第28話
騒動となったのは、夕暮れが闇に消されて一時間ほど経ってからだ。
校舎から体育館へと続く廊下に数人の気配があった。どの声も高等学校という場所にふさわしく、若くて元気溌剌、そしていくぶん黄色かった。
「ああ、よかった。スマホがないと生きていけないっつうの」
「でも、吉岡が残ってて良かったよ。ほかの先生だったら絶対に許可しなかったからさあ」
「吉岡って、マジメそうに見えて、じつはスケベじゃね。美央のオッパイをさあ、ガン見してたから」
「そう思って、いつもより多めに揺らしときましたとさ」
「キャハハ。巨乳は得だよねえ。あったしなんかさあ、貧乳でいいことなんてないよ」
体育館のバカ高い天井にぶら下がった照明は沈黙したままである。女子生徒たちは教師から体育館に入る許可は得たが、照明は点けるなと言われていた。
「で、ほんとに用具室なの」
「うん。落としたとしたら、そこしか考えられないだよね」
「しっかし、電源を落としちゃあ、ダメじゃん」
「バッテーリーが切れそうだったからさあ、少しでも節約しようと思って」
女子たちの一人がスマホを紛失し、その場所が用具室だと見当をつけてやってきたのだ。
「でもさ、夜の学校って不気味じゃね」
「そうそう。誰もいない体育館って、こんなに静かなんだ」
「痴漢とかいるかなあ」
「なして痴漢なの。ふつうは幽霊っしょ」
「痴漢のほうがヤバくね」
「だから、なして痴漢がいる前提なんだって」
「キャハハハハ」
他愛もない話で盛りあがれるのが女子高生である。だだっ広い夜の体育館は、彼女たちの笑い声を吸収してもなお静けさを保っていた。窓から周辺の灯りがほんのりと入るので、まんざら真っ暗闇というわけではなかった。
用具室の前まで来た女子高生たちは、そこでいったん立ち止まった。ケイタイを失くした女子がカギを差し込み、ほかの者はありきたりな想像を口にする。
「中に誰かいたりして」
「幽霊?」
「痴漢じゃね」
「祐実~、あんたひょっとしたら痴漢フェチだろう」
「バレたか」
カチャっと、かすかな金属音が鳴った。開錠したことに確信をもった女子が引き戸を開ける。
「真っ暗だね」
「右の壁に電気のスイッチあるから」
「電気つけるなって言われたけど」
「この中はいいっしょ。じゃないとスマホを探せないって」
「つまづかないようにね」
真っ暗闇の中、一人が証明のスイッチを探しに右側へと進む。足元が見えないので、春の牝牛みたいにスローな動きだ。
「ねえ、スイッチどこだっけ。暗くてわからんわ」
「スマホで照らすか」
ケイタイを取り出した女子が、白く光るライトで足元を照らした。懐中電灯の代わりであるが、ある程度の役には立っている。
「ちょっとう、こっちを照らしてよ」
「自分のスマホ使えば」
「だから、そのスマホを探しに来たんだってばさあ」
ケイタイのバックライトを使っているのは一人だけで、ほかの者たちは入り口付近で固まっている。どうやら暗闇を満喫しているようだ。
「あれえ、そこに誰かいるわ。って、消えちゃった」
ケイタイのライトが消えてしまった。バッテリー節約のために、一定以上の時間が経過すると自動でオフになってしまうのだが、その直前に一瞬照らした箇所に違和感があった。彼女はそれが人のように見えて、なにげなく言ったのだった。
「マジでそういうのヤメてよ。シャレになんねえから」
「そうだよ。面白がってると、ホントに出るんだって」
「いやー、怖い」
ケイタイの女子は幽霊だとは思っていなかった。
「いや、だって、そこに人がいたんだよ」と言いながら、気合を入れて再びケイタイを光らせた。悪党に印籠を見せるがごとくそれを突き出して、その弱々しくも真っ白な明るさで真実を暴こうとした。
慎二は、まどろみの中で目が覚めかかっていた。暗くふんわりとした空間の向こうから薄明かりが差し込んできた。熱っぽさとダルさが身体に残っている。もう少し眠りたいのに、瞼の表側を照らす光が邪魔だった。寝起きの機嫌の悪さが体調ともリンクしているのは仕方のないことだ。
「なんだあーっ」
それは、ぬーっと立ち上がった。女子のケイタイライトに照らされたのは、上半身裸で下半身がトランクス一枚の人間であった。
「ぎゃっ」
女子たちのうち、その場で悲鳴をあげたのは一人だけだった。人は本当の恐怖に直面した時、あんがいと声を呑み込んでしまう。
ダダダダ、ダーっと走った。全員が一目散に逃げだした。
「う、うは」
「や、やば」
暗闇の中でぼーっとつっ立っていた慎二を、幽霊か化け物か貞〇の親戚かと思ったのだろう。ただでさえ怪談的な話で恐怖心を引き出していたのに、そこにいるはずもないモノの出現である。勘違いしても致し方のないことだ。
「う、後ろから追いかけてくるう」
「くるくる、あひゃ」
女子高生たちを追いかけているのはエアな化け物であり、彼女たちの心は錯覚に支配されていた。なにモノかが追ってきていると全員が確信していたが、じっさいは違った。慎二は熱があるうえに寝ぼけた状態なので、怪物並みの疾走は無理なのだ。
キャーキャー喚きながら、女子高生たちは体育館の内壁に沿って三周し、なぜか用具室の前でへばってしまった。全力を出し切って、息が続かなくなっていた。
そこへ慎二が近づいた。体育館は相変わらずの暗闇であり、窓からわずかに入り込んだ灯りが男をぼんやりと際立たせている。へたり込んでいた女子たちは、仁王立ちしているそれを見上げて恐れおののき、いままさにありったけの阿鼻叫喚を張り上げようとしていた。
その時だった。突如として体育館全体が、パッと明るくなった。
「おまえたち、遊んでないでさっさと用を済ませろ」
教師がやってきた。女子高生たちに許可と鍵を与えたのだが、時間がかかっているので見に来たのだ。
「おいおい、なにがあったんだ」
女子たちは、驚愕の表情で尻もちをついている。その前には、トランクスだけの半裸男子が突っ立っていた。
「にょ~ん。慎二ぃ~、熱は下がったの~」
そこへタイミングよく、寝ぼけた朝子が用具室から出てきた。まぶしさに若干顔をしかめながらの登場である。彼女はいまそこにある状況を、まったく把握していなかった。
「おおー。なんだー、おまえらはー」教師が指をさしながら叫んだ。
朝子はブラジャーとショーツだけという、女子高生が学校の体育館を闊歩するには、じつになまめかし過ぎる姿であった。しかも寝相が悪かったのか、ブラの肩ヒモが外れて肘近くまでずれ落ちている。
彼と彼女にフィジカルなことがあった後と考えるのが自然な思考であり、その場に居合わせた者たちは、本人と慎二を除き、即座に性的な行為を思い浮かべた。
「にょ~ん。な、あ、あれえ。あたし裸だー。って、うわあ、ああ、これ、やっば」
高熱で震える重病人を、とっさの判断で温めていたのはいいが、人前に半裸でいるのは非常識だった。
「ああーっ、なんだよこれは。どういうことだ。どうしてパンツ一枚に・・・、ちょ、これは違う」
目覚めた慎二は、自分がトランクス一枚の恥ずかしい姿であることに気づいた。隣には、もう少しでバストが露出しそうな女子が立っていた。尻の大きさのわりにはショーツが小さくて、とてもセクシーすぎて泣けるなと余計なことを考えていた。
「こらっ、よりにもよって、校内でなにやってんだっ。ここはラブホテルじゃないぞーっ」
教師は激高しているが、その横で床にへたり込んでいた女子高生たちは、俄然目を輝かせ始めた。人様のゴシップや情事ネタは彼女たちの大好物である。とくに新条慎二は菖蒲ヶ原雪子と公開キスを演じた校内屈指の有名人であり、彼と巨乳転校生のスキャンダルは、痴的好奇心をこれでもかとくすぐるのだ。これはスクープだと、さっそくケイタイでパチリとした。
「バカモノーっ、関係のないものは帰れ」
教師は頭に血がのぼっていた。その怒りの矛先は、キャッキャと騒ぎ出した目障りな女子高生たちにも向けられた。
「ええー、だって、これから面白いとこなのに」
「そうそう。体育館でエッチするって、さすがに新条だわ。しかも相手が菖蒲ヶ原じゃねえし。これ浮気っしょ」
「うんうん。これは事件ですよ」
一度火がついた野次馬根性は、容易には消せない。
「いいから帰れ」
面白がって慎二と朝子にケイタイを向ける女子たちの首根っこを次々とつかんで、教師は退去するように命じた。いつになく本気な生徒指導に、浮かれ気分を削がれてしまった彼女たちは退去するしかなかった。
小うるさいギャラリーを追っ払った教師は、あらためて二人へ向き直った。実直な教育者らしく、腕組をして険しい表情だった。
「にょにょにょにょ~ん。ち、違うよ。これ、なんでもないにょ~ん。ただね、寒かったから温めてただけよ。にょ~ん」朝子は心の動揺を隠せない。
「そ、そ、そうだよ。俺たちはなんにもしてないぞ。ただ、具合が悪くて寝てたらなぜか体育館で、あれえ、どうして体育館で寝てたんだろう。わけわかんないや」
半裸の二人は必死になって言い訳するが、凝り固まった教師の猜疑心を溶かすには説得力が足りなかった。
「おまえたちが仕出かしたことは間違いなく停学ものだからな。言い訳は無駄だぞ。それといいかげんに服を着ろ」
「にょん」
停学を宣告され、さらに恥ずかしい恰好を指摘され、朝子は涙目になる。これは体を使っての看病なのだと必死になって説明するが、聞く耳は持たれなかった。
「先生、だから違うって。これは そ、そのう、」
ううう、と嗚咽らしきものを漏らして、慎二が膝から落ちた。そして、そのまま床にふせって、裸で放置された赤ん坊のように縮こまる。
「おい、どうした新条。おまえ、ふざけてるのか」
生物を担当する教師だったが、人間の健康については不得手であった。
「だから慎二は熱があるの、にょーん」
朝子は、慎二の頭部をその大きなバストで包むように抱き上げた。なるべく温もりを逃さず与えようと、教師の前でも密着を解かなかった。
「保健室にいくか。いや、救急車呼んだほうがいいか」
高熱にうなされる段階を通りこして、慎二は半ば目を開けて気絶していた。
さすがにこの状況は切迫していると判断し、教師はケイタイで119に連絡をした。数分後、サイレンと点滅する赤色灯が学校にやってきた。
「にょにょ、大丈夫かな。慎二はだいじょうぶなのかな、にょ~ん」
三名の救急隊員がやってきて、さっそく応急処置を始めた。すぐには搬出せずに、まずは携帯用の医療器具でバイタルを計測し、患者の容態を見守る。朝子は自分の役目を果たしたので、彼への救護をプロたちに任せて一歩後ろにさがっていた。いつの間に呼び出されたのか、慎二と朝子のクラス担任もやってきた。救命士が教師たちに処置の手順を説明すると、ストレッチャーに乗せて救急車へと運んだ。
不純異性交遊の疑いは、とりあえず追及されないこととなった。体で温めて看病したという言い分には無理があったが、慎二が思いのほか重病となったので、そのような可能性も考慮された。というか、人命にかかわる事態になったことで、どうでもよくなった。
「先生たちは新条に付き添うから、おまえは帰っていいぞ」
教師がそう言って、慎二を運ぶ救急隊員と行ってしまった。救急車には担任も同乗することになった。
だだっ広い体育館に一人残された朝子は、服も着ずに立ったままだ。しばしその静けさに包まれながら佇み、物憂げに「にょ~ん」とつぶやいた。誰が消したのか、天井の照明が一つ一つゆっくりと消えていった。徐々に暗闇が訪れるが、やはり彼女は動かなかった。
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