私たちは結婚しましたか?
羽積先輩が結婚した、さらにその二ヶ月後。
前もってこの日に提出するか、と決めていた日の朝、私は驚愕した。
同じ部屋で寝ていたはずの夫(となるはずの人)の姿が、どこにもないのだ。
机の上には昨夜詰めたばかりの婚姻届の封筒が、昨夜のまま転がっている。「何でおらんの?」と封筒を見つめたが、角二の茶封筒は何も言わなかった。それはそう。
中身を確認したが書類はそのままで、あとは提出を待つばかりという状態でスタンバイしている。私は文字通り頭を抱えた。
提出日に相手がいなくなる。フィクションの世界でよく見る状況なんだろうが、こんなときどうすれば良いかなんてゼクシィには載ってない。
打ちひしがれそうな心を奮い立たせる。今日は今までのどんな日々より素晴らしいんだろ、Butterfly……。
木村カエラを問い質したい気持ちを抑えながら、「そうだ」と思い立ち持って帰ってきていた社用パソコンを開く。私たちは社内婚だったため、夫(となるはずの人)のスケジュールは全社システムにアクセスすれば容易に確認することができるのだ。
彼の予定表を開くと――そこには「定例会議」の四文字が並んでいた。思わず閉口する。
定例会議って何だっけ。そうですね、これは普通に普通の仕事の日、ということになります。頭の悪い人工知能のような問答を頭の中で繰り広げる。休日出勤をしているのではなく、あくまで通常勤務の日のようだった。
一旦落ち着こうとパソコンを閉じ、首を捻る。休みを取って一緒に提出しに行くとか、そういう話ではなかっただろうか。
思い出せ思い出せ、昨夜に交わした会話の内容を。
――――
――
「明日は提出の日だね」
「そうですね」
「朝から役所に行って提出する感じで良い?」
「氏名変更やら何やら他の手続きもありますし、早い方が良いでしょうね」
「そうと決まれば明日は早いね。おやすみ」
――
――――
冒頭の「明日は提出の日だね」が夫の言だが、お気付きだろうか。一言も「一緒に行く」とは言っていなかったことを。あれは「届、提出しといて」の意味だったのか。
恐らく会議は前から決まっていたことなのだろう。毎週の定例会議なんだから、今日あることなんて分かりきっていただろうに。数日前まで一緒に行く雰囲気を出していた癖に、最初から仕事に行く気だったのではないか。沸々と怒りが込み上げる。
心の中で真っ白な天使が囁いた。
「落ち着きなさい……婚姻届なんて所詮紙切れですし、提出してお終いですからひとりでも何とかなりますよ……」
ああ、なんと大人な対応を求める天使だろう。さすが私の中の理性。
しかし同時にそれを咎める声もした。
「いやぁ、こういうのって二人で行くものなんじゃないの? アンタもう会議室に乱入しちゃいなさいよ」
おお貴方は心の中のマツコ・デラックス。欲望に忠実な言葉に私も天使も顔を渋くする。
「些末な行き違いに目くじらを立てていては、これからの生活も思いやられますし……」
「最低限のコミュニケーション取れねぇ奴なんてやめちまえ! 当日いねぇとかナメてんのかコラァ!」
私を置いて、天使とマツコは言い争っている。やめて私のために争わないで、回収が面倒だから……。げんなりしていると、唐突にお腹が鳴った。
「腹が減っては戦はできぬもの。何にせよ事を起こす前に、腹拵えをしても罰は当たるまい」
心の中のマツケンがそう穏やかに諭す。天使もマツコも、上様のきらびやかな威光に黙り込み追随するように頷いた。
上様がそういうのだから仕方がない、と私はひとつ溜息を吐いて、封筒を手に家を出ることにした。
車内にて適当にコンビニ飯で済ませていると電話が掛かってきた。夫だ。
内容を要約すると「届の提出、終わった?」とのことだった。ニュアンスとしては「買い出ししといてくれた?」くらいの気軽さだった。終わった? じゃねぇよ終わらせてやろうかお前を。
「……まだですね。ふたり揃って行くんだと思ってたので」
「いや、紙の提出だけならひとりでできるかなって」
電話口で彼はけろりと言い放った。天使の言っていた通り、こいつも所詮書類提出くらいにしか思っていないということが良く分かる。
何と言って詰めてやろうと思っていた私は何だか気勢が削がれてしまい、「そうね」とおざなりに電話を切った。
目の前には大きな分かれ道が左右に延びていた。このままひとりで婚姻届を提出して大人しく人妻になる道と、封筒ごと破り捨てて消える道の二本だ。
その真ん中にあるはずの「日を改めて二人で提出しに行く」の道の前には不貞腐れたマツコが座り込んでいた。そうねマツコ、私も今日はその道を選べるほどの心のゆとりはない。
かと言って社内結婚でもある我々。諸々の破棄は即世間体に差し障る。どうしよう。羽積先輩なら笑ってくれるだろうか。
残された最後の道の上で、天使はこちらの様子を伺うように上目遣っていた。
結局、私が降り立ったのは見慣れた役所の前だった。戸籍担当に手の中の紙を出せば良い。ただの手続きだ。何も難しいことはない。
色々思うところはあるにはあったが、すべてを飲み込んで自動ドアを潜った。大人になった訳ではない。ただ自分の機嫌と明日からの社会生活を天秤に掛けて、理性が少しだけ勝ったというだけの話だ。
大丈夫、心の中の上様はきっとこの後に私が肉だ酒だと暴飲暴食をしたとして許してくれるだろうから。
受付を抜け、戸籍担当係が在籍する市民課へ。平日で人が少ないこともあり、待たずに呼び出された。
婚姻届はすんなりと職員の手に収まり受理された。
その封筒に色んな感情が詰まっているとも知らずに、事務作業を終えた職員は笑顔を向ける。
「これで手続きは完了です。おめでとうございます!」
そう言うや職員は立ち上がり、満面の笑みで拍手をした。祝言につられて、手が空いていたらしい他の職員達もこぞって集まり私に拍手を送る。
たったひとりで婚姻届を持ってきたこの状況は、彼らにとってどう映っているのだろう。少なくとも私にとっては少しもめでたくはない。
そこにひとりずつ並べ。拍手している奴は順番に正面からぶん殴ってやる。
心の中の天使と上様に羽交い絞めにされてその場では事なきを得たのだが、終始そんな気持ちだった。
新姓の戸籍謄本が手の中で揺れる。お前なんか即免許証変更で使ってやる、と息巻いて、私は新たな門出を切った。新緑の季節は目に刺さるくらい眩しかった。
自治体によるかもしれないが、ひとりで婚姻届を出すと後日、役所に来なかった方の相手に戸籍係からお知らせが届く。「お前婚姻届出されとるけど本当に良いんやな? お前結婚したんやな?」と確認する内容だ。
恐らく相手の了解なく勝手に婚姻届を出す狂人がいるのでそういう措置を取っているのだろうが、その書面の送り主こそ窓口で拍手してきた奴らなんじゃないか。あの時しっかり祝っていたのは何だったんだ。二重人格か?
ぺらぺらの様式には「事件名 婚姻届」とあったので夫は「事件ですってよ」と無邪気に笑っていた。ええそりゃあ大事件でしたとも、と私は釈然としなかったのだが、何も言わないでおいた。
未だにその件に関して何も言ったことはない。私の心が広いのではない。心の中の上様が穏当に構えていてくれたお陰かもしれない。
◆
何度目か、顛末を思い返していた私は小鍋から立ち上る湯気を眺め、溜息を吐く。
婚姻届提出後もしばらく別居婚だったため、新婚であるにもかかわらず寂れたワンルームには一人分の
役目を終えた背表紙は、幾度目かの鍋敷き業務をこなしたせいか少し色褪せていた。
「いただきます」
少しの感謝と労いとやるせなさを合掌に載せて、ひとり呟いた。
その後何度かの引越を経てゼクシィは行方が分からなくなった。多分納戸の奥だろうとは思う。
日の目を見ることはないそこでは今も、表紙の花嫁が微笑んでいるのだろう。褪せたウェディングドレスを纏って。
人生で最もよく使った鍋敷きの話 月見 夕 @tsukimi0518
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