第五章 我に力を

 ある夜の事。涼しい風が頬を優しく撫でていく中、すぐ近くの小高い丘に妖怪の気配を感じる。

 感覚を研ぎ澄まして耳を澄ませば、所謂低級と呼ばれるクラスの妖怪だろう。蓮香寺に向かってくるのがわかる。そんな時に限って我鷲丸は都の様子を見に行ったきり帰ってこない。

 智晴は不安になってしまった。

「俺がやるしかないか……」

 懐の護符を、確かめるようにギュッと掴む。

「およしよ、智晴。我鷲丸が戻るまで様子を見た方がいい」

「大丈夫だよ、神楽。あのくらいの妖怪なら、俺一人でなんとかなる。それに、いつまでも我鷲丸を頼ってばかりはいられないし」

「なら、あたしも……」

「いや、神楽はここで待ってて。一人で大丈夫だから」

 不安そうに智晴の着物を掴む神楽の手をそっと下ろす。

 烏帽子の紐をキュッと結び、寺を後にした。


 妖怪の気配を辿り丘に向かって歩いていると、ガザガサッと草が揺れる音がする。ハッとした瞬間茂みから恐ろしい妖怪が飛び出してきた。

「ガハハハハッ! 人間だ! はらわたを寄越せ!」

「わっ!!」

 突然襲ってきたのは、三つ目の黒鬼。牙を剥き出して智晴に襲い掛かった。

「護符……護符を……」

 黒鬼を避けながら慌てて懐を探るも、手が震えてなかなか取り出すことができない。こんなことなら最初から護符を手に持っておけばよかった……。

「寄越せぇぇぇ!!」

「嫌だ、嫌だ! 助けて、我鷲丸!」

 やっぱり一人ではだめなのか……。そう思ったその時、「ガハハハハッ! ギャァァァァ!」と、黒鬼の笑い声は、叫び声に一転した。

「え?」

 黒鬼に背を向け全力で走って逃げていたが、向かってきていた鬼の気配が止まる。恐る恐る後ろを振り返って様子を窺った。

「が、我鷲丸……」

 目の前には、三つ目の黒鬼に狐火を浴びせる我鷲丸の姿。

「くたばれ! 低級が!」

「ギャァァァァ!」

 我鷲丸の鋭い爪に八つ裂きにされた三つ目の黒鬼は、醜い悲鳴と共に煙となり空へ昇って行く。その姿を智晴は茫然と見つめる。

 もし我鷲丸が来てくれなかったとしたら、もしかしたら自分は……慌てて我鷲丸の傍へと駆け寄った。


「我鷲丸……ありがとう。助かったよ」

「ありがとうじゃねえーだろうが」

「え?」

 そのあまりの剣幕に智晴の体がピクンと跳ね上がる。

「お前ひとりでどうにかなる相手じゃないのがわかんねぇのかよ。俺が来なかったらお前死んでたぞ?」

「ご、ごめん。でもそんな言い方しなくても……俺は強くなって、お前に迷惑かけまいとして……」

「思い上がるのもいい加減にしろよ。今のお前は一人じゃ何もできねぇ。死にたくないなら、俺の傍から離れるな」

「なんだよ、何もそこまで言わなくていいだろう!? 俺だって鬼くらい倒せる」

「いい加減にしろ! 今のお前には無理だ」

「そんな……ならいいよ! もうお前なんか頼らない」 

 目頭が熱くなり、我鷲丸に背を向けて蓮香寺に向かって走り出す。

「待てよ、智晴」

「嫌だ、待たない!」

 一人前と認められなかったことが、悔しくて惨めで。目頭が熱くなった。今すぐにでも消えてしまいたい……そんな智晴は、突然背中から温かなものに包み込まれる感覚に思わず目を見開く。

――なんだ?

 背中越しに振り返ると、自分の肩に顔を埋める我鷲丸が視界に飛び込んできた。

 もしかして今、我鷲丸に抱き締められてるのか……? 予想もしていなかった出来事に、智晴の心臓が飛び跳ねる。


「頼むから無茶はするな。もう、俺を置いて行かないでくれ」

「は? なんだよ、突然。俺はお前が大好きな武尊じゃないぞ。いいから離せよ!」

 その腕を振り解こうとすると、余計に力を籠められてしまう。その馬鹿力に呼吸が止まりそうになった。

「置いて行かないでくれ」

「……我鷲丸……」

 初めて聞く我鷲丸の悲痛な声に、智晴の胸に小さなさざ波が立つのを感じる。

 ただ、この言葉はきっと自分に向けられているものではない……そう思えば、涙が出そうになった。智晴は我鷲丸に向かい静かに話し始める。しかしその声も、情けないことに震えていた。

「……俺は、我鷲丸に触れたときに、武尊の記憶が蘇ることがあるんだ。なぁ、我鷲丸は武尊のことが好きだったんだろう? だったら俺は不利じゃないか……。皆は俺と武尊の魂が同じだとか、俺から武尊の匂いがするとか言うじゃん? 魂とかよくわかんないけど、俺の魂がお前のことが好きなんだとしたら、そんなものには勝てるはずがない」

「智晴……」

「こんなの平等じゃない。我鷲丸はズルい。武尊とは、見た目も性格も全然違うんだから、俺のことを何とも思っていないのは知ってるけど……でも、俺は我鷲丸のことが気になって仕方がない」

 我鷲丸の着物の襟を掴み睨みつければ、珍しく驚いたように目を見開いている。

「過去の自分に嫉妬するなんて、苦しいしアホらしい。武尊は自分なのに自分じゃない。俺は武尊にはなれないし、武尊のことを超えることなんて、今の俺にはできるはずなんかない」

 唇を噛み締めて俯いたけれど、堪えきれなかった涙が我鷲丸の着物に音もなく吸い込まれていった。


――なんて惨めなんだろう。

 そう思うと泣けてくる。こんなはじめから実らない恋なんて、本当はしたくなかった。しかし、魂が求めてやまないこの男から目を逸らすことなどできるはずがない。

――俺は、我鷲丸のことが……。

 子供のように涙を流す智晴を、我鷲丸が無遠慮に抱き締めてくる。「同情なんて御免だ」と腕を突っぱねようとしたが、力で勝てるはずなどない。そう感じた智晴は、大人しく我鷲丸の腕に体を預けた。

 我鷲丸の腕は逞しくて、とても温かい……。無意識に頬を寄せた。

「俺は、お前が可愛い」

「いいよ。無理しなくても」

「無理なんかしてねぇ。確かにお前は武尊とは似ても似つかない。月と鼈だ」

「スッポ……! わ、悪かったな!」

「でも、そんなお前が俺は可愛い」

「我鷲丸……」

「可愛いよ」

 智晴の目の前で我鷲丸が静かに目を閉じれば、長い睫毛が影を落とした。「我鷲丸」。そう名を呼ぼうとした智晴の唇は、我鷲丸に奪われてしまう。鼓動が少しずつ速くなって、痛いくらいに胸が締め付けられた。

「智晴……」

 熱の籠った我鷲丸の声に、ゾクゾクッと背中を電流が駆け抜ける。智晴は小さく身震いをした。

 武尊もこの腕に抱き締められながら、キスをしたのだろうか……そんなことをボンヤリ考えていると、どうやら我鷲丸に気付かれてしまったらしい。

「お前はいちいち面倒くさい奴だ」

「んッ、あ、ふぁ……」

 そう吐き捨てるように呟いた我鷲丸に、荒々しく唇を奪われてしまった。


◇◆◇◆


「我鷲丸と喧嘩でもしたのかい?」

「別に……喧嘩ってわけじゃ……」

「フフッ。二人共わかりやすいったらありゃしない。昨晩から我鷲丸もガキみたいに唇を尖らせてたよ」

「そうなの?」

「そうだよ。さっさと仲直りしちまいな。仕事がやりにくくてしょうがないよ。痴話げんかは犬も食わないんだから。ほらほら」

「ち、痴話げんかなんじゃ……」

 まるで急かされるように神楽に背中を押され、渋々我鷲丸の元へと向かったのだった。


「我鷲丸、まだ怒ってんのか? 俺が悪かったから機嫌直せよ」

 縁側で昼寝をしている我鷲丸の後ろから話しかける。

「別に怒ってなんかねぇし」

「怒ってるじゃん……」

 それでも智晴だってわかっているのだ。我鷲丸は怒っているのではなく、自分を心配しているのだと。あれから頭を冷やして、少しは反省もした。

「でもさ、我鷲丸だって俺に好き勝手してんじゃん?」

「はぁ? いつお前に好き勝手したってんだよ?」

 心外だ、そう言いたそうに横目で睨みつけらてしまった。

「好き勝手してるよ。突然キスしたり、抱き締めたり……俺がそういうの慣れてないから面白がってるんだろう?」

「キス? もしかして接吻のことか?」

「そうだよ。俺、初めてだったんだから」

「そりゃあ、どうもすみませんでした。いつまで根に持ってんだよ。たかが接吻で……」

 全く悪びれた様子もなく、再びそっぽを向かれてしまう。あまりの剣幕に尻込みしそうになるが、意を決して我鷲丸の顔を覗き込んだ。


「なぁ我鷲丸。そんなことより、俺に戦い方を教えてよ」

「はぁ?」

 我鷲丸の体を揺らせば、迷惑そうな顔をされてしまう。

 なにもそんな顔をしなくてもいいではないか……文句の一つも言いたくなるが、ここで言い合いをしたらまた振り出しに戻ってしまう、と必死に抑える。大体、今まで平凡な高校生活を過ごしていた智晴がいきなり妖怪相手に戦えるはずないではないか。今になって真面目に部活に取り組んで体を鍛えておけばよかったなんて、後悔しても遅いのだ。

 これまでは体が勝手に動いたことで何とか護符も扱えたし、五芒星の陣も召喚できた。でもそれは、本当に偶然でしかなかった。いつも戦いが終わったあとには、自分がどう戦ったかなんて覚えてもいないのだ。

 自分だって戦い方を身に着けて、我鷲丸の役にたちたい……いつしか智晴の胸に、熱い感情が宿っていた。

 いつまでも守られているばかりではなく、自分も黒羽に立ち向かうだけの力が欲しいのだ。

 智晴の着ている着物の懐に、律がいつも使っていた護符が忍ばせてある。その護符を見る度に、優しい律の笑顔を思い出す。

 誰にも理解してもらえなかった妖怪がいる恐ろしい世界を、律だけはわかってくれた。怯えて暮らす智晴を、律はずっと守ってくれていたのだ。

 律を守るためにも、今より強くならなければいけない……頭ではそうわかっているのに、これまではなんの努力もしていなかったのだ。

「俺はもっと護符をきちんと扱えるようになりたいんだ」

「んーーー」

「おい、我鷲丸! 聞いてんのか?」

「聞いてる聞いてる。ふぁぁあ……」

 力任せに我鷲丸の体を揺さぶれば、大きな欠伸をしながら体を起こす。面倒くさそうに頭をガシガシと掻いた。

「じゃあ、行くか」

「え? 行くってどこに?」

「寺の裏山だ。ついて来い」

 突然立ち上がり歩き出す我鷲丸を、慌てて追いかける。

「あらあら、どこかに行くなら握り飯でも作ってやるから持ってきなよ」

「神楽、ありがとう」

「心を込めて握ったから美味しいよ」

 神楽から手渡された包みの中には、美味しそうなお握りが並んでいた。


◇◆◇◆


 我鷲丸に連れて来られたのは、紅葉が生い茂る山だった。

 人々からは紅葉山もみじやまと呼ばれ親しまれているのと同時に、妖怪が出る場所としても有名なようだ。そのせいか人気は全くなく、時々聞こえる獣の声がひどく不気味に感じられる。

 初夏の今は紅葉はまだ緑色をしているが、日差しを受けキラキラと輝く光景は目を見張るものがある。サラッとした風が頬を優しく撫でていった。

「すごく綺麗な場所だね。ここも武尊に関係のある場所なのか?」

「ああ。この山には武尊が妖怪を封印している塚が至る所にある。塚と言ってもただの岩だがな」

「その塚は、黒羽の封印が解けちゃったとき一緒に解けなかったのか?」

「それは大丈夫だったな。黒羽が封印された塚は運悪く山ごと崩れちまったが、ここは見ての通り、まだ崩れてない」

 我鷲丸の視線の先には大きな岩が積み重ねられた塚らしきものがたくさんある。それは観光の名所でもある『賽の河原』のようだ。

 積み重ねられた岩の下に、妖怪が封印されてるのかもしれない。中から妖怪が出ようとしているのだろうか……岩を揺らすような音と禍々しい妖気をひしひしと感じ、背筋を冷たいものが走り抜けた。


「今から一匹妖怪の封印を解いて、護符を使って退治してみろ」

「封印を解いて、護符を使う……。え? 誰が?」

「お前以外いないだろうが?」

「え、俺が?」

 当たって砕けろとでも言うような我鷲丸の言葉に戸惑いを隠せない。護符を使うことは初めてでないにしても、その使い方からちゃんと教えてほしいのに……。そもそも、塚の封印なんてどう解いたらいいのだろうか。

 こいつ、教えるの下手なのか? もっと丁寧に教えてほしい……智晴は大きな溜息をついた。

「封印を解くのに必要なのは武尊の血液。すなわち、お前の血液だ」

「俺の、血液? でも、俺、血なんて今出てないし」

 血液が必要だと言われても出血なんてしてない今、どうやって血を? 我鷲丸を見上げれば、またもや呆れたように溜息をつかれてしまう。

「本当に困った坊やだな。血が出ていないなら出せばいいだけの話だろう」

「え? 痛ッ!」

 次の瞬間首筋に鈍い痛みが走り、何かが皮膚に喰い込む感覚に襲われる。我鷲丸が自分の首に噛み付いたのだ、と理解するまで時間がかかった。

 鳥肌がたつのと同時に強い痛みを感じ、生温かい血が首筋を伝った。

「おい、痛い! やめろよ!」

「ほら、血が出てきたぞ」

 なんでもないような口ぶりで、口に着いた血をペロッと舐めながら、我鷲丸が塚の方を指さす。

「あの岩に血で五芒星を書けば、封印が解ける」

「クッ、好き勝手やりやがって……」

 痛みを堪えながら岩に向かう。血が着物の襟にじわじわと吸い込まれていく感覚だけで、貧血を起こしてしまいそうだが……そんな甘えたことを言っていたら、妖怪となんて戦うことはできないだろう。

 震える指先で、目の前にある大きな岩に五芒星を描く。書き慣れていないせいでいびつな五芒星になってしまった。


「汝に命ずる。眠りを覚ませ」

 紅葉の葉が風に揺れザワザワッと大きく揺れた後、五芒星が淡い青色に光り出す。ゴゴゴッという重たい音と共に、大きな岩が動き出した。

「岩が……動いた……」

「上手く封印が解けたみたいだな。初めてにしては上出来だ」

「なぁ、ここに封印されていた妖怪って、いい妖怪なんだよな?」

「お前は馬鹿か? わざわざ武尊がいい妖怪を封印するわけないだろう」

「じゃあ、もしかして……わぁぁぁぁ!!」

 五芒星が描かれた岩が砕かれた瞬間、「おぉぉぉぉ!!」という恐ろしい声を上げながら妖怪が飛び出してくる。

 体を強張らせる智晴を見て、我鷲丸が嬉しそうに目を輝かせる。

「ほう……犬神の封印を解くとは……運が悪かったな」

「犬!? これが犬なのか!? 全然可愛くない! て言うかお前、この塚の中にどんな妖怪がいるかわかってなかったのかよ!」

 今目の前にいる妖怪は犬神と呼ばれているらしいが、智晴が知っている犬などではない。まるで狼のように大きな体に耳まで裂けた口からは、真っ赤な舌がはみ出し涎を垂らしている。その恐ろしい獣の姿に、智晴の体から一瞬にして血の気が引いていった。

「ガルルルル……」

「おい、モタモタしていると喰われちまうぞ。こいつは封印から目が覚めたばかりで腹が減ってるはずだ。それに 、話してわかる相手じゃないだろう」

「そ、そんな……それで、ここからどうしろって言うんだよ! 封印? どうやるんだ!?」

「何を寝ぼけたことを言ってやがる。律の護符があるだろうが。妖怪に会ったら護符を出して呪いを唱える、そんだけだ」

「そ、そんな適当過ぎるだろ!?」

 それでも我鷲丸の言葉にハッとして懐をギュッと掴めば、護符が微かに熱を帯びていた。

「これか……」

 護符を取り出し人差し指と中指の間に挟み、大きく息を吸う。今にも暴れ出しそうな犬神を目の前にすれば、自然と足がすくむ。あとは呪いを唱えるだけ……そう分かっているのに、言葉が出ない。無意識に体が逃げる方向へと向きを変えていく。

 どんなに奥歯を噛み締めても止まらない震えに、やはり自分が情けなくなってくる。

「くそ……くそぉ……!」

「大丈夫だ。いざとなれば俺がいる。お前のことは絶対に俺が守るから。だからお前はあいつを封印することに集中しろ」

「我鷲丸……」

「ほら、来るぞ」

「グワァァァァァ!!」

 両手を合わせ目を閉じ、大きく息を吐く。すぐ目の前には真っ赤な口を開けた犬神が迫ってきている。しかし隣に我鷲丸がいるせいか、不思議と今は落ち着いていた。

 我鷲丸がいれば大丈夫だ……そんな思いが智晴の心を奮い立たせた。


「眠りより覚めし悪霊よ。怒りを鎮め我が友となれ。急急如律令」

 呪いを唱えれば足元に五芒星が浮かび上がり、淡い光が智晴と犬神を包み込む。

「グォォォォ!!」

「やったか……え!? そ、そんな!」

「智晴!」

 一瞬力を失ったように見えた犬神だったが、雄たけびのような声を上げ再び智晴目掛けて突進してくる。それを見た我鷲丸が牙を剥き犬神に襲いかかろうとしたから、咄嗟にその腕を掴んだ。

「待って、我鷲丸、待ってくれ……」

「馬鹿が。何を言ってるんだ!」

「お願い、もう一度だけ……もう一度だけチャンスをくれ」

 あまりにも真剣な智晴の顔を見た我鷲丸が、力を抜く。

「ったく、好きにしろ」

 もう一度指に護符を挟み犬神を見上げる。深く息を吸って、そっと吐き出す。

 大丈夫だ。きっと今度はうまくいくはずだ。

「犬神よ、我が友となれ。急急如律令」

 その瞬間、眩しい光に犬神が包まれ、思わず目を細める。サラサラと音を立て護符が消えていった。

「クーンクーン」

「やったか……?」

 犬神は甘えた声を出しながら耳を垂らし、智晴の足元に蹲った。その姿は、まるで「ごめんなさい」と言っているように見えて、微笑ましい。こうなってしまえば、智晴の知っている犬のようだ。

「大丈夫だ。怒ってなんかないから」

「クーンクーン」

「あ、コラ。くすぐったいだろう。あははは!」

 ペロペロッと先程我鷲丸に噛み付かれた傷を舐めるものだから、くすぐったくて思わず笑ってしまう。そんな犬神の頭をそっと撫でた。

「こいつ……武尊でさえ手懐けられなくて封印した犬神を……」

「え、我鷲丸、なんか言った?」

「なんでもねぇよ。まぁ、今回はお前にしたら上出来なんじゃねぇの? まぐれかもしんねぇし、武尊にはまだまだ及ばねぇけどな」

「なんだよその言い方、いいけどさ……。 長い間、こんな所に閉じ込めてしまってごめんな。もうお行き。お前は自由だよ。あ、ちょっと待って!」

 フリフリと大きな尾を振りながら空に向かい飛び立とうとした犬神を、智晴は呼び止める。

「これ、俺の仲間が作ってくれたおにぎりなんだけど……ずっと寝てて腹が減ってるだろう? もしよかったら食べて」

 神楽に渡された包みを開けると、形のいいおにぎりが顔を出す。

「ほら、お食べ」

 そっと差し出せばパクッと一口で全て平らげてしまった。

「クーンクーン」

「あははは! 元気でな」

 自分に頬擦りをしてから大空に向かって飛び立って行った犬神を、その姿が見えなくなるまで見送る。

 何とも言えない満足感に包まれた。 


「全く危なっかしいったらありゃしない。見てらんねぇよ」

「ごめん。でも俺できたよ」

「まぁな。自信に満ち溢れた顔だけ、一丁前に武尊にそっくりだな」 

 フイッと背を向けられてしまったから、慌てて我鷲丸を追いかける。

「せっかく神楽に作ってもらった握り飯を、ワンコロなんかにあげやがって。お陰で腹が減ったじゃねぇか」

「ワンコロってなんだよ! 自分だって狐だろう?」

「うるさい、俺は高貴な狐なのだ」

「あー、はいはい。そうですか。すみませんでしたね」

「お前は本当に可愛くねぇな!」

「わッ!」

 突然腰を抱き寄せられ、首筋に口付けられる。跡がのこるのではないか……と不安になるくらい強く吸われて、ペロリと首筋を舐め上げられた。

 首筋に感じるザラザラとした温かい感触に、智晴の心臓が震えて、心拍数がどんどん上がっていく。背中をゾクゾクッと甘い電流が走り抜けていくのを感じた。

「ま、また我鷲丸は俺をからかいやがって……」

「ふふっ。まだ血が滲んでいたからな」

「このエロ狐め……」

「お前は本当に初心だな。からかうと面白い」

 二人で口論をしながら神楽の待つ蓮香寺へ向かう。


 それでも、言い合ったり助け合ったり、この不思議な関係が智晴は心地よかった。

 そして、我鷲丸に触れられたときに感じる胸の高鳴りと息苦しさ。いくら智晴が恋愛に奥手だと言っても、その正体が何なのか……ということくらい想像がつく。

「本当に勘弁してほしい」

 心臓がうるさいくらい高鳴っている。智晴は火照る頬を両手で冷やしながら、家路を急いだ。



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