第6話

「美、怜、ちゃん……」


 闇の中から姿を現したのは、血の繋がりのある私の妹だった。

 その容貌は別れたときと変わらぬ美しさを兼ね備えているが、その眼には憎しみが炎のように燃え盛っていた。


「筒路森様、逃げないでくださいな」


 彼女の薄い唇には、冷笑が浮かんでいる。


「私、蝶を操ることができるようになったのですよ」


 妹の背後から登場したのは、淡い紫色が特徴的な蝶々。

 木々の隙間から差し込む月明かりが、紫純琥珀蝶の鮮やかさを強調していく。


「ほら、ほら、ほらっ」


 妹が従えて現れたのは間違いなく紫純琥珀蝶のはずなのに、どこか冷たい威圧感を放っている。


(本当に、そんなことが可能なの……?)


 蝶の言葉を理解している私ですら、蝶の意識を操ったことがない。

 妹の発言が虚言のような気がしてならないけれど、蝶は確かに妹の背後を舞い続ける。


「お姉ちゃんたちが迷子なのも、み~んな蝶の仕業なんですよ」


 悠真様は背中に担いでいた来栖さんを、一般の木の根元にゆっくりと下ろす。

 止血するための布地の在り処を教えることができた来栖さんなら、もう少し体が保つと信じてのことだと判断する。


「蝶が幻術を操るなんて、聞いたこともないな」

「だから、お姉ちゃんにできないことが、私にはできちゃってるってことです」


 妹の発言は、ある意味では事実。

 何度も同じところを行き来してしまったせいで、北白川の屋敷に辿り着くことができなかった。

 そんな不確かな現象、幻術の力に踊らされているとしか考えらない。


「そうですねぇ、次は……こんなことをしちゃいましょうか」


 妹の声が蝶の耳に響き渡ったように、彼女の美声が奇妙な寒気をもたらした。

 蝶が私の体を包み込むように、囚われの繭を作り上げるかのように締めつけていく。


「結葵っ」

「悠真様は、動かないで。お姉ちゃんが、窒息死しちゃいますよぉ。あ、でも、私は、それでもかまいませんけどね」


 抗おうとしても、体を思うように動かすことができないくらい真白の繭に囚われていく。


「私を、筒路森のお嫁さんにしてくださいっ」


 妹の声が、毒のように甘く耳に絡みつくことを不快に思った。


(妹をなんとかしないと、悠真様も、来栖さんも……)


 蝶は音もなく羽ばたき、その美しさと恐ろしさを際立たせるように睨みつけてくる。

 でも、私の視界では蝶の目を確認することはできないけれど、睨みつけた対象が私ではない気がした。


「君には、興味がないと言っているだろ」


 悠真様は手に拳銃を携えているけど、ただの人間である妹を撃つわけにもいかない。

 力なき人間を前に打つ手がないはずなのに、彼は冷たい眼差しで妹のことをあしらっていく。


「あ、わかりましたっ! まだ私の力を信じてくれないってことですね」


 悠真様を視界に捕らえ、妹の中には心の奥底で抑えきれない感情が込み上げてくる。


「筒路森様の記憶を消して」

「っ、美怜ちゃん!」

「記憶がまっさらになれば、私を愛してくれるようになるでしょ?」


 自分の中にある確信を強く主張するように、妹は満面の笑みを浮かべた。


「美怜ちゃんっ!」


 蝶が揺らめくように舞い、悠真様に近づいていく。

 蝶の美しさは人を惑わせるような魅力を持っているけれど、いつまでも魅了されてばかりではいられない。


(私も、助けるための手段を……)


 悠真様は拳銃を構え、静かな怒りと共に狙いを定めていく。

 鋭い視線と積み上げられた経験は、次々と蝶を射止めていく。


「可哀想な美怜ちゃん」


 言葉をくれたのが悠真様ではなかったことに、妹の顔が歪んだ。

 完璧だった妹の美貌が、憎悪という感情の棘でひび割れていくように思えた。


「こんなかたちでしか、愛を受け取ることができないなんて」


 妹の怒りを積もらせることで、蝶を操っているという不可思議な現象の正体を探っていく。


「言ってたよね? 筒路森に嫁いだところで、私の未来は真っ暗だって」


 彼女が口を割るまで、私は彼女の怒りを買い続ける言葉を選ばなければいけない。


「でも、私は、悠真様に愛してもらえた」

「うるさいっ! 黙れ! 黙れっ!」


 じわじわと、妹の憎しみが積もっていく。


「私、蝶に愛されて、幸せ」

「どうして、あんたみたいな化け物が……!」

「美怜ちゃんは、化け物じゃないの?」


 ふと向けた疑問に、妹は言葉を詰まらせた。


「はぁ? 私が化け物? そんなわけないでしょう?」


 狂おしいほどの希望が入り混じった微笑みを浮かべた妹のことを、始めて怖いと思った。


(やっぱり、この現象には理由がある)


 私は化け物で、妹は化け物ではない。

 化け物でない妹は、蝶を操っているように見せかけているだけだと気づく。


「っ、は……」


 妹に視線を向けていたことが仇になり、悠真様の体調を気遣うことができなかった。


「よくやった! よくやったわ、おまえたち」


 傷ついた彼の腕から血が滴り落ち、その一滴一滴が闇夜の土を濡らしていく。

 月明かりが静かに差し込む中、蝶は舞い踊るように悠真様の周りを取り囲んでいた。


「悠真様っ!」

「来るな」


 それでも彼は拳銃を握り締め、最後の一撃を放つ覚悟を決めていた。

 だけど、怪我の影響で、動きが鈍っているのは一目瞭然。


「俺が記憶を失ったら、何がなんでも、ここから脱してくれ」

「悠真様っ」


 蝶が彼の隙を見逃すはずもなく、一瞬のうちに彼は妹の手にかけられて地面に押し倒された。その様子は、とても恋い慕う相手への行動に思えなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る