第3話
「っ」
悠真様が両腕を広げて、私の到着を待つ。
そこまでされれば、自分がどうするべきか分かっている。
私の体を、彼に預ける。
彼が求めているのは、そういうこと。
私が応えなければいけないのは、そういうこと。
「……無理です」
「ちゃんと抱き留める。ちゃんと抱き締める」
聴覚に高すぎる熱を落とされて、もっともっと触れてほしいという感情が湧き上がる。
「結葵を長椅子から落とすわけがないだろ」
悠真様の甘い声が、鼓膜を刺激してくる。
甘えた声で私を誘惑してくるのが分かって、その声に抗いなさいと体が命令してくる。
(悠真様は、何も想っていないかもしれないけど……)
彼にとって、私はただの婚約者。
だから、こういう戯れた的なことを平気で行うことができるって頭では理解している。でも……。
(私にとって悠真様は、大切な人だから……)
悠真様は私のことを特別意識していなくても、私は彼のことを特別に意識してしまう。
こういうのは、こういう行為は、本当に愛し合っている者同士ではないとやってはいけないと思う。
「……これが命令だったら、結葵は受け入れてくれるか?」
私に安心感を与えながら、私を怖がらせないように、彼は私に慎重に触れる。
その、ふわりとした感覚に体がくすぐったさを覚える。
「悠真様は、そんな命令しません……」
「確かに、俺たちは主従関係ではないからな」
これで、ようやく諦めてくれる。
そう安堵の息を零そうとすると、彼は私をおとなしくさせるための言葉を新たに投げつけてくる。
「じゃあ、夫婦になったときの練習をした方がいいな」
「っ」
悠真様のことを、未来の旦那だと思ってはいけない。
私たちの関係は、契約結婚のようなもの。
そんな風に必死に働かせている思考を、彼はあっさりと読み取ってしまう。
決して表に出してはいけない思考を、彼は簡単に見破ってしまう。
彼にさえ、話したことがないのに。
このことは、誰にも話したことがなかった。
「……練習、させてもらえるのですか?」
違う。
違う。
こういう言葉を言いたいんじゃない。
でも、彼の体に馬乗りのような体勢になるには、適当な言葉を並べなければ勇気が湧いてこない。
だから、心で思ってもいない言葉を口にしながら、私は彼が望むがままに。
彼が身を預けているソファに、自身の体を乗せた。
「ふっ、本当に君は頑固だな」
悠真様に馬乗り状態だったのも一瞬の出来事で、彼は私の腕を引いて体勢を崩しにかかる。
自分の体重を支えきれなくなった私は、彼に体の全部を預けることになってしまう。
「軽いな……」
腰回りに手を回されて、私は彼に抱き締めてもらえた。
彼は、私のことを抱き締めてくれる。
そう思ったけど、その想いも願いも何も叶うことはなかった。
「ちゃんと食べているか」
「食事は、いつも悠真様といただいていますよ」
「間食の時間を増やすべきか……」
「嫁がふくよかになってしまったら、世間に顔向けができません」
私たちは横向きになった状態で向かい合う。
私は彼に抱き締められることなく、彼の横に添えられた抱き枕のようなものなのかもしれない。
「表向きは……
言葉にすることで実感が湧くと思ったのに、私が発したかった言葉は迷子のようにさ迷ってしまう。彼の前で、言葉にしていいことなのか分からない。
「君は、よくやっている」
悠真様の腕が伸びてきて、何をされるのか不安になった私は瞼を下ろして瞳をぎゅっと閉じてしまう。
「ちゃんと、筒路森の婚約者としての振る舞いができている」
光が差し込まなくなった世界で怯えていると、温かさを感じるものが頬を優しく撫でてくる。
「結葵が変わっていくと思うと、寂しくもなるが……」
悠真様の手が私の頬に触れていると想像はできるけど、私はまだ瞼を上げることができない。
「結葵は、筒路森の外に出ても大丈夫だと思えるのは嬉しい」
視界に入ってくるものがないことが原因なのか、彼が頬を触れる指の感覚に震えのようなものを感じてしまう。
何も怖いことはされない、嫌なことは何もされないって分かっているのに、彼に触れられるたびに私の体はぴくりと反応してしまっている。
「結葵」
悠真様に、触れていてほしい。
悠真様に、触れてもらいたい。
そんな気持ちが溢れて止まないことに気づかされるけど、湧き上がる感情を口にすることができない。
「俺のこと、見てくれるか?」
紫純琥珀蝶が存在しなければ、私と彼は出会うことがなかった。
儚い繋がりしか持っていない私が、こんな願いを抱いてはいけない。
「せっかく結葵と二人きりなのに、結葵が俺のこと見てくれないと寂しい」
大好きな人に触れてほしい。
大好きな人に触れたい。
そんな願望は、蝶の記憶を辿ることができる化け物には相応しくない。
「……できません」
自身の体を、彼に寄せる。
自分から触れることは許されない。
分かってはいるけど、自分の顔を隠すための手段が浮かばない。
彼に顔を見られないように、彼の体に顔を埋めるように体を密着させる。
「そんなに抱き着かなくても、落としたりしない」
抱き着いたつもりはない。
ただ、顔を隠したかっただけ。
でも、それらの想いは彼には通じなかった。
「怖くないか?」
腰に、彼の腕が回される。
さっきは抱き締めてくれなかったのに、今度はいとも容易く私は彼に抱き締められた。
「悠真様……」
「ん?」
瞳いっぱいに、彼を視界に映す。
そうなってしまったのは、彼の行動に驚かされたから。
突然のことに驚いてしまったために、頑なに閉ざしていた視界を開くことになった。
でも、今振り返れば……なんで、もっと早く彼のことを視界に入れなかったのかなと思ってしまう。
私たちの時間に限りがあるのを知っているなら、私は一秒でも長く大切な人を見ていたいはずなのに。
「恥ずかしい……です……」
悠真様と見つめ合うことが、恥ずかしい。
彼の瞳を見つめ続けていたいのに、恥ずかしい。
そんな想いを、彼に訴える。
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