夏休みの終わり
第15話 Irreversible Process
「……前に碧月さんのおうちにお邪魔したとき、ここで失敗があったよね」
状況は数分前とさほど変わらなかった。私は同じ位置に、同じ姿勢で座っている。
変わったことと言えば……あえて挙げるとするなら……姫宮さんが私のすぐ隣に居ることぐらい。
秒針が確固たる沈黙を刻む。自分の脈拍と、秒針のリズムを比べていた。比べていたから言える。どう考えても私の脈拍は正常じゃない。
私は分からなかった。彼女が内鍵をかけた理由も、私の対面ではなく隣に腰かけた理由も。
この状況が作られる直前に言っていた言葉が真意なら、こんな方法じゃなくて……もっと、言葉にしづらいけど良い方法があったはずだと思う。
「あ、あのさ――」
「一ノ瀬ちゃんと詩織と。仲良くできそう?」
それは明らかに意図的だった。私に一切の発言は認められていない。姫宮さんの質問に答えることだけを強制されている。
本当の意図は定かでないにしろ、かろうじて暗に伝えたいことだけは読み取れる。
いずれにしてもこのやり方は姫宮さんらしくない。だから、彼女の本心が隠れたまま推し量れない。
「うん……最初は面食らっちゃったけど、ふたりとも良い人そうだったから。学校でも話したいかな」
「ふぅん」
私はついさっき起きたことを思い起こす。今日は姫宮さんと私だけがこの空間に居るのだと、そう判断していた。
間違いだった――今年の夏休みは、私の周りにこういう間違いばかり起こる――けど、嫌だったとは少しも思わない。
姫宮さんの疑問は遷移する。やっぱりというか次に挙がったのは、私もよく知る人のことだった。
「あれから紫乃とは、どうなの」
「夏祭りの日のこと? まだちょっと話したぐらいだけど、同じ趣味のおかげで今すぐにでも仲良くなれそうだよ」
「へぇ……」
数ヶ月の間、香月さんは私の前の席にいた。私達は何度か会話を交わした。世間話とかそういうのではない。ただの事務連絡。
だけど姫宮さんを経て、私達には共通点があると知った。もう事務連絡だけを交わす必要はない。
いつの間にか姫宮さんは私の隣を離れて、窓際に佇んでいる。夏の色彩を放つ暮れが彼女の瞳に映し出される。その光景は夏休みという旅路の果て、そして物事の転換点を感じさせた。
静かに彼女の口が開かれる。
「朔晦先輩は」
「彗依先輩? 先輩に関しては……私が何をしてもしなくても、先輩の方から詰めてくるから。なんとも」
「……っ」
彗依先輩は不思議な人だと、底が知れない人だと何度も思い知らされる。私達のきっかけは覚えているけど、どうやって今に至ったかは忘れてしまった。
分かるのは――いつだって彗依先輩は昼休みの私を1人にさせてくれなかったことだけ。もしかすれば、これからもずっと。
依然として姫宮さんに変わりはない。悲壮を感じる端正な横顔が、窓の向こうの夕暮れに逃避し続けている。放っておいてしまったらいつか目の前から消えてしまうのではないか、なんて悪い予感が脳裏に走るぐらいには。
……私だって鈍感じゃない。初めに陥った混乱からだいぶ抜け出せた。今はどうしてこの状況が起こったのか、何がこの状況を引き起こしたのか、少しは予想がついている。
私はこの夏に起こった出来事の全てを心に思い起こして、答えとなる言葉を選んだ――だけど。
「……もちろん私が一番仲良くなりたいのは、姫宮さ――」
「そんな嘘つかないで。今の碧月さんに言われたって……嬉しくないよ」
夏休み中、姫宮さんは色々な彼女自身を見せてくれた。憂いだとか、喜びだとか、それ以上の喜びだとか。
そして私は今日、初めての彼女を見ている――憤り。
鈍感だったならどれだけ良かっただろう。変に空気を察して、余計な口出しを挟むくらいなら……いっそのこと全て無かったことにしてしまえれば。
何も変わらない代わりに、何も悪化しなかった。
……でも。私は――私達はこれが最善だと思う。
胸の内にある爆ぜそうな焦りとは裏腹に、姫宮さんが想いの深層を覗かせてくれたことへの安堵があったから。
それに選択はいつだって、後戻りできないものだから。
「じゃあどうしたら……姫宮さんは私を信じてくれる?」
彼女はゆっくりと振り返った。窓から差す夕焼けの弱い光が、姫宮さんの輪郭を形作る。
私達の視線は混ざり合っている。反対に、これまでに無いほどの緊張が背筋を走った。
姫宮さんが発した次の単語は私に、純粋で確かな苦悩をもたらすことになる。
「証明して」
思わず同じ言葉を聞き返した。それは今置かれている状況の中で一番難しい――誰かにとっては一番簡単な手段だけど、私には策が無い――もので、一番聞きたくない単語だったかもしれない。
「証明って……具体的に、どうすれば?」
「そんなの――自分で考えなよ」
状況は一向に難しくなるばかりだった。ちゃんと向き合ってくれていたのも遠い過去、姫宮さんの視線は再び窓に連れ去られる。
証明……この難しい問題を解くためには、もう一度今日のことを振り返らないといけない。
私は姫宮さんの部屋で一人になった。最初はただ、わくわくするような好奇心だけがあったと思う。
部屋の隅々まで見渡して、感心して、感動して……そして――そして。
見られてはいけないことまでしてしまった。
もしそのことについて怒っているだけなら素直に謝ろう。でも“証明”という言葉が証明しているように、姫宮さんの憤りの原因は別なところにある。
一ノ瀬さんと詩織、香月さん、彗依先輩。そして姫宮さん。私は皆と仲良くなりたいって、皆のことをもっと知りたいって言った。
もちろん自信過剰なだけの可能性も捨てきれないけど――姫宮さんの胸中にある感情は。
私もいつか抱いたことがあるから分かる。
ジュエリースタンドの最上段から、自分のトートバッグへ。あの日姫宮さんから受け取ったものがもう一度、彼女の手元に行き着く。
「これならどうかな。一応言っておくけど、今日このキーホルダーを付けて持ってきたのは点数稼ぎとか、そういうのじゃない。本当に嬉しかったんだ――ただそれだけ」
無色透明の結晶が姫宮さんの手の中で存在感を放っていた。昼間とは違って落ち着き払った光だけど、美しかった。
美しいと思ったのは彼女の手の中にあったからかもしれない。
「これ……水族館に行ったとき、の」
姫宮さんの瞳が大きく開かれたのを見た。
だけどすぐに、数分前のどこか迷いを映す瞳に逆戻りしてしまった。
私はこの時点で薄々感づいていた――姫宮さんはまだ満足していない。というか姫宮さんは多分最初から、ある目的のために私を誘導していた。
「でもまだ……まだダメだよ。もっと、もっとわたしを安心させてほしい」
消えゆく声が実際に消えた瞬間。カーテンが無遠慮に閉められ、私の心臓は跳ねた。
姫宮さんがそうした。しめられたドアの内鍵とカーテン……2つが指し示す事実は1つ。
彼女は私に対して、人の目には避けたいことをするつもりなんだ。
「……お願い。わたしに、ハグして」
予想に違わない強気な望みとは裏腹に、声も両手も黒目も、何もかも震えていた。薄明だけが照らす部屋は無音のままで、姫宮さんが立つ場所の危うさを際立てている。
昔、私がまだお姉ちゃんのことが無垢に大好きだったころ。ハグの意味は私にとって大した意味じゃなかった。
今も昔のままだったらどんなに良かっただろうかと思う。
だけどあいにく……私は、私達は……とっくに引き返せないところまで来てしまった。
偶然と、過去と、約束と。姫宮さんと過ごした夏休みが――私を彼女との深い接触に導いた。
「あ、碧月さ――」
身体の重なったところが暖かい。姫宮さんの甘やかな匂いも相まって、まるで満ち足りた花畑に寝そべっているようだった。
「大丈夫、大丈夫だから」
華奢な背中をゆっくり撫で下ろし続ける――お姉ちゃんがしたように――と、震えと強張りは次第に収まっていった。
そしてその代わり、無造作に垂れたままの両腕が私の腰に絡みついてきて。ただ私を強く手繰り寄せた。
一体、何分が経ったのだろう。飛び跳ねていた脈拍がいつの間にか元に戻っていた。
私のことを抱き締める腕に弱まる気配は感じられず。それどころかより一層……力が強まっている。
苦しくはなかった。私と姫宮さんの間にある隙間が0に近づくにつれ、安心感はもちろん、他の感情が生まれたから。
人生で初めての感情――言葉にするなら……このままずっと、抱き合っていたいなんて思ってしまうような感情。
一時の気の迷いに過ぎないことは分かっているつもり。
分かっているつもりだけど。
時間が永遠に止まることを望んで、私は目を閉じる。
「……ごめんね」
姫宮さんの囁き声が暗い視界に現れた後のことだった。
私の立つ世界が傾く。前から重みがかかって、背中に柔かな衝撃が走った。
暗い視界が晴れ、真実が飛び込む。
後ろに広がっていたのは姫宮さんのベッドで。前に広がっているのは……私を覆い隠す姫宮さんの姿。
荒い呼吸が示すように、彼女の表情には熱が籠っていた。触ったら確実に火傷してしまいそうなぐらいに紅潮している。
「逃げないで。碧月さん」
私から見ても、たとえ他の誰が見たとしても、この状況を説明するのはすごく簡単なことではある。
……姫宮さんが私を、ベッドに押し倒した。
まつ毛、長いなぁ。
我ながら危機感の欠片も無い。もしくはパニックから来る現実逃避なのかも。
姫宮さんは私が逃げるんじゃないかと心配していた。だけど2つの意味で、私に現状への反抗は叶わない。
右手は姫宮さんに押さえつけられている――皆が言う恋人つなぎで。
実際にそういう意図があるのか、ただの偶然なのか。
私は偶然だと思う。根拠があるわけではなく……もし偶然じゃないんだとしたら、全て取り返しがつかなくなってしまうから。
姫宮さんの瞳は私の身体を上から下へ、くまなく観察を続けているようだった。
男女の、ああいうことの真似事をするつもりなら――私の知識が正しいとすれば――これは合図なのかな?
ようやく理解が追いついた。私が今からされること、すべきこと。
姫宮さんの宙ぶらりんな右手を警戒し、もはや収拾のつきようがない事態に憂慮する。
彼女の目は私の胸元で止まった。
目線の先にあるものに気づき、左腕で自分の胸をとっさに守る。
第一、私の貧相な……貧相なのよりもずっと、羨ましいそれを姫宮さんは持っているはずなのに。
「安心して。……そんなこと、今はしないから」
艶めかしく蠱惑的な声色が私に、一瞬の確かな緩みを与える。
姫宮さんは初めから狙っていたと言わざるを得ない。彼女は――私の左腕を強引に引き離した。
両腕も下半身も押さえつけられて、もはや私を守るものは頼りない何枚かの布しか残っていない。
姫宮さんの顔が近づく。友達はおろか、家族でさえここまでの距離はなかった。
そして彼女は。
「姫宮さんこれ……やだぁ……」
「いい匂いだよ。あれ、もしかして――ふふっ。首弱いんだ?」
鎖骨近く、首の辺りで……私の匂いを感じ取ろうとしていた。
どうしてか分からない。唇が身体に触れるぐらいにまで近づいておいて、まさか。
胸とか、あるいは……そういう別のところに触れられることへの準備は出来ていた。けど――
――流石に、匂いを嗅がれることへの準備は。
「……んっ」
「あはは、息だけで」
すんすん、という呼吸の後に来るわずかな吐息にさえ、意に反して私の身体は反応してしまう。
だから姫宮さんに対して何も抵抗できなかったし、言い返せなかった。
姫宮さんは「最後の仕上げ」と不穏な羅列を口走り、尋ねる。
「わたしの下の名前覚えてる?」
「え……まぁ、もちろん」
「じゃあ言って」
正直、名前で姫宮さんを呼ぶのはちょっとだけ恥ずかしかった。なんせこんな状況だし。私が思い描いた理想はもっとこう――友達から親友へ、関係が移るときに自然と名前で呼び合う、みたいな。とにかく、名前呼びに対する憧れは確かにあったはず。
でも姫宮さんは知ってか知らずか、見事に私の憧れを塗り替えた。
退路を全部塞いでからそれをお願いするなんて。
「……燈夏、さん」
姫宮さん――もとい、燈夏は本当にずるいと思う。
「えへへ。さん付けなのがちょっと気に入らないけど……でも」
彼女は恍惚に潤った瞳とは反対に、今日一番の笑顔を見せる。そして耳から脳へ突き抜ける響きを声にした。
「大好きだよ、霞……もちろん親友として!」
「ひゃっ――⁉」
姫宮さんは最後に、私の首筋へ甘噛みを落とす。
信じられない言葉と一緒に飛び込んだ、痛みとも気持ちよさとも区別できない未知の感覚に、私は情けない声を抑えきれなかった。
「今日わたしにしてくれた事とされた事。……夏休みが終わっても、忘れないでね」
君の瞳は終わりなき星 ココむら @cocomurark
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