第7話 天使の正体(1)
俺が連れてこられたのは、片村の家からそう離れていない場所に建つマンションの一室だった。彼女の『拠点』だというその場所。おそらくは2LDKほどの大きさの部屋に案内された。
ナイフを突き立てて来た相手だ。冷静になってみれば、そんな危険人物についていくなど正気ではない。だが、俺は冷静ではなかったのだろう。彼女の話術にあれよあれよと言う間に絡め取られ、気が付けばテーブルを挟んで対峙していたのだった。
ああ、でも、冷静でいられるはずがない。「あなたの探す人物を見つけられる。」そんな事を言われてしまったら、冷静でいろと言う方が無理だ。
そして俺は、俺の記憶障害と、それに纏わる一連の事件について説明を受けた。しかしながら、その説明は「はいそうですか」と飲み込むには、あまりにも荒唐無稽過ぎた。説明を受けた俺は、返す言葉が見つからず、結果として部屋に沈黙が下りる。
時計の秒針の音がやけに耳につく。ガラス越しに遠く聞こえるセミの鳴き声がなんだか現実感が無い。背筋に寒気を感じるのは、効きすぎたエアコンのせいだけではないだろう。
「その話、全部冗談だよな……?」
何秒かの沈黙のあと、俺はようやくその言葉だけを絞り出した。
「そう疑う気持ちは理解できます。けれど、全て事実です。……いえ、これが作り話であろうと事実であろうと、あなたはこの話を信じるしか無いはずです。そうでしょう?」
天使様……もといアリサカと名乗る少女は、どこまでも真顔でそう切り返す。
「ちょっと、話を整理させてくれ。頭がどうにかなりそうだ。」
俺はそう断って、目の前に置かれていた麦茶をグイと呷った。
グラス表面に付いた水滴で指が滑り、慌てて握り直す。気づけば、指先は冷え切り細かく震えていた。それを相手に悟られないように握りこんでテーブルの下に隠す。
アリサカは真っ直ぐに俺を見据えている。そんな彼女の視線が恐ろしく、俺は思わず目をそらした。
「まず、俺の記憶障害についてだけど……」
混乱する思考で、それでもなんとか言葉を捻り出す。俺は、彼女の今までの説明を思い出しながら、一つ一つ確認を重ねて行った。
そう。まず俺の記憶障害についてだ。最初に彼女はこう言ったのだ。「その記憶障害は病気ではない」と。現実には存在しない過去の記憶がある。 3年前に発覚し、いままでずっと俺を苦しめ続けたこの症状。
でもそれは真実、実際にあった記憶なのだと彼女は言った。
でも、そんなはずはない。俺の記憶は間違っている。間違っていなければおかしい。だって、現実に、今、存在していないのだ。俺が覚えていた物も、家も……人も。今この瞬間、どこにも無いし、どこにも居ない。しかもただ存在しないだけではない。あったものが消えてしまったのならまだ理解できる。それだけではなく、俺以外の誰も、その記憶を持っていないのだ。
だからこれは単純な多数決の話だ。俺だけがおかしいのか。それとも、俺以外の全員がおかしいのか。その答えは悩むまでもない。少数派の俺が狂っているに決まっている。
けれどそんな俺の
「いいえ。間違っているのは世界の方なのです。」
その言葉に絶句した。あまりの荒唐無稽さに……ではない。俺はその言葉を聞いた瞬間、これ以上無い歓喜の感情に包まれたのだ。
俺が3年間否定され続けたもの。お前がおかしい。お前の記憶が間違っている。他人に、知り合いに、友人に、家族に、そう言われ続けて来た。俺自身もそう考え、そう納得してきた。
でも……それでも思わずには居られなかったのだ。もしかして、正しいのは俺の方なんじゃないか、と。
そして今、目の前に俺を肯定する人物が現れた。世界で唯一、俺の記憶を疑わない人間。俺を病人ではなく、正常な人間として扱う存在。
……彼女の言うとおりだ。そんなのもう、信じるしかない。例え彼女が素性の知れない人間であったとしても。俺にナイフを突き立て、殺そうとしたとしても。彼女の語る真実とやらが、どれだけ胡散臭く、何の証拠もなく、信じるに値しないものだったとしても。
もう俺には、彼女の言葉を信じるしか道は残されていなかった。
だから、次に続く話も、俺は否定はしなかった。
「それで……何だっけ。劣後が何とか……」
「劣後存在証明否定機構およびそれを保管実行する結晶端末。通称、『天使アルファ』です。」
彼女は、俺に理解できない単語を並べる。かろうじて聞き取れるのは、『天使』という単語のみ。それが、全ての元凶なのだと、彼女は言っていた。
事の発端は、4年ほど前。彼女の父親の話に遡る。
天才と呼ばれていたその父親は、量子力学とやらの科学者だったらしい。そんな彼はある思想の下、その思想を実現するための研究を重ねていた。その思想というのは少々難解で、学の無い俺には細かいところは理解できなかったが、要約するとこういうことらしかった。
「世の中から『欠陥』が無くなれば、真に平和な理想の社会を作れるはずだ。」
世の中から病気が無くならないのは、人間の身体構造に『欠陥』があるからだ。世の中から飢餓が無くならないのは、作物の生育環境に『欠陥』があるからだ。世の中から戦争が無くならないのは、社会の構造に『欠陥』があるからだ。
この世にはありとあらゆる『欠陥』が存在する。『欠陥』が存在するから世の中からは病気や、飢餓や、戦争が無くならない。だから……だからもし、それらの『欠陥』が無くなれば、この世からは病気も、飢餓も、戦争も……いや、それだけではない。人間が抱える全ての不幸を、完全に無くすことができるのではないか。
彼は、そう考えた。
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