第6話 運命
時間は止まっていた。
言葉を発することすらできない。頭上からは痛いほどの日差しが降り注いでいるというのに、緊張で血が冷たくなっていく。セミの鳴き声が遠い。この真夏日の中、自分と目の前の彼女だけが暗く切り取られたようだった。
「答えなさい。ここで、何をしていたのです。……いいえ、そんなことはどうでもいい。エリオット・シャフィークの居場所はどこです。」
天使様の声。その声は凛と澄んでいながら底冷えのする冷たさがある。それにハッとした俺はかろうじて声を絞り出す。
「なん……なんだ、アンタは……。」
とたん、彼女が発する殺気が一段高くなった。首筋に冷たい何かが押し付けられる。不快感に視線を下げると、それは明らかに銃刀法違反になるであろう、無骨な刃物だった。カッターや包丁のようなチャチなものではない。明らかに戦うために用いられるであろう、厚刃のナイフ。
思わず悲鳴を上げそうになる。首筋の鉄の感触が食い込んで、それを寸でのところでこらえた。
「質問にだけ答えなさい。エリオット・シャフィークはどこに居るのです。」
やはり無機質な声で天使様は問う。けれど俺は答えられない。答える以前の問題だ。この混乱した頭では質問の意味さえ理解できない。エリオット……、いったい何を言っているのか。物か、動物か、人名か。そんなものは知らないし、聞いたこともない。
なんとか言葉を返そうと喉を動かす。けれど口から漏れるのは乾いた吐息の音だけ。その俺の反応に苛立ったのか、天使様は俺を押さえつけている腕にいっそう力を入れる。
「……!」
鳩尾に鈍い痛みが走る。体重のかけ方のせいなのか、女性の細腕なのに大男に押さえつけられているかのような力強さだった。ろくに抵抗もできない。背後の電柱が、まるで赤熱した鉄棒かのように熱を持っていた。
何なんだ、この状況は?
ふと思い浮かんだのは、当然の疑問だった。
どうして、こうなった?
俺は一体、ここで何をしているんだ?
朝起きたときは、本当にいつもどおりだった。
でも学校に登校してみたら片村が居なくて。
誰も彼もが片村なんて人間は知らないという素振りで。
そして俺は、アイツが確かに居るってことを確かめたくて、ここに来た。
それなのに何だ?
アイツの家は無くなっていて。
その代わりに現れたのは天使様で。
そして訳もわからず、ナイフを突き付けられている。
こんなの――
「……けんな。」
ブツリと。その時俺は確かに、『堪忍袋の緒』というものが切れる音を聞いた。
血液が沸騰する。震えていた手足に熱が通う。今まで妙に冷静だった思考が一瞬にして発火する。
理不尽すぎる。全てが理不尽すぎる。鳩尾の痛みも、背中の熱さも。そして目の前の女が発する殺気さえも知ったことではない。そう、何もかも知ったことではない。
今、この場で、一番怒っているのは。怒る権利を有しているのは他でもない。
俺だ。この女に何かされる謂れは無い。
鳩尾に走る激痛を無視して、激情のままに天使様に掴みかかった。首元のナイフが食い込む。それも構わずに、彼女の服の襟を握り込んだ。
「ふざけんな!!!」
感情のままに怒鳴った。俺の反抗が予想外だったのか、天使様は目を見開いて固まっている。彼女の力が緩んだのを良いことに、俺は一歩踏み込んだ。
「そんなん知るかよ!!!何なんだよテメーは!!!俺は片村を探しに来たんだよ!テメエなんかに構ってられるか!!!」
一息に叫んで、彼女を突き飛ばす。
思い切り押したためか、意外なほどあっさりと彼女はよろめいた。
「エリオットだ?そんなんしらねーよ!俺はそれどころじゃねえんだ!テメエで勝手に探してろ!」
頭に血が上ったためか、そこまで言って目眩を覚えた。息が切れる。それでも怒りは収まらないが、大きく深呼吸をする。
と、呆然とした様子だった天使様が目を見開いたまま口を開いた。
「……うそ。」
ポツリと、呟く。
「……あなた、もしかして、ここに誰かを探しに来たのですか?」
呆然と立ち尽くしたまま、彼女はそう言った。
「……そうだよ。だから何だ。」
敵意を顕にして返答する。再び詰め寄ろうとして、少し冷静になった。彼女が握るナイフが目に止まる。世界にセミの鳴き声が戻ってくる。
そして、次に続いた彼女の言葉に、俺は息を飲んだ。
「そういうことですか……。なら、詳しく話を聞かせてください。私なら、あなたの探しものを見つけられるかもしれません。」
「え……?」
先ほどとは違った意味で頭が冷える。
探し物を見つけられるかもしれない。彼女はそう言った。
見つけられる?片村を?
……いや、そんなはずはない。
……そんなはずはないのだ。
彼女に、いや。彼女でなくとも、他人に片村を見つけられるはずがない。だって、これは。片村という人間は――。
「カタムラという人物を探しているのでしょう?でも、その人は忽然と姿を消した。まるで最初から存在しなかったかのように。違いますか?」
それを聞いて、真実息が詰まった。彼女の言葉はあまりにも的を射すぎていた。
まるで彼女が、俺の記憶障害のことを知っているかのように。
「お前、なんで――」
「……やはり、そうなのですね。」
一つ溜息をつくと、天使様は肩の力を抜いた。くるりと手の中でナイフを回すと小脇のポシェットの様なものに収納する。場に張り詰めた空気が、一気に弛緩するのを感じた。
「『天使』という言葉に過剰に反応してしまいました。それについては謝罪を。」
彼女は、胸に片手を当てて頭を下げた。
「私の名前はミニア・アリサカ。あなたの置かれた状況をこの世で最も理解している人間の一人です。そして――」
彼女が顔を上げる。そのまま俺の顔をじっと見据えて言った。
「あなたの探す人物を見つけられる、唯一の人間でもあります。」
その碧眼に射抜かれる。
もし仮に、この世に『運命』というものがあるのなら。この、彼女との邂逅こそが、俺にとっての運命の出会いだった。
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