いわゆる学徒動員で、大学や専門学校から無理やり戦争に引っ張られていった青年層は、多くの戦死者を出した。
限られた者しか進学しなかった時代、出撃前にしたためる遺書も立派なものである。
「哀しい顔を遺すな」
特攻に出ていく青年たちは精一杯の笑顔で写真に写っている。
『お父さん、お母さん、○○は笑って死んでいきました。』
内心はどうであれ、それが、父母に対する最後の恩返しだと信じていたからだ。
死にたくない。
本当の胸中を知りたい親が、いるだろうか。
対して、募集に応じて自ら予科練(航空兵養成機関)に行った学生は15、6歳。
まだまだ子どもだ。
兵舎での生活も修学旅行の延長。みんなで入るお風呂が楽しい、ご飯の時間が待ち遠しい。
もちろんそこには体罰と理不尽が横行しており、殴られるのは当たり前。
バッターと呼ばれる棍棒で腫れ上がるまで尻を叩かれる。
某高校野球部の比ではないほどの、辛い日々でもあった。
そして訓練が終わると少年たちは実際に前線に送られていったのだ。
なぜ子どもたちが自ら志願して予科練に行ったのか。
わずか数年の違いながらも、青年層と異なり、十代の少年たちは生まれた時から戦争と軍国教育にどっぷり浸かっていて、それが当たり前だったからだ。
「予科練に行きたい者」
学校で教師が生徒に挙手させるのである。
それだけではない。
少年たちには、戦闘機への強い憧れがあった。
その憧れの強さたるや、発展途上国の少年がF1に寄せる憧憬くらいの重みはあっただろう。
飛行機があたりまえのように飛んでいる現在とは比較にならない。
橋の下をくぐってみせて、空に舞い上がる戦闘機。
それを見ただけでも、もう眩暈がして胸が張り裂けそうになるほどに、少年たちは歓喜した。
片道燃料で無理やり零戦に乗せられて墜死していった青年たちの悲壮感はそこにはない。
白いマフラーを巻いて敬礼して飛び立つ日を、少年たちは純粋に待ち望んだ。
著者が予科練生になったのは、資源などとっくに枯渇した戦争末期だ。
まともな飛行機などもうなく、ひたすら本土決戦に向けて穴を掘る日々。
そして戦場には行かぬまま、終戦を迎える。
古き良き時代なんかよりも、戦後の世界のほうが良いと著者はいう。
しかしどうしようもなく、戦前が懐かしいとも仰っている。
多感な年齢だったからというだけでなく、おそらく選択肢に溢れかえっている今の時代よりも、全てが濃厚だったのではないだろうか。
昔は、娯楽も選べる未来も、数えるほどしかなかった。
パソコンも高い建物もない。
頭の上にはいつも大空が広がり、子どもは暗くなるまで野山で遊んでいた。
第107話。
或る日、上空を過ぎさった「紫電」(零式艦上戦闘機の後継機。通称・紫電改)のうちの一機が 戻ってきて、不時着する。
それを目撃した予科練の少年たちは、教官の命令もないままに、すべての作業を放り出して、叢に突っ込んだ紫電改をめざしてひた走る。
そして憧れのその機体に、手で触れ、その翼を舌を出して嘗めてみたそうだ。
予科練にいた少年たちが、どれほど戦闘機に憧れ、パイロットになることを切望していたかが分かるエピソードだ。
当時の少年たちの純粋さが伝わり、微笑ましい。
(最後に)
戦争体験者のほとんどが鬼籍となった戦後八十年目にして、貴重な体験記をありがとうございます。