第2話

「何もかもが片づいたら、世界を巡る旅でもしたいな」

「旅……」

「趣味で続けてきた写真の集大成というところか」


 北白川の中での出来事が人生のすべてだった私にとっては、とても規模の大きな話をされていて想像することも難しいくらい壮大な旅のように思えた。

 それでも唯一想像できることは、毎日が多くの出会いで満ち溢れているんだろうなということくらい。


「結葵に」


 私の知らない世界のお話に対して、頑張って妄想を膨らませる。

 頭の中が希望のようなもので埋め尽くされていく最中に、突然、自分の名が話題に乗せられた。


「年老いてからの趣味に付き合わせるもの悪いとは思うんだが……命が尽きるその日まで、旅を楽しみたいっていう夢を諦めきれない」


 名前を出されたことで、私の意識は妄想から帰還した。

 しっかり現実と向き合いなさいと、自分の意識に叱咤される。


「もちろん旅が終わったら、結葵には自由に生きてほしいと思って……」

「旅の中で、互いの生き方を見つけていきたいですね」


 悠真様との関係は、紫純琥珀蝶しじゅんこはくちょうを通して結ばれたもの。

 悠真様との繋がりを、紫純琥珀蝶が存在しない未来まで繋いではいけない。

 何度も何度も頭をかすめてきた言葉を、あらためて心の中で唱える。


「…………あの」


 それでも、今はかりそめの婚約者同士だから。

 彼から、愛を注いでもらう日々は本物。


「悠真様の旅が素晴らしいものになるように」


 私は、彼に嫌われていないかもしれない。

 かもしれないって思えたことが、私に強さのようなものを与えてくれた。

だから私は、彼を幸せにする一番の方法を見つけにいきたいと強く願う。


「お祈り申し上げます」


 彼は、世界を巡る旅に出る。

 紫純琥珀蝶が飛び交わない世界が、どんな世界なのかを知っていくために。

 遠い未来で彼はご自身の足を使って、世界を確かめに行くと知っている。

 だから、いつかは私との別れは訪れる。


「……空の色も美しいのでしょうね」

「空は繋がっているはずなのに、どうしてその土地によって違った色を見せるんだろうな」


 悠真様にとっては、ふとした疑問を言葉にしただけのことだったと思う。

 でも……。


「素敵な表現……ですね」


 意味不明なことを言ってしまったかもしれない。

 でも、本当に彼の言葉を素敵だと思った。

 心の中に生まれた気持ちを、私は素直に言葉で表現してみた。


「空が繋がっているというところが、です」

「……素敵というより、事実を述べただけだがな」


 私の発言が、彼のことを困らせている。

 彼の言う通り、世界のどこへ行ったとしても空は繋がっている。

 空が途切れるなんてことが起きるわけでもないのに、私は彼がふと口にした言葉を好きだと感じた。


「悠真様と一緒に、美しい空を見上げたいです」

「記憶を喰らわないと保証してくれるなら、蝶も一緒に連れて行きたいな」

「……ありがとうございます、悠真様」


 私が大切に想う紫純琥珀蝶を、彼も大切に想ってくれていることに感謝の気持ちを伝えたつもりだった。

 でも、肝心の彼の心ここにあらずといった雰囲気になっていることに気がつく。


「お疲れですか? でしたら、寝室に……」


 こんな風に、言葉を選ぼうとする彼は珍しいと思った。

 私は彼の言葉を待つことしかできないから視線を向けたままだけど、彼の視線はなかなか私に定まってくれない。


「…………」

「…………」


 何を言葉にしたらいいのか分からないのは一目瞭然。

 焦らなくていいですとか、無理に言葉を紡がなくていいですよ、とか。

彼に向けるべき言葉は、いくつか思いつく。


(こんな悠真様が貴重すぎて……)


 けれど、言葉を送ることよりも、悠真様のことをずっと見ていたい。

 彼の心が落ち着くまで見守っていたい。

 そんな風に思ってしまう。


「あの……」


 彼を見つめてばかりいるのも申し訳ないと感じた私は、一瞬だけ彼から目を逸らした。


「結葵」


 そんな時機を見計らって、彼は私に話しかけてきた。

 だから、私は彼に視線を戻すべき時機が分からなくなってしまって、視線をなぜか暖炉の方へと向けたまま。

 けれど、彼の視線は私の体に突き刺さる。


(狡い……)


 悠真様の話を、ちゃんと聞きたいと思っていたのに。

 私が離れた瞬間を狙うなんて、彼は本当に狡すぎる。


「悠真様のお話、聞かせてください」

「……ありがとう、結葵」


 悠真様の方に視線を向けられない状況ができてしまった私は、彼に送りたくて仕方がなかった言葉をようやく送る。

 何も焦ることはないからって気持ちを込めながら、なんとか彼が声にすることを躊躇っている言葉の数々を引き出せるように試みる。


「少し、こっちに来てくれないか」


 彼が身を預けていた洋風の長椅子は仮眠用に使われるものなのか、三人くらいが腰かけても大丈夫そうな広さを誇っている。


「…………」


 悠真様は、ほぼ横になっている状態。

 完全に寝ているわけではないけれど、身長の高い彼が長椅子を占領してしまったら私はどこにお邪魔すればいいか分からない。


「…………少しだけですよ」


 お疲れの悠真様には少しでも早く身体を休めてもらいたい。

 そう思って、なるべく早く会話を切り上げるにはどうしたらいいかと思案しながら彼の元へと近づいた。

 そんな私を見かねた彼は手招いて、もっと傍に寄るよう私のことを呼び寄せる。


「無理です……」

「無理じゃないだろ」


 さっきから、このやりとりを繰り返す。


「無理……」

「大丈夫」


 悠真様と出会ったときから、そうだった。

 私が無理と否定をすると、彼は大丈夫だと肯定してくれる。

 私たち、正反対だった。

 出会った頃も、今も。


「意識しすぎだ」


 私たちが揉めている原因は、ただ一つ。

 洋風の長椅子に身を預けている彼は、私にも長椅子を使うように促してくる。

 一緒に休もうと言いたいのは分かるけれど、彼が靴を脱いで仰向けに体を寝そべらせている状態で私はどこに座ればいいのか分からない。

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