第四章 武尊の式神

「あー、冷たいジュースが飲みたい……Wi-Fiはどこだ……ゲームしたい……」

「さっきから何をブツブツ言ってんだ?」

 寺の大広間に寝転び子供のように駄々を捏ねる智晴を、呆れたような顔で我鷲丸が見つめている。

「だって、この時代どうなってんだよ。夜は真っ暗だし、風呂もない……」

「風呂? それなら昨日、川まで水浴びに連れて行ってやったろうが」

「違うんだよ! 俺は温かいお湯に、ゆっくりと浸かりたいんだ。本当に平安時代って不便なんだな」

 そんな不満を我鷲丸にぶつけても仕方ないなんてわかってはいるが、令和の時代を生きていた智晴からしてみたら不便以外の何物でもなかった。


 それでも寺の周囲を散策すれば、貴族の優雅な生活が見てとれる。

 煌びやかな着物を着た若者がお屋敷の庭で蹴鞠を楽しんでいたり、楽器を演奏していたり……その光景は、教科書に載っている文化そのものだ。

 平安の都には、華やかな世界が広がっていた。

「今日、武尊の式神が戻ってくる」

「武尊の式神が?」

「あぁ。お前がこの地に来たおかげで妖力が戻って、眠りから覚めたようだ」

「そうなんだ……」

「智晴、ちょっと来い」

「え、ちょ、ちょっと我鷲丸!?」

 突然体を抱え上げ高く飛び立った我鷲丸に、智晴は無我夢中でしがみついた。

「本当に待って、我鷲丸!」

「うるさい、いいから黙ってしがみつてろ」

「で、でも……」

 最近我鷲丸に触れられると、心臓が高鳴って息苦しくなるのを感じる。頬も火照り出し、心がグチャグチャに掻き乱されてしまう。だから、できれば触れられたくない、それが智晴の本音だ。

そんなことはお構いなしの我鷲丸に連れて来られたのは、蓮香寺の屋根の上だった。

 昇ったばかりの朝日が都をキラキラと照らし出し、その美しい光景に息を呑む。

 広い都には基盤の目のように小さな民家が立ち並び、人々が生き生きと暮らしている。ここからは都全体を見渡すことができた。


「いいか、智晴。この広い寺には四つの扉がある。扉にはそれぞれ名前があって、東は青龍門。西は白虎門。南は朱雀門。北は玄武門。武尊には四匹の式神がいて、それぞれが四つの門を分担して守っていた。俺は東の青龍門を守っていたんだ」

 我鷲丸が見つめる視線の先には、一番大きな門構えで正面の入り口ともなっている門があった。よく見ると、立派な龍が天に昇って行く姿が刻まれている。

「そして今日帰ってくる式神は……」

「あらー! 我鷲丸じゃないかい? 久しぶりだねぇ!」

 あまりにも呑気な声に青龍門の方を見れば、三十歳前後位だろうか……肌が蝋のように白い美しい女が立っていた。日除けのためだろうか……大きな番傘を差し、肩まではだけた紅色の着物がいやに艶めかしい。艶々と輝く真っ黒な長い髪を、蓮の花が刻まれたかんざしでまとめていた。

「来たか……」

「え? もしかして、あの人が武尊の式神?」

「そう。玄武門を守っていた『川姫かわひめ』の神楽かぐらだ。あいつには気を付けろ。怖い女だ」

「え? そうは見えないけど……」

「何を男二人で話し込んでるんだい? 早く下りておいでよ」

 楽しそうに笑う神楽を見て、なぜ我鷲丸が大きな溜息をついているのか、智晴にはよくわからなかった。


「はじめまして、智晴。あたしは、川姫の神楽だよ! まぁ、武尊は綺麗な男だったけど、あんたは可愛い顔してるわね。ふふっ、今晩あたりどうだい?」

「ど、どうって……何がですか?」

「おや? あんた、そういう経験ないのかい? 本当に可愛いね」

 胸元のはだけた着物姿で体を寄せられれば、彼女すらいたことのない智晴は軽くパニックになる。式神にも色んなタイプがいることに、戸惑ってしまった。我鷲丸に「助けて」と視線でSOSを送る。

「おいおい、神楽。それくらいにしておかないと俺が怒るぞ。こいつは武尊の……」

「はいはい、わかったよ。相変わらず素っ気ないねぇ、我鷲丸……いい男なのに勿体ない」

 神楽の体が離れ、火照った顔を両手で抑えた。

「神楽は毒や呪いについて詳しいから、色々と役になってくれるはずだ」

「そうだねぇ。男ばかりで食事の支度も大変だったろ? 今日からあたしに任せな」

「助かる、神楽」

「かまわないよ、我鷲丸。その代わり、今度体で返しておくれよ」

「お前は、本当に変わってないな」

「ふふっ。楽しみにしてるからね」

 そう楽しそうに微笑みながら、寺の中に消えていった。

「最近目覚めた割には元気そうだったけど……」

「見た目はな。だけど今の神楽は、妖怪と戦う妖力なんてないだろうよ。だから、当分はこの寺で留守番をしてもらうことになると思う」

 そんな状態にも関わらず、この寺に駆け付けてくれたことが智晴は嬉しかった。

「ただ気をつけろ。川姫は男を魅了し精気を吸い取る妖怪だ。お前みたいな初心な奴は、違う意味で喰われちまうからな」

「……え、違う意味で……?」

「フッ。せいぜい気を付けるんだな」

 その話を聞いた智晴の顔は、一瞬で茹蛸のように真っ赤になってしまった。


◇◆◇◆


「ご馳走様、神楽。美味しかったよ」

「そうかい? 人間っていうのは本当不便だね。何かを食べなきゃ一瞬で死んじまうんだからさ。あたし達妖怪は何年も何も食わなくたって生きてける。人間っていうのは、脆くて弱い生き物だよ」

 食べ終わった食器を神楽がいる流しまで運んだ智晴は、そっと話しかけた。

「あのさ、神楽はずっとどこにいたの?」

「あたしかい? あたしはこの少し先にある蓮の池でずっと寝てたんだよ。初夏になると蓮の花が池一面に咲き乱れて、そりゃあ綺麗だった。よく武尊と蓮を見に行ったもんだよ。蓮の花を見て微笑む武尊は、うっとりするくらいいい男だった」

 どこか懐かしそうに微笑む神楽は、とても綺麗だ。


「武尊がこの世から去って、あたしの妖力も底をついた。当てもなくさ迷って辿り着いたのがあの蓮の池。そこで眠ろうと思ったんだ。だって、武尊がいない世界なんてつまらないから。そうしてたんだけど、永い眠りの中で武尊の魂を感じたんだ。嬉しくて池から這い上がってきた。ようやく武尊に会える……そう思ったから」

「あ、ごめんなさい、神楽」

 神楽が何を言いたいのかを察した智晴は思わず俯く。そんな智晴を見た神楽がニコッと微笑んだ。

「なんであんたが謝るんだい? あたしは嬉しかったよ。こんなに可愛い姿に生まれ変わった武尊にまた会うことができて。本当に嬉しかった」

 笑っているのに、智晴には神楽が泣いているようにも見える。もしかして、この人は武尊のことが……。

「人の命は、あたしたち妖怪の命に比べると本当に脆くて儚い……武尊を見ていてそう思った。だからこそ、あたしは人が愛おしい。馬鹿みたいだね。所詮は人間と妖怪。交わることなどない世界を生きているはずなのに……」

「神楽……」

「それに、武尊には心から愛した奴がいたんだ。本当に……私は馬鹿だね」

 神楽の頬をスッと一粒の涙が伝ったけど、智晴にはその涙を拭ってやることができなかった。この涙を拭えるのは自分ではないと感じたから。


「なぁ、我鷲丸。武尊の残りの式神……朱雀門と白虎門を守っていた式神は、今どうしてるんだ? 神楽みたいに妖力が尽きてどこかで寝てるとか?」

 縁側で呑気に昼寝をしている我鷲丸の体を乱暴に揺する。

「もし他に式神がいるなら、俺その人たちに会ってみたい」

「あぁ?」

「なぁ、我鷲丸ってば!」

 うるさいな……そう言わんばかりに、我鷲丸の大きな耳がピクピクッと大きく揺れた。

 もし他に式神がいるのであれば、我鷲丸の時のように封印を解いて仲間になってもらえばいい。智晴はそう思ったのだ。

「我鷲丸! 聞いてんのかよ。なぁ!」

「うっせぇなぁ!」

「わぁぁッ!」

 突然体を起こした我鷲丸に勢いよく突き飛ばされ、反動で思い切り尻餅をついてしまう。そのまま力づくで床に押し倒され、身動きを封じられてしまった。

 我鷲丸の長い髪が頬にかかり擽ったい。そんなことよりも、吐息を感じられるほど近くに我鷲丸の顔があることに動揺を隠すことができなかった。

「いちいち煩いガキだな。嫌でもそのうち会える。嫌でもな。これ以上ゴチャゴチャ言うなら喰っちまうぞ」

「痛い! 我鷲丸、やめろ!」

 突然首筋に鋭い歯を突き立ててきた我鷲丸を智晴は睨みつける。それでも、いつものような人を見下す態度の影に、複雑な感情が入り混じっているのを感じた。

――あぁ、きっと、残りの式神には何かがあるんだ……。

 自分に背を向けた我鷲丸に、それ以上の事を聞くことはできなかった。


「智晴、起きろ」

「んッ……なんだよ、我鷲丸。もう朝か?」

「寝ぼけてんじゃねぇよ。まだ丑三つ時だ。低級の妖怪どもの悲鳴と、陰陽師の気配がする」

「陰陽師?」

「あぁ。もしかしたら黒羽達が都で暴れているのかもしれない」

 そっと体を起こして目を閉じれば、遠くの方から小さな悲鳴と邪悪な気配を感じる。背筋をゾクゾクッと冷たいものが走り抜けた。只事ではない……それは智晴でさえ感じられる程だった。

「行くぞ、準備をしろ」

「うん。わかった」

 智晴はギュッと手を握り締めた。


◇◆◇◆


 我鷲丸に抱えられ、まるで夜空を駆けるように都の中心へと向かった。街灯なんてない夜の世界は漆黒の闇に包まれ、真っ赤な満月が不気味に浮かんでいる。血のように赤い満月が浮かぶ夜には妖怪が動き出す……神楽が先程教えてくれた。

「俺に、何かできることがあるのだろうか……」

 そう思うと不安で仕方ない。緊張してやたら口が乾く。

 それと同時に、本当に自分は有名な陰陽師、楪武尊の生まれ変わりなのだろうか。それさえも不安になってきた。

 恐る恐る見上げると、全く臆する様子もなく真っすぐ前を見つめている我鷲丸がいる。

 かっこいいな……。素直にそう思えた。同性にこんな感情を抱いたことなど智晴はなかったけれど、我鷲丸はいつも凛として逞しく見える。

「我鷲丸がいれば大丈夫だ……」

 いつも偉そうに智晴を馬鹿にしている我鷲丸だが、なんだかんだ守ってくれるし頼りになる。信じてくれている我鷲丸のためにも頑張りたい……。智晴はいつの間にか我鷲丸を頼れる仲間のように思っていた。


 我鷲丸に先導されてたどり着いた場所には、陰惨な光景が広がっていた。

「ウッ。これは……ひどい……」

「ここら一帯血の臭いだな」

 その光景を見て、智晴は言葉を失った。

 目の前に広がる広大な畑には、食い散らかされた家畜が無残な姿で横たわっていた。あまりにも悲惨な光景に吐き気がする。

「誰がこんなことを……可哀そうに……」

 足元に横たわる幼い馬の毛をそっと撫でると、まだほんのり温かかった。

「黒羽の手下どもの仕業かもしれねぇが、惨いことをしやがる」

 沸々と湧き上がってくる怒り。黒羽とは、一体どんな奴なのだろうか。

 次の瞬間背後に大きな影を感じ、咄嗟に我鷲丸と振り返る。影の正体を見た智晴は思わず悲鳴をあげた。

「わぁぁぁぁ!! 赤鬼!?」

「人間の匂いがするなぁ! 久し振りのご馳走……はらわたを寄越せぇぇ!」

「ふざけるな、低級の鬼が!」

 智晴に掴みかかろうと鋭い牙を剥き出しにした赤鬼に向かって、我鷲丸が突進していく。もう何度この勇敢な姿を見たのだろうか。何度見ても、その度に胸が熱くなる。

 いつも身を挺して智晴のことを庇ってくれるのだ。

 守られてばかりだ。自分も我鷲丸のように……そう思っても、いざとなると体が動かない。いつもこうやって、我鷲丸を遠くから見ることしかできないのだ。


「俺だって、俺だって……」

 自分の体より数倍も大きい鬼と攻防を繰り返す我鷲丸を見る。

「俺だって、我鷲丸と一緒に戦いたいんだ。守られてばかりじゃなくて……」

 大きく深呼吸してから目を開いた。覚悟を決めなければ。

 懐から護符を取り出し、右手の指に挟む。両手を勢いよく合わせ赤鬼に向かって叫んだ。

「おい、赤鬼! お前が食いたいのは俺だろう!? こっちに来い!」

「ふざけやがって、人間めぇぇぇ!」

 そのあまりの形相にヒュッと喉が鳴る。体が震え出すのを、足を踏ん張って何とか耐えた。

「この地で暴れる悪鬼に命ずる。あるべき場所へ帰るのだ。急急如律令」

 指に挟んだ護符がシュッと消えていく瞬間、鬼の周りを優しい光が包み込む。つい先程まで牙を剥き出しにしていた鬼が大人しくなったのを見た智晴が、鬼の頭に触れようと手を飛ばした時……。

「……え?」

 赤鬼の体が一瞬で凍り付き、バリンッという音と共に粉々に砕け散る。智晴は呆然とそれを見つめた。

「一体、何が起きたんだ……」

 さすがの我鷲丸も動きを止め、言葉を失っている。智晴は異様な気配を察知して思わず息を呑んだ。


「ん?」

「どうした、智晴」

「何か強い力をもった者がこっちに向かってる」

「……本当か? 俺には全くわからねぇ」

「気配を上手く殺しているけど、隠し切れないくらいの妖力を持っているようだ」

「黒羽、か?」

 智晴は気配がする闇夜のほうをジッと睨み付けた。

 得体の知れない者が自分に向かってくる恐怖に、じっとりと手汗が滲む。辺りの音が消え、対照的に呼吸の音が響いた。

 しばらくすると。

「……? なんだ…?」

 寒い。智晴の肌に、冷気が触れてくる。唐突な気候の変化に、空を少し仰ぎ見るが空に異変はない。

 冷気がしたかと思えば、目の前の池が一瞬で氷つく。地面に横たわっている家畜の亡骸も草も花も。全てが氷に覆われた。

「寒……!」

 思わず身を縮こませる。吐き出す息さえ凍ってしまいそうな世界。どうして急に……?

 小さく震える智晴を我鷲丸が抱き寄せる。いつも自然と自分を守ろうとしてくれることが、智晴は不思議だった。我鷲丸はあまりにも自然に智晴の体を自分のほうへと引き寄せる。もう、ずっとそうしてきたかのように……。

「気を付けろ、智晴。黒羽は相手の魂を凍らせて、それを食らう妖怪だ。もしかしたら、黒羽が近くまで来ているのかもしれない」

「魂を凍らせて食らう……」

「気を抜くな。やられるぞ」

 氷を砕きながらゆっくりこちらに向かってくる重たい足音に、体を硬くして身構える。

 ガタガタと震えながら、肺が凍り付きそうな寒さを必死に耐える。そんな智晴を庇うかのように我鷲丸がそっと前に立ちはだかった。

 そんな勇ましい姿に、心が熱く震える。


「久し振りだな、我鷲丸」

 初めて見るはずのその顔を見て、智晴は言いようのない感情に襲われた。恐怖でもない、既視感ともまた違う、後悔や無念の情のような……。

 目の前にいる妖怪は、智晴が今まで見た妖怪の中で一番綺麗だった。なのに、全く表情がない。硝子玉のような瞳には光が宿っておらず、より彼を冷徹に見せる。我鷲丸も同じように端正な顔立ちをしているが、与える印象は真逆といっても過言ではない。

「隣にいるのは人間か? ほぅ……なかなかやるではないか」

 艶々と輝く長い黒髪に、烏の羽のように真っ黒な着物。腰にさされた大剣は、それだけで相手を威圧する。

 ゆっくりと自分達に近付いてくる男が、遠目で見るより大柄であることに驚かされた。

「真っ黒な羽……。こいつは天狗……?」

 その妖怪の背中には、一対の真っ黒な羽が生えている。生まれて初めて見る天狗に目を奪われた。

「黒羽よ」

 我鷲丸に黒羽と呼ばれた鬼は、智晴にチラッと視線を移す。ただそれだけで、先ほどの感情はどこへやら、心臓が止まってしまいそうな恐怖に襲われた。

「武尊の魂を感じたからわざわざ出向いてみれば、ずいぶん可愛らしくなったもんだ。これでは俺を封印するどころか、一息吹きかけるだけで凍り付いてしまいそうだ。まぁ、こいつの魂は旨そうだがな」

「こいつに手を出したらただじゃおかねぇぞ。お前、まだ妖力が完全に戻っていないだろう」

「何を言う。お前だってまだだろうに」

「いいか? こいつには絶対に手を出すなよ」

「武尊が生まれ変わっても、お前は相変わらずなんだな。未練たらしいぞ?」

「うるせぇよ、黙れ」

「実にくだらない」

 黒羽がパリンッと小さな花を踏み潰す。

「俺は……人間を……陰陽師を絶対に許さない」

 まるで地を這うような低い唸り声に、じっと智晴を見据える鋭い目。智晴はギュッと我鷲丸の腕にしがみつく。殺される……先程から頭をチラつく思いに、立っているのもやっとだった。


――こいつは、今まで出会った妖怪とは別格だ。

 それでも戦わなければならない。頼ってくれる我鷲丸のためにも、家で待ってくれている律のためにも……。


「おい、こっちだ! 天狗の気配がするぞ!」

 突然騒がしくなり、松明の光が遠くに見えた。大勢の人間がこちらに向かいバタバタと走っているようだ。

「今日はここまでだ。妖力が戻ったその時には……覚悟しておけ」

 突然突風が吹き荒れ、真っ黒な羽が一面に飛び散った。

「わぁぁッ!」

 次の瞬間黒羽にグイッと腕を捕まれ、もぎ取られるのではないか……という程の力で引かれる。必死に逃れようと体をバタつかせれば、冷たい何かに頬を撫でられる感触に息を飲んだ。

「また会おう。武尊の生まれ変わり。その時はその魂をもらうぞ」 

 何とか黒羽の手を振り払おうとするのに、強い力にびくともしない。

「智晴から離れろ!」

 我鷲丸が鋭い爪で黒羽に襲いかかったが、黒羽はヒラリとそれをかわし真っ赤な月の中に消えて行った。

「大丈夫か!?」

 遠くから聞こえてくる人々の声に、心の底から安堵する。

 あんなに綺麗で恐ろしい妖怪に会ったのは初めてだった。

「死ぬかと思った……」

 額から流れる冷汗で頬に張り付いた髪を、夜風がそっと撫でていく。次の瞬間ガクンと膝が折れ、目の前が真っ暗になった。


◇◆◇◆ 


 その夜、智晴はまた夢を見た。

 そこは見覚えのある……そう、蓮香寺だ。

 一人の青年が横笛を吹いていて、その隣で我鷲丸が気持ちよさそうに酒を飲んでいる。少し離れた所で神楽が笛の音に合わせて鼻歌を歌っていて……池には一面蓮の花が咲き乱れ、甘い香りが寺を包んでいた。

 この青年は以前も夢に見た武尊だな、と智晴は思う。

 体の線は女性みたいに細く、中性的な外見は彼の穏やかな性格を象徴しているように感じられた。とても優しそうなのに、どこか筋が通っている……そんな魅力的な男だった。

 自分には似ても似つかないその容姿に、少しだけ劣等感を感じる。

「ん? あれは……」

 武尊の隣で琴を奏でている青年もいる。

 絹糸のように真っ白で綺麗な髪に、透き通るような肌。あどけなさが残る可愛らしい男は、恐らく妖怪だ。式神の一人だろうか? 丸い瞳をうっとりと細め、武尊の笛に合わせリズム良く弦を弾いている。

 時々お互いのタイミングを図るかのように目を合わせては微笑み合っていた。

 立派な柱に寄りかかりそんな二人を眺めている長身の男の姿に、智晴は思わず目を見開いた。

「あれは……黒羽……?」

 琴を弾く男を優しい眼差しで見つめる黒羽に、言葉を失う。先程会った黒羽と、今夢で見る黒羽のあまりにも異なる姿。

「黒羽が、なんで武尊達と一緒にいるんだ……」

 智晴が武尊の傍に駆け寄ろうとした時、遠くで自分の名を呼ぶ声がした。


「智晴、おい朝だ。智晴」

「あ、我鷲丸……」

 我鷲丸の声に薄く目を開いたが、朝の眩しい日差しを受けて再び目を閉じた。

「ったく、何回起こしたと思ってんだよ。まぁ、黒羽程の妖力を浴びれば、体に影響が出るのも無理ないかもしれんがな。お前は妖力が強い分、他人から受ける妖力にも敏感なんだろう」

「黒羽……」

 その名を聞いて、あの魂までもが凍てつくような冷たい目を思い出す。ただそれだけで背中をザワザワッと冷たいものが走り抜けて行った。

 それと同時に、蓮香寺で優しい眼差しをした黒羽も思い出す。

 なんであそこに黒羽がいたんだろう。

「ほら、神楽が飯を作ってくれたから、それ食って早く元気になれ」

 ぶっきらぼうに朝食ののった膳を渡してくる我鷲丸の顔をしばらくの間見つめていれば、我鷲丸が綺麗な眉をしかめる。

「なぁ我鷲丸」

「あん?」

 智晴は我鷲丸の顔色を窺いながら静かに口を開いた。こんなことを言うなんて格好悪いとは感じたけれど、話さずにはいられなかった。


「我鷲丸は武尊のことが好きだったのか? もしかして、恋人同士だったとか……」

「はぁ!? 何言ってやがる、気持ち悪ぃな」

「じゃあ、人間として……相棒としては好きだった?」

 なんでそんなことを聞くんだ……と言わんばかりに我鷲丸が嫌そうな顔をする。それでも、智晴は話を続けた。

「また武尊の夢を見たんだ。武尊の傍にいる我鷲丸や神楽はいつも笑っていて……武尊のことが好きなんだろうなっていうのが伝わってくるんだ。それなのに、みんなが待ち侘びた武尊の生まれ変わりがこんなんじゃ、ガッカリしただろう?」

「フンッ。くだらない」

「くだらなくないよ」

 馬鹿にしたように鼻で笑う我鷲丸の着物の裾をギュッと掴む。

「俺は武尊みたいに綺麗じゃないし頭だって良くない。横笛どころかリコーダーだってちゃんと吹けないし……何より、陰陽師としてひよっこだ。こんな自分が情けなくなる」

 自分で言っていて情けなくなり、鼻の奥がツンとなる。

 でもこんな情けない所でさえ我鷲丸には曝け出せる……仏頂面で口が悪くて、いつも馬鹿にされるけど、この男が本当は優しいということに智晴は気付いていた。

「武尊みたいになりたい。武尊みたいに強くなって、我鷲丸や律さんを守れるようになりたんだ」

 天井を見上げて腕で目元を覆う。やっぱり泣き顔を見られることは恥ずかしかったから。そんな智晴を、我鷲丸は無言で見つめている。


 庭からは蓮の甘い香りが漂ってきて、令和とは違う爽やかな風が境内の中に吹き込んでくる。柔らかな日差しが都を優しく包み込んでいるようだ。

「別に俺はお前に武尊になってほしいなんて思ってない。お前はお前でいい」

「我鷲丸……」

「確かにお前は子供みたいな姿だし賢くもない。妖術だってまだまだ未熟だし、すぐにギャーギャー喚き散らす。うるさくて構わん」

「何もそこまで言わなくても……」 

 ガバッと布団から起き上がると、我鷲丸が意地悪く笑っている。

「でもそれでいい。お前は武尊じゃなくて智晴だろう? お前はお前でいい。俺は、お前が嫌いじゃない。それに子供みたいで可愛いぜ?」

「え、あ、ありがとう」

 予想もしなかった我鷲丸の言葉に驚き、胸が熱くなる。情けなさや劣等感でいっぱいだった智晴だが、その言葉に少し救われた気持ちがした。

「俺は俺でいいんだ……」

「はぁ?」

「何でもないよ」

「お前、本当に変な奴だな」

 少し困ったようにはにかむ我鷲丸が、そっと頬を撫でてくれる。それがくすぐったくて、智晴は肩を上げた。

 我鷲丸に触れたとき、触れられたとき。ふとした瞬間に武尊の記憶が呼び起こされることがある。

 武尊の記憶の中の我鷲丸は、いつも幸せそうに笑っていた。それは、武尊に向けられたものであって、智晴に向かって笑いかけられたわけでない。それが、智晴はとても苦しかった。

 いつからか、武尊ではなく自分を見てほしい。自分にも武尊に向けるような笑顔を見せてほしい……そんな独占欲が芽生えていくのを感じていた。

 ――我鷲丸と武尊は、本当は恋人同士だったの?

 何度か問いかけようと口を開いたけれど、それは言葉にはならなかった。真実を知ることが怖かったから。


「我鷲丸……」

「あぁ?」

 甘えたような声を出して肩にもたれかかれば、はじめのうちは迷惑そうな顔をされたけれど、今は黙って肩を貸していてくれる。「甘ったれた奴だ」と呆れられてしまったのかもしれない。

 そんなことが続けば、もっと我鷲丸に触れてみたい……と欲が出てきてしまうのだ。

「智晴はまるで赤ん坊だな」

「うるさい……」

 こんなにも近くにいるのに、我鷲丸の存在がひどく遠くに感じられる。我鷲丸の肩にぐりぐりと額を押し当てた。

 素直になることができない自分が、歯痒かった。


「あら、智晴。目が覚めたかい? ほら薬草を煎じたから飲みな。元気が出るよ」

「あ、ありがとう、神楽。心配かけて悪かったね」

 心配そうに自分の顔を覗き込んでくる神楽から、茶碗を受け取る。その中には緑色のドロドロとした液体が入っていて、少し匂いを嗅ぐだけで吐きそうになった。

「あの子程、上手に薬草を扱えないけどね……」

 寂しそうに笑う神楽に、口元まで持って行った茶碗を下ろす。

「神楽、あの子って?」

 あの子って誰なの? そう問おうとした瞬間、我鷲丸が智晴の口に強引に茶碗を押し当てた。口の中に苦い味が一瞬にして広がる。

「うッ! 不味いー!」

「つべこべ言わずさっさと飲め。また夜になれば黒羽共が暴れ始める。次こそあいつを封印するぞ」

「で、でも不味い……うげぇ……」

 我慢して飲み込もうとしても、嗚咽と共に苦い汁が口に上がってくるのを感じて智晴は眉を顰める。こんな不味い物を口にしたのは生まれて初めてだ。

「ごめん、神楽。せっかく用意してくれたのに、俺には無理かも……」

「無理しなくていいよ、智晴。ささ、茶碗をこちらに寄越しな?」

「うん、ありがとう。ごめんね」

「謝ることじゃないよ」

 智晴が、神楽に薬草が入った茶碗を差し出そうとすると、その手を物凄い力で握られてしまう。うっかり茶碗を落としてしまうところだった。

「何を寝ぼけたことを言ってんだよ? それ飲んで、さっさと元気になりやがれ」

「で、でも……」

「でも、じゃねぇ!」

 智晴と神楽の会話を傍で聞いていた我鷲丸が、鋭い目で睨みつけてくる。その眼光に智晴は思わず息を呑んだ。


「ほら、それを寄越せ」

「え?」

「いいから寄越せよ」

 恐怖のあまりギュッと握り締めていた茶碗を取り上げられてしまう。何を思ったか、我鷲丸は薬草を口に含んで強引に智晴の体を引き寄せた。口の端から溢れた薬草を着物の裾で拭う姿はなんだかとても艶めかしい。

 どんどん呼吸が浅くなり、心臓が口から飛び出そうになった。

 一体何をされるのだろう……恐怖から固く目を瞑ると、我鷲丸の吐息が頬にかかるのを感じる。顎を掴まれて抵抗する間もなく上を向かせられた、次の瞬間……。

「……え?」

 体が強張り無抵抗の智晴の唇に、柔らかくて、温かなものが押し当てられた。咄嗟に後ずさろうとした体を押さえつけられてしまう。

「んんッ、んッ!」

 自分が我鷲丸に唇を奪われたのだと理解するまでに、かなり時間がかかってしまった。

――なんで、だ……?

 頭の中が真っ白になって体が凍り付いてしまったかのように動かなくなってしまう。智晴が無抵抗なのをいいことに、重ねられた唇の隙間から苦い液体が注ぎ込まれた。

 恐怖から首を振って逃げようとするが、そんなことは許されるはずもなく……仕方なく智晴はその液体をコクンと飲み込んだ。飲み込みきれず口から溢れたものは、我鷲丸が舐めとってくれる。

 悪戯っぽく笑いながら自分の顔を覗き込む我鷲丸を見れば、顔から火が出そうになった。


「あらあら、智晴。ちゃんと薬が飲めたじゃないか? 偉いねぇ」

「な、な……」

 茹蛸のように顔を真っ赤にしながら、我鷲丸に何か言ってやろうと口を開いてみるが、それは言葉にはならなかった。そんな二人のやり取りを遠くから見ていた神楽が、クスクスと笑っている。

「やればできんじゃん? あんまりてこずらせんなよな?」

「ふ、ふざけんなよな……俺、初めてだったんだぞ?」

「は? 接吻か? あー、それはすまなかった。でもこれで傷が速く治るぞ。よかったな」

――こいつ、絶対に俺のことをからかって楽しんでやがる……。

 そう思うと悔しくて仕方がない。

「まだ残ってるぞ? また俺が飲ませてやろうか? 口移しで」

「もういい! 自分で飲める!」

 智晴は目に涙を浮かべながら、神楽が煎じてくれた薬を一気に飲み干したのだった。




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