。ちょっと落ち着こう」
赤川が彼女たちの暴走を止めようとするが、慎二に対する日ごろの不信感と、雪子とのいちゃつきが癪にさわっている女子たちに遠慮はなかった。
「まあ、あさっちはお胸が大きいですもんねえ。菖蒲ヶ原さんには、そういうところは未熟なのかしら」
「あいつもけっこうあるよ。でも、ヘンタイ君はおっきなオッパイが大好きなんじゃないの。ママのオッパイみたいに」
「キャハハ」
「マジそうだわ」
笑い声が響いた。クラスの皆が注目している。教室の中は静まっていたので、女子たちの辛辣な嫌味は全員が聞くこととなった。
いくつかの嘲笑が聞こえてくる。慎二の表情が厳しくなった。自分への悪口は聞き流せるが、雪子をバカにされるのは看過できない。彼女の名誉はすべてにおいて優先されるのだ。
「菖蒲ヶ原さんのことを悪く言うな」
慎二の声が強張っていた。立ち上がりこそしなかったが、見上げる表情がいつになく真剣だった。
「おお、怖っ」
「ヘンタイの次は脅迫だわ」
「フン、ヘタレのくせに凄むな」
だが、女子たちはひるまない。どうせ慎二は手を出さないとの打算があるのだ。
「おまえら、ちょっと来い」
見かねた赤川が女子たちを強引に連れて行った。教室を出てから廊下の向こうで、ああだこうだと揉めている。
「意味わからないぞ、ったく」
普段は感情をあらわにしない慎二が、珍しく不機嫌な顔を見せていた。無表情な男がたまに見せる怒気は迫力があって、周りで面白がっていた生徒たちはサッと目を伏せた。
「ん?」
教室前のドアで慎二を見ている人物がいた。ネズミ色の地味な制服から、生徒ではないことがわかる。
「おぼろか」
朧だった。彼は教室には入ることなく、手でドアの縁を握りながら意味ありげな視線を流していた。
慎二が見ると小さくうなずいた。二人で話がしたいとの意思表示である。数分後、慎二と朧はいつもの校務員室にいた。朧は昼食をとった後だが慎二は食べていない。
パンを食べながらの雑談となる。朧はまず、いつものように飲み物を用意した。自分にはレモンティーを、慎二にはインスタントコーヒーを砂糖も粉ミルクもなしに与えた。
「う、かなりニガいぞ。病み上がりなのに、このコーヒーが濃すぎてつらいよ」
「ゲスな先輩には、甘さなんて贅沢なんですよ。ほんとうはマグネシウムの粉末でも入れてやりたいぐらいです」
いつもよりさらにドライな言い方に、慎二は首を傾げた。
「なんか怒ってるのか、朧」
「怒っているのではなくて、当然ながら、心底呆れているんですよ」
「なんでだ」
「なんでって、ひょっとして知らないんですか」
「なにがだよ」
ふーと軽くため息をつくと、校務員がスマホを取り出した。画面を数回タップして、それを慎二の顔の前に突きつけた。
「これは、ええ~と、ひょっとして昨日のか」
画面上にはトランクス一枚で立っている慎二がいた。自分の裸なのだが、とくに感慨もなく見ていた。
「これはズームしてるんですよ。こうすると」
画面に触れた親指と人差し指の間隔を狭くすると、もう一人の、あられもない姿の人物が写っていた。
「雄別さんか」
ブラジャーの肩ひもが肘のところまで垂れさがっている下着姿の雄別朝子が、寄り添うように立っていた。昨日の体育館での出来事を、野次馬女子たちにケイタイで撮られてしまっていたのだ。さらに拡散されていることを悟った。つまり、皆が知っているのである。
「ああーっ、これはマズい。だから、あいつらが絡んできたのか」
女子たちが突っかかってきた理由を理解した。慎二は頭を抱えるが、いかに由々しきことなのかをまだ理解していない。
「いちおう言い訳は聞いてあげますよ」
「言い訳もなにも、なにもないんだ」
「裸の女子と男子が並んで立っているのに、なにもないわけないでしょう。ふざけてるんですか」
ずずっ、と紅茶をすする社会人の眼は疑いに満ちていた。
「裸じゃないだろう。俺はトランクスがあるし、雄別さんは、ええ~っと、そのう、ブラとパンツ姿だと思う」
「かえってエロいってもんです。すっ裸のほうが、よほど健全に見えますって」
その見解には同意しかねるというように、慎二は二度ほど首を振る。
「説明させてくれ、朧。これは誤解なんだ」
「ああ、誤解でしょうね。慎二先輩の周りで起こることは、いつもそうですよ」
棘のある言い方に聞こえた。朧は疑っているし、ひょっとすると確信しているかもしれない。体育館で朝子といかがわしい行為などしてないこと、男としていまだに未体験であることを、慎二は可及的速やかに釈明するのだった。
「ふーん、なるほど。どうりで今日は昼登校なわけだ。お疲れですからね」
伝えるべきことを説明し終えるのに十数分を要した。慎二は苦いコーヒーに口をつけて、一服してから言う。
「信じてないのかよ」
「信じますよ。菖蒲ヶ原さんという恋人がいながら、ほかの女に手を出せるほど慎二先輩は器用ではないですからね。それに童貞だし、いや、まだ童貞といったほうがいいのか」
「それはどうも」
二人の間に性的な行為はなかったと、朧は納得したようだ。
「それでエロ画像の子はどうしたんですか」
「エロ画像とかいうなよ」
「失礼、現場写真でした」
そう言われて、慎二はうなだれる。
「そういえば教室にいなかったな。パンでも買いにいったか」
今日、慎二は朝子とは会っていない。昨日の礼を言わなければと、なんとなく考えながら苦いコーヒーをすすった。
「ハレンチ野郎の慎二先輩は平気だろうけど、女の子がこんな姿を公開されたら、ふつうの精神状態じゃいられないでしょう」
慎二は、ハッとして顔をあげた。とても気にかけなければならない重大事に、ようやく気づいたのだ。
「恥ずかしくて、授業中以外は人目のつかない場所にでも隠れているんじゃないですか」
「行ってくる」
たいていの嘲笑や辱めには耐性がある慎二だが、雄別朝子がそうであるとは限らない。恥かしさで心が傷つき、ナーバスになっていると考えられる。体を張って一生懸命介抱してくれたのに、それがために皆の興味を引いて窮地に追い込まれている。
「待ってくださいよ」
校務員室を出ようとする慎二を朧が止めた。まだ熱いはずのレモンティーの残りを一気に飲み干すと、キッとした表情で言った。
「慎二先輩はいかないほうがいい。もし二人で話なんてしていたら、みんなが余計に面白がりますよ」
たしかにそれは一理あると、慎二の足が止まる。
「それに、菖蒲ヶ原さんのほうはいいんですか。たぶん、あの画像は見ているはずですよ。僕は慎二先輩の言い訳を信じたけど、付き合っている彼女ならば心穏やかではいられないでしょう」
一理どころか、百里も千里もありそうな指摘だと、慎二は焦る。朧に言われるまで、そのことは考えていなかった。この状況で誤解だと説明しても、はいそうですか、と納得するほど雪子はお人好しではない。
「朧、俺はどうしたらいいんだ」
慎二にしては、珍しく弱気だった。
「そうですね。とりあえず天ぷらそばでも食べましょうか」
「悪いが、冗談に付き合っている余裕はないんだ」
「お昼が缶詰一つだったので、ちょっと物足りないんですよ。なんとなく天ぷらそばが頭に浮かんでしまいました。こんな時に面白くない冗談を言ってしまって、申し訳なく思います。すみませんでした」
軽く頭を下げながらも、朧はそれを食べたいと漠然とではあるが思っていた。
「菖蒲ヶ原さんはまだ北海道にいるはずだから、雄別さんのほうを先にしたほうがいいのか。俺はどうすればいいんだ」
ドアが突然鳴り出した。慎二はとっさに口をつぐみ、朧も身構えた。誰かがノックをしているのだ。
コンコン、コンコンと鳴り続ける。慎二はドアの前に行くが、ドアノブに手をかけていいのか迷っていた。
「慎二先輩、誰かが来ているから開けてください。べつに僕たちが不純異性行為をしているわけではないんですから」
「そ、そうだよな。それはあり得ない」慎二が、ためらいがちにドアノブを引いた。
「あのう蕎麦の江戸屋ですけど、ご注文の天ぷらそばお持ちしました・・・」
江戸屋というロゴが入った作務衣をまとった男が立っていた。アルミ製の岡持ちを握っており、どこをどう見ても蕎麦屋の出前持ちである。
「ええーっと、天ぷらそば、ここでいいんですよね」
職員室には何度も配達していたが、校務員室には初めてである。ぎこちない感じで中を覗き込んでいた。
「そうだよ。こっちに持ってきて」朧は、当たり前のように言った。
出前持ちは呆気にとられている慎二を素通りして、工具が散らばった机の上に岡持ちを置いた。請求された代金のやり取りがあり、ラップで熱気を閉じ込めた天ぷらそばが取り出された。まいどあり~、と小さく呟いて帰った。
「朧が出前を頼むなんてらしくないな。節約家だと思っていたよ」
「僕は奥ゆかしく控えめな性格なんですよ。学校へ出前を頼むわけがない」
そう言いながらも、さっそく割りばしを持った。天ぷらそばは食べるのに頃合いの熱さとなっており、ダシの効いた湯気をほんわかとたてている。
「じゃあ、なんだってそば屋が来たんだよ」
「偶然ですよ」
「偶然って」
「最近、慎二先輩の周囲で頻繁に起こっているでしょう。ピザの話をすればピザ屋が来るし、ハトのクッキーを食べたらハトがやってくるし、だから天ぷらそばの話をすれば、そば屋の出前がくるんですよ」
ずるずると蕎麦をすすり始めた朧を、慎二は怪訝な表情で見ていた。
「やっぱり、俺は雄別さんを探してくるよ。菖蒲ヶ原さんはまだ帰っていないから、説明は後でする」優先順位は朝子であると判断した。
「慎二先輩」
今度こそ校務員室を出ていこうとする慎二を、朧が再び呼び止める。
「気をつけたほうがいいですよ。これはオカシナなことが起こっているサインです」
割りばしにつままれた海老天ぷらをぶるぶると振りながら、朧が言う。ダシ汁を十二分に吸ったそれは、衣がふやけて溶け落ちていた。
先を急いでいた慎二は、それ以上の話をせずに行ってしまう。朝子のことで頭の中がいっぱいだったので、朧の忠告はさして気にしていなかった。偶然が重なっていることも、たまたま偶然だと聞き流してしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます