第89話
*
「ね、響ぃ、チューしよう?」
「無理、触んな」
「えーもうひどい、そっちから家につれこんでおいてさぁ」
ベッドの上で頬を膨らませる女。自分のことを可愛いと勘違いしているあざとい仕草に虫唾が走る。
この女をこの家に連れてきた目的はすでに果たしていた。涼の帰宅時間に合わせてこの女を呼び、ふたりで家に入っていくところを偶然を装い目撃させる。
年頃の男女が同じ自宅に入っていくなんて……連想することはひとつ。今頃、涼は俺とこの女のことで頭をいっぱいにしてくれているだろう。
また、あの時みたいに悲しんでくれてる?俺を独り占めしたいって思ってくれてる?
「響、何見てんの?」
「うわ、触んな。ブレる」
片手で持ったスマホに流れるのは先日行われた陸上大会、女子100メートル走決勝の映像。もちろん陸上に興味などあるわけもなく、瞳で追うのは3レーンを走る彼女のみ。
「これ直江さん?うわ、早!格好いい〜。そういえばこの間朝礼で表彰されてたもんね」
「……」
棒のような細い四肢。スラリと長い足は素早く回転して、真剣な表情で前だけを見つめる黒い瞳。
……綺麗だ。涼はいつだって強くて綺麗で穢れがない。
その瞳の先に映るのが俺ならば……どれほど嬉しいことか……。
「きゃっ、……やだ、響!」
「……こういうの望んでんじゃねーの?」
「もう……そうだけど、そんないきなり」
「……」
猫撫で声でこちらを見上げる女のかまととぶった芝居が鼻につく。目的のために仕方がないこととはいえ、涼以外の女に一切魅力を感じることなどない。
体を傾けて、彼女の肩口に顔を置けば、ふわりとせっけんの香りが鼻をついた。
「この匂い……」
「あ、気づいた?前に響がせっけんの香りがいいって言ってたから香水変えたの」
「……」
違う。こんなんじゃない。
俺が望んでいるのは、もっと内から放たれるような、透明で、暖かで、雲に包まれているみたいな……涼の匂いだ。
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