第10話 閑話
「衛くん、学校で何かあったのかい?」
テーブルに残った食器を片付けていると、ふと、バイト先の店長がそんなことを聞いてきた。
どこの街にもあるような、個人経営の定食屋。もう何年前からやっているのか、少し黒ずんだ看板を掲げたその店が俺のバイト先だった。
最後に残っていた常連客が去り、閑散とした店内。客席の隅に置かれたテレビからは今年の猛暑を憂うニュースが流れていた。時計の針はもうすぐ21時を指そうとしている。さすがに今日はこれで店じまいだろう。
「……何でそんなこと聞くんスか?」
テーブルを拭き上げながら問い返す。
あえて店長と目を合わせずにいる俺に呆れてか、厨房からは微かなため息の音が漏れ聞こえて来た。
「何でって……なあ?」
そう言って店長は言いよどむ。店長は心根が穏やかな人だ。ここで俺を怒らないのがそれを証明している。まだ30歳そこそこで店一つを切り盛りしている苦労人。そんな人の溜息に俺の良心が痛む。自分自身のことだ。何故そんなことを聞かれたのか。誰よりも、当事者である俺が一番理解していた。
……アリサカに一連の事件の話を聞いた後。すぐにでも『天使』探しに赴くつもりだった俺を彼女は引き止めた。現地調査の前に、彼女の方で一度今までの情報を整理したいと言うのだ。
そんなわけで、俺たちの天使探しは明日からということになった。
だが、俺の方はそう簡単に割り切れるものではない。いつもどおりアルバイトに出てみたは良いものの、昼のアリサカとの会話が頭の中でぐるぐるぐるぐる。おかげで何回か注文を取り違えてしまった。
自分で気づいていたくらいだから、当然ながら店長だって俺の様子が変だと気づいていた。途中で何回か体調が悪いのかと聞かれていた。
「本当に風邪とかひいてない?風邪じゃなくても、そんなに気になることがあるなら休んでもらっても大丈夫だよ。最悪こっちはオヤジを引っ張り出せば良いんだし。」
オヤジ、というのは文字通り店長の父親で、この店の本当の主だ。60歳くらいのいかにも昭和時代の生き残りといった無口な頑固者。昔はバリバリ働いてこの店を繁盛させていたという話だが、今はすっかりやる気を無くして隠居している。その姿は俺から見てもひどくひねくれた老人という感じだ。引っ張り出せばいい、とは言っているが多分無理だろう。少なくとも俺はオヤジさんが店に立っている姿を見たことが無い。
もっとも、店長一人で店を回すのと、使えない俺をフォローしながら店を回すの、どちらの方が良いかという話なのかもしれないが。
「すみません。ちょっと今日は……。明後日には大丈夫になってますから。」
俺がそう言うと、「賄い食べたらすぐ帰りなよ」とだけ言って店長は厨房の中へと戻っていった。
「……。」
本当に、申し訳なく思う。でも俺は俺で、こんな精神状態でもバイトにでなくてはならない理由があるにはあるのだ。
幸いにして明日のバイトは休み。明後日までには心の整理もできていることだろう。
◆
「ただいまー。」
自宅の玄関を引き開けると、廊下の先のリビングから光が漏れていた。自室に戻る前にリビングを覗く。
部屋の中央に置かれたテーブルには、母さんがこちらに背を向けて一人座っていた。ノートパソコンを開いて、それを覗き込んでいる。
「……。」
少し、ドキリとする。背中を丸めたその後ろ姿が、ずいぶんと小さく見えたからだ。
「衛、おかえりなさい。今日は早かったわね。」
俺の存在には気づいていたのだろう。母は振り返って目を細めた。
「……ああ、まあ、うん。今日は客が少なかったから。」
少しだけ、嘘をつく。
どう説明したらいいかという迷い。そして何より母さんに変な心配をかけたくないという想いがあった。
「夕食は大丈夫?何か作ろうか?」
「いや、大丈夫。バイト先で賄い食ってきたから。」
椅子から立ち上がりかけた母さんを制して、キッチンに向かった。
冷蔵庫を開け、麦茶をコップに注ぐ。コップに水滴が浮かぶ間もなく、それを一気に煽ると、暑さで茹だっていた体の芯が冷え、ようやく人心地つく。
「そう言えば萌花は?」
もう一杯麦茶を注ぎ、リビングに戻りながら聞く。
「あの子だったらもう部屋に戻ったわよ。……学校で何かあったのかしら。なんだか最近、部屋に篭ってばっかりなのよ。」
そう言いながら母さんが溜息をつく。
萌花は俺の妹だ。中学生で色々と難しい時期というのもあるのだろう。昔はどちらかと言えば快活でヤンチャな性格だったが、最近は人が変わったように大人しい性格になった。部屋に篭もりがちになり、あまり俺たちとも顔を合わせない。
もっとも、俺も母さんも忙しく家を空けている時間が多い。そもそもの話、家族が揃うタイミングがなかなか無いというのもあるだろうが。
「まあ、俺が話を聞いてみるよ。親には話しづらいことかもしれんし。」
妹とは決して険悪な仲というわけではない。避けられているわけでも無い……と思う。
妹も忙しい母には遠慮しがちだ。だから、こういうことは俺の役割だろう。
「ごめんね。あんまり家のこと見てあげられなくて。」
ふと、申し訳なさそうに母さんが言った。
そんな母さんに俺はかぶりを振る。
「仕事で忙しいんだからしょうがないって。……それより働きすぎなんじゃない?それも仕事でしょ?」
テーブルに置かれたパソコンを顎で指す。
「うーん。ちょっと仕事が終わらなくって。」
母さんはバツが悪そうに苦笑いしながら言った。母さんは平日日中の仕事の他に、家計の足しとして個人の仕事もやっている。こうやって夜にパソコンとにらめっこしている姿もしばしば見る。今やっているのも後者の仕事だろう。母さんはそういった事は話してくれないが、俺と妹、ふたりの子供を一人で養っていくために、仕事をかけもちしているのは明らかだった。
「あんまり無理すると体壊すって。」
そう言いながら母さんの背後に回る。
軽く肩を揉むと、予想していたよりもずっと硬かった。
「はい背筋伸ばしてー。」
その小さな背中に冗談っぽく語りかけながら、しばらくマッサージを続ける。
母さんは何を考えているのか、薄く微笑みながら俺の手に身を委ねていた。
天使の天秤 桜辺幸一 @infynet
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