私たち結婚します
さて被プロポーズの翌日。
実際の婚姻届の提出日まで数ヶ月あったため、周囲にはまだ言わないで良いだろうと思い黙っていた。別に妊娠した訳でもなし、仕事に何らかの支障が出る訳でもない。将来への不安がひとつ消えて少し肩の荷が下りた、くらいである。
我ながら意外と淡白かもしれない、と思いながら退勤の打刻をしている私を呼び止める声があった。
「
振り向けばそこに、タイムカードを持ってニコニコしている女性――
ひとつ年上の彼女は恐らく部署内では仲がいい方の同僚だ。個人的に飲みに行くのも彼女とくらいだろう。
少女漫画のヒロインのように世界の中心は自分だと信じて疑わないのだが決して悲劇ぶる訳でもなく、しかしどこか抜けていて先輩ながらフォローしたくなる、そんな可愛い人だ。食パンを咥えて遅刻しそうな女子高生を思い浮かべて欲しい。十年後の彼女が羽積先輩だ。
特に誰に言いたいとかいう欲もないため結婚については一日黙って過ごしていたのだが、先輩にはバレていたのだろうか。
彼女は誰かに言いたくて堪らない、といった様子で何やら小声で耳打ちしてきた。
「実はさ……プロポーズされちゃった! 結婚します!」
それは思いもよらない告白だった。先輩に付き合いの長い彼氏がいるのは知っていたが、とうとう結婚されるとは。
幾度となく写真を見せられた彼氏さんを思い出す。彼女は私生活をつまびらかにしたい人で、私も日頃から愚痴や惚気を聞かされていた。だから私は彼氏さんとの初デートのコーデから最近の喧嘩の理由まで把握している。
そんな先輩の結婚報告。大長編の少女漫画の終わりを迎えた気分だ。嬉しくないはずはない。
「おめでとうございます! ……実は私も」
「マァジでぇぇぇぇ!!? え、めでたすぎる! おめでとうおめでとう!!」
便乗して打ち明けた私の両手を握り、羽積先輩はぴょんぴょん飛び跳ねた。可愛い。先輩の方も、まさかこんなところで同じ状況の人間がいるとは思わなかったらしい。
「ねぇどうしよ、何かしないととは思うけど、何からやったら良いの? まず誰に言ったらいいか分かんなくて丸一日我慢してたの! えーん幸せな悩み〜」
「取り急ぎ直属の上司に報告……でしょうかね。氏名や住所が変わる場合は婚姻届提出後に免許証や住民票の変更も併せて必要です。社内的には社会保険等の変更手続きが必要ですから人事に書類を提出しなければ」
私はゼクシィで見た知識をペラペラと披露する。これは俗に言う「進研ゼミで見たやつだ!」状態なのだが、アンの言っていたような大人の余裕とかは微塵もなく、何故だろう、どうにもただの早口オタクにしか見えなかった。婚姻手続き早口オタク。
「すご! 準備ばっちりじゃん!」
まあ先輩の役に立てたのなら良いとしよう。
帰り支度をしながら、先輩は考えるように宙に視線を彷徨わせた。
「まずは
椛島さんとは我らが直属の上司の男性だ。大体のやらかしをいつも笑って受け止めてくれる優しい四十代は、私たちの結婚報告をどんな顔で聞いてくれるだろうか。
「もう二人まとめて行っちゃいますか」
「そうね! 椛島さんの方からさらにその上の人に報告するんだろうし、多分一度で済む方が親切だよね」
確かにそうかもしれない、と私も頷いた。忙しい椛島さんを二度も個別にお呼び立てするのは気が引ける。
先程閉じたばかりのパソコンを開き、明日の部内のスケジュールを確認する。昼過ぎであれば三人とも都合が良いようだ。ちょうど良く空いていた小会議室に利用予約を入れる。
さあこれで準備は万端だ。既にちょっと緊張してきた、という先輩を飲みに誘いながら、私は社用パソコンを閉じた。
さて翌日の昼下がり、私と羽積先輩、上司の椛島さんは小会議室にて一堂に会することとなった。
二対一で対面に腰掛けると、椛島さんは緊張の面持ちで私たちに目を遣った。朝一で「この時間に小会議室で打ち合わせをさせてほしい」と声かけはしていたものの内容は内緒にしていたので、もしかすると仕事内容の相談かもしくは退職相談か何かだとも考えていたかもしれない。私も同じ立場だったら心臓に悪いと思う。
「えっと……今日は二人とも、どうしたのかな」
「……どっちから言う?」
どう切り出すか躊躇っているらしい先輩が私に目配せした。
こればかりはあまり前置きを長くしても仕方がない。椛島さんの貴重な時間を無駄にしないためには手短にお伝えしなければ。
「はいじゃあ行きますよ、せーの」
私の掛け声に腹を決めたのか、先輩は慌てて正面に向き直った。
そして二人で事前に打ち合わせていた文言を唱える。
「「私たち結婚します」」
「…………へ?」
椛島さんはものの見事に固まった。まったく想定していなかった報告だったらしい。鳩が豆鉄砲を食らった、という表現が最も相応しい顔だ。うんうん、良い反応をしてくれる。
まさか夢にも思うまい。部下二人から揃って結婚報告があるなどとは――
「え……と、まさか二人がそういった関係と思ってなくて……ちょっと理解が追いついてない……けど祝福する意思は、ある……おめでとう」
椛島さんはそう言ってなんとか拍手をする。ぱち、ぱちと瞬きと共に繰り出されるそれはまさに追い付いていない理解を現すようだった。呑み込めない理解、しかし拒絶すれば何ハラになるのだろうという懊悩、どんなことであろうと上司は部下の告白を受容すべきとする姿勢との葛藤、それらが彼の脳内を駆け巡っているに違いなかった。
違う違う違う違う。絶対私たちが伝えたかったことと違う風に伝わっている。日本語って難しい。かれこれ二十八年は日本語話者をやってきたはずなのに、どうしてこうも多重事故を起こしてしまうんだろう。
その後何とか二人で必死に弁明し、椛島さんに正しくお伝えすることができた。
それから羽積先輩は一ヶ月後にご結婚され、私もそれに続くようにと婚姻届提出日を待っていた――のだが、話はこれで終わらない。
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