8. 九匹の龍と唐草模様

「ただいま」



「おー!おかえりー。今日、遅くね?」



「保谷さんに捕まってた」



「また? いつも捕まってるなぁ。あ、俺もね、今日おやっさんに捕まえられて、褒められちったー」



「ふふ、良かったな」



「うん! お前は賢くはねぇが良く動く。お前とミツキは良いコンビだ、だって! やったねぇ」



「そうだな」



若干肌寒い部屋で、男はパンツ一枚にエプロンを着て、俺を出迎えた。アキと俺が呼ぶこの男は、体中に植物を題材にした色鮮やかな刺青を入れている。植物や模様のみの刺青だが、誰のよりも華美で、心底艶やかだ。


そんな男はいくつかアクセサリーを着けていて、派手に派手を足している。首から下がるシルバーリングのペンダントは、俺が給料を貰えるようになった年に、こいつの誕生日に贈ったプレゼントだった。中学からの付き合いだから、アキの好みは昔から知っていたが、まさか長い間、ずっと着けてくれているとは想像もしなかった。アキはゴツいアクセサリーが昔から好きで、そのペンダントは、アキの好きなシルバーアクセサリーブランドだった。


アキは顔立ちも派手だが、身に着けている物もいつも派手で、脱げば体も派手。そんな派手な男は、何か得体の知れない茶色いものを、早朝から煮込んでいるようだ。



「ぐーつ、ぐーつ、美味しくなれー、美味しくなれー」



そう呪文を唱えながら。


アキは俺が関わってきた人間の中で最も純粋で、最もイカれている。この能天気ハッピー野郎は、昔から三度の飯より喧嘩が好きだった。喧嘩の強さは異常で、体幹が良いのか、それとも野生的な何かを秘めているのか、殴るのも、殴られるのも、涎を垂らして喜ぶほど好きなのだ。その割に、自分より強い相手と闘って負けると、俺に泣きつくどうしようもないやつだった。


泣きつかれても、アキが負けた相手に俺が勝てるわけもなく、中学の時はふたりで、再戦を挑んで鼻血を流す事が何度かあった。負けるだろう事は分かっていたが、アキに助けを求められると、助けないわけにはいかないのだ。相手がいかにも格闘技やってるようなやつで、白目を剥きそうになるほど体格差があっても、アキの為なら闘おうと挑まざるを得ないのだ。


とは言え、当然ながら負けて、鼻血垂らして、しょげて帰り、アキには「みっちゃんのせいだぁーッ」と人のせいにされるまでがセットである。


こいつのイカれ話は喧嘩だけに留まらず、品行方正の真逆を突き進むようなアキは、中三の夏、何の躊躇いもなく眉や鼻にピアスを開けてきて、先生に散々叱られ、顔面のピアスが無くなったと思ったら、翌日には舌にピアスを開けてきた。放課後に俺を呼び止め、「気持ちの良いキスをしてあげようか」と、へらへら笑いながら言ったアキに対して、また突拍子もない事を言ってるよ、と受け流したが、「すごく気持ち良い"らしい"よ」と胸が騒つく言葉を言って笑った。


すごく気持ち良い"らしい"。…誰に言われた。誰とした。いつ、どこで、どうして。自分の複雑な執着心に喉を鳴らし、欲望に流されるままキスを交わして、その時初めて、アキの舌にピアスが開いてる事を知ったのだ。あまりにも驚愕して固まった俺に、アキはにやりと微笑んだ。「ね? 気持ち良いでしょ」そう口角を上げるアキは、小悪魔に見えて仕方がなかった。


こいつの破天荒ぶりは治らず、高二の時にはニップルピアスを開けていたし、卒業間際には高校の思い出と言いながら、何故かペニスにも開けていた。先端に開いている、所謂プリンスアルバートである。


アキは俺にとって、まさに刺激物だった。全てがギラギラと眩しいくらいに輝いて見えたし、何もかもが新鮮で、どぎつかった。


アキがどう生きるのか興味があった。隣で見てきたからこそ、死ぬまで見ていたいと思った。俺はこいつの隣にいる事を、いつの間にか、とても自然に選んでいた。


だから俺は警官を目指しながら大学へ通いつつ、破天荒極まりないこの男とルームシェアをしていたのだ。毎日が楽しかった。こいつのいる生活はいつも波乱に満ちていて、刺激的で面白かった。それは今も変わらない。俺がこいつと同じヤクザになった今でも。



「で、その茶色い液体は何」



「カレー」



にしては具が見当たらないし、水っぽいし、シナモンのような強い香りが鼻を掠めている。



「……誰が食うの」



「みっちゃん」



「俺、朝からカレー食わないよ」



「俺流でスパイス配合させて作ってるから多分美味い」



「市販のカレールー買って作ったわけじゃないの?」



「え、違う。拘り」



「何よ、拘りって。お前、びっくりするくらい料理下手じゃん」



拘るなよ、と言いそうになって飲み込んだ。



「は? 俺の料理貶すなよ。食わせてやんないぞ」



「誰がいつ食いたいって言ったよ」



「みっちゃんが、昨日」



「えー、言ったかな…?」



絶対に言ってない、と思いながら口を歪めていると、アキはピースサインを作った。



「あと煮込むのに二時間でーす。いぇい、いぇい」



「なげぇな」



「うん、プロのカレーだから」



何がプロだ。目を細めてアキの顔を見つめていると、アキは火を弱火にして、俺の方に体を向ける。特徴的な八重歯を剥き出し、にへらと甘く笑った。印象的な笑顔を見る度に、野良犬を懐かせたみたいで嬉しくなる。つい顔を綻ばせていると、アキはぴとりと俺の腰に手を回した。



「なぁなぁ、ミツキちゃん」



「どうした、アキチカくん」



「今改めて思ったんだけどね」



「何よ」



「やっぱ、みっちゃんってムッとしてもイケメンよなぁ」



アキはそう甘えたように、腰に回した腕に力を込め、自分の方にグイッと寄せる。



「プロのカレーに不信感を抱いてただけで、ムッとはしてないだろ。むしろ、微笑んでたつもりなんだけど」



「んー、そう?」



「…そう。てか、急にどうした?」



アキは猫のようにすりすりと、頭を首元に押し付けるように寄せた。その柔らかな髪からは、柑橘系の香水の香りと、微かに血の匂いがする。



「今日さ、ナオピーとセナが、みっちゃんに5番街のカレー屋に連れてってもらったって話してたんだよ。そんでナオピーが、カレー食う時のみっちゃんって、むちゃくちゃイケメンって言っててぇー、俺も久しぶりにみっちゃんと飯食いてぇってなった」



そうか、それでカレーか。納得して頷きながらアキの髪を軽く撫でると、彼は当たり前のように身体を寄せてきた。愛おしくて心臓が痛い。



「時間合わせて、たまに食ってるだろ」



「んー。だってここ最近は一緒に食べてないよね? ナオピーとセナは先週行ったって言ってたよ」



「まぁ、あいつらとは都合が合ったからな」



「みっちゃんが澄ましながらカレー食べてて、すーごくイケメンだって言ってた」



「澄ましながらカレー食った覚えないけど。…てか、カレー食う姿がイケメンってそもそも何? ナオトはちょっとズレた事を言うよな」



「ナオピークレイジーだから。なぁー、もう少しこのまま癒しを頂戴。俺、今日、むちゃくちゃ頑張ったのよ。疲れちゃったの。みっちゃん不足で死ぬかもしれない」



「お疲れ様」



アキの方が少し背は高く、ガタイは俺よりだいぶ良い。俺をまるっと包み込むように抱き締めながら、頬に軽くキスを落とす。こいつの愛情表現は動物っぽくて愛らしくて、胸が温かくなる。アキの傷だらけの背中に手を回し、掌からアキの熱を感じ取った。アキに抱き締められると何もかも、どうでも良くなるのだ。ストレスが全て吹き飛ぶ心地良さに、つい俺は目を閉じて、アキの髪に頬を寄せていた。


癒しを貰うのは俺の方だな。そうアキの背中を撫でていると、アキは急に、俺の体を離して、無言で火を止め、鍋に蓋をして、着ていたエプロンを脱いだ。何事かとアキを見て、視線が下りる。ほーう、と片眉がゆっくりと上がった。



「疲れマラ?」



ふっと笑ってしまった。ボクサーパンツ一枚だけのアキは、真顔で無言のまま俺の腕を取ると寝室へと引っ張った。


彫刻のような見事な体は相変わらず美しい。アキの刺青のベースは唐草模様で、それは背中から肩、胸、腕、太腿に入っている。所謂、胸割三分の半ズボンである。体中に様々な草花が散りばめられ、胸元には桜が舞い、骨盤の辺りに咲いている牡丹は圧巻だった。こいつの裸は印象的で一度見たらきっと忘れる事はできないだろう。広い背中を見ながら、こくりと喉を鳴らした。シャツのボタンを外し、ベルトを外そうと手を掛けていると、アキは恍惚とした表情を俺に向けながら、俺をベッドへと押し倒した。



「みっちゃんの刺青ってエグいよね」



お前に言われるのか、と思いながらもにやりと甘く笑って見せる。



「格好良いだろ。お前が題材も彫師も決めたんだ。納得のいく墨になってなきゃ困るな」



「うん、湊太郎さんに任せておけば心配なし! とは思ってたけど、あの人、人を選ぶからハラハラしてたよぉ。でも受けてくれて良かった。だってみっちゃんにぴったりだし、本当に似合ってる。いつ見ても感嘆しちゃうなぁ」



「それは良かったよ」



「みっちゃんが先に寝たらね、みっちゃんの背中をじーって見てんの。ふふ、見てたら、この龍に噛み殺される夢を見た」



甘く笑うアキの頬に手を寄せながら、「あまりにもお前が美味しそうだったのかな」と笑うと、アキは「そうかも」と、微笑みながら胸元にキスを落とした。


アキとの交わりは途方もない多幸感と、心地良い疲労を生む。互いの体に執着の痕を残しては、満足気に笑い合う。この幸せがずっと続きますように。アキを見ながら、そう祈る事が、眠る前のルーティンになっていた。


自然と昼過ぎに目を覚ます。さんざん体力を使ったはずだが、体内時計は狂わないらしい。歯を磨き、欠伸をしながらバスタブに湯を張る。ゆったりと湯船に浸かりたい気分だったからだ。湯が張れるまで、コーヒーでも飲んでいようと、時間をかけてコーヒーを淹れる。


普段から開けっ放しにしている寝室のドアから、アキがぐっすりと眠っている様子が伺えた。いつの間にかうつ伏せに体勢が変わっているが、布団から出ている上半身は、相変わらず派手で目を引く。その刺青は色も形も、アキらしく豪快で煌びやかで美しい。


淹れたコーヒーを一口飲んでいると、アキの携帯が騒がしく鳴り響く。アキは驚いたのだろう、短い悲鳴を上げながら飛び起きた。即座にベッド横のシェルフに置いてある携帯を取ると、応答ボタンを押す。



「はい、原です!」



寝癖のついたひどい髪を掻きながら、忙しなく会話し、何かをメモして「分かりました」と告げて電話を切った。その後に大きな溜息をひとつついて、リビングルームへと入ってくると、コーヒーの余りを飲みながら、ソファに座る俺の横に腰を下ろした。なんだかとても項垂れている。



「みっちゃーん」



「ん?」



「もう嫌だぁ」



「何が?」



「色々とさぁ。…疲れたなぁ」



コツン、と額を俺の肩に押し付け、溜息を吐く。何かあったのだろう。俺はその寝癖だらけの髪を撫でながら、「どうした?」と訊ねるが、「色々と大変だなぁーって」とだけ返ってくる。アキは自分が抱えている仕事に関しては答えない。そんな事は分かってはいたが、少しでも肩の荷を下ろしてほしかった。


俺には言えないという事は、俺との仕事ではないのだろう。他から頼まれている仕事であれば、俺には何に悩んでいるのか分からない。こいつも、悩み相談をしたいわけではない事は、言葉の端々から伝わった。仕事に関して探られたくはない、でも疲れたと愚痴は溢したい。そういう事かなと理解して、頭にちゅっと音を立ててキスを落とす。アキはふと顔を上げた。



「みっちゃん…」



「今日は休み貰ってんだろ? だったら仕事の事は考えず、うんと休め」



「夜の仕事まで何処にも行かない?」



「行かない。今日は家で、これでもかってくらい休む」



「う、嬉しい! みっちゃんも家にいる…」



感動しましたと言わんばかりに口を覆うアキを見ていると、俺も嬉しくなってつい頬が緩んでしまう。



「風呂、一緒に入る? 今入れてるけど」



そう首を傾げると、アキの顔が一気に嬉しさに満ちる。



「入るー! あ! 俺ね、白い入浴剤が良い。あのすげぇ良い香りするやつ」



「あれ、あったかな」



「この前掃除した時はあったはず!」



「そっか。じゃぁ、あるか」



「うんうん! みっちゃんとお風呂だぁ」



休みの日はひたすら家でのんびり過ごす。乳繰りあっては飯を食い、たまにこいつのレコード鑑賞タイムに付き合い、俺にはよく分からないサイケデリックロックと言うジャンルの音楽を聴く。たまに俺の趣味にも付き合わせ、ふたりでただ読書をし、どちらからともなく視線を交わせばまた乳繰り合う。増えた体の傷にキスを落とし、アキはくすぐったそうによく笑った。


こいつがいれば何も要らなかった。こいつの側で生きる事が、俺の生きる理由だった。


アキに妙な噂が立ったのは、それから数日後の事だった。ナオトとセナが「藤さん、何か聞いてます?」と俺に言ってきた話に不穏な気配を感じた。


それは、アキが保谷さんから何度も連絡を受け取り、呼び出されている事だった。仕事を任されている可能性が高く、それも殺しなんじゃないか、という事。保谷さんの屋敷に在中する世話役のひとりが、ナオトの友人で、その彼が、何度か裏口にアキが来ているのを目撃しているのだと言う。いつもお茶らけているアキが、深刻そうな顔をして保谷さんと話しをしていたらしい。


アキの仕事状況が不明瞭なのは昔からだが、保谷さんが直接アキに仕事を任せているとは予想外だった。


しかしアキは俺には何も言わず、日々は過ぎていく。夏真っ盛りの季節、世の中ではビーチシーズンだと若者が海ではしゃいでおり、たまにニュースで取り上げられる。海行きたいなぁー、とアキはよく呟くようになった。あれから愚痴を溢さなくなったが、疲弊は目に見えて増しているようだった。比例して、跡目争いが水面下で激化する。本家本部長である保谷さんと、本家若頭である樋口若頭との対立は、会長の容態が悪くなるにつれて大きくなる。保谷さんの名前が、次期会長候補として正式に公表された事に伴って、派閥が明確になり、派閥同士で潰し合いが始まったのだ。嫌な重い空気と、ピンと張る緊張の糸が日々増していった。


どこの組が味方なのか、敵なのか。誰を信じるべきか、疑うべきか。その境界線が色濃くなり、敵か味方か、誰かが裏切るのではないかと、人間不信に陥りそうな状況が続いた。敵とも味方とも判断のできない組は少しずつ減っていき、一触即発な状況に息を詰まらせていた。



「戦争は避けたいところだねぇ」



都内にある高層マンションの一室、ソファの上で寛ぐ保谷さんは相変わらず飄々と余裕を持っている。



「はい」



「お前の周りで何か変わった事はねぇか?」



「こちらは特に」



「そうか。そういやぁ、佐々木は使えてるのか」



「はい、運転を任せてます。ただ、まだ組員ではありませんし、半グレ連中と小銭稼ぎに行かせる事の方が多いですが」



「へぇ。小銭稼ぎ、ね? 詐欺でもさせてんのか」



「いえ。…今は夏ですから夏らしい事、してますよ」



「何だそりゃ」



「海の家させてます」



「海の家?」



ふっと肩を揺らして吹き出した保谷さんを見ながら、俺はこくりと頷く。



「一昨年から半グレの仲間同士でやってるそうです。メンバーの中に海の家を持ってるやつがいるらしくて、俺が事務所に籠る時や休みの時はそっちに行かせてます」



「へぇー。青春してんなぁ。で、今はどうしてる?」



「今は駐車場にいます。呼びますか?」



「いや、大丈夫だ」



保谷さんはそう頬を緩めた後、「さて、本題といこうか」とウィスキーを一口だけ飲んだ。



「佐野組の佐野、分かるか?」



「はい、佐野組長。分かります」



「厄介な事にね、佐野が大阪に手を回し始めてる」



「それ、本当ですか…」



「あぁ。あいつはどうやら樋上派閥のようだな。ちょっと誤算だったよ。あいつが戦争を起こす気なら、一気に決着をつけにくる可能性がある。今は、どいつもこいつもタイミングを見てんだろうがな」



「でも、会長は樋上若頭では務まらないと踏んだからこそ、保谷さんを選んだんですよ。会長の意向に背くなんて、佐野組長は何を考えているのか…。正直、驚いてます。佐野組長は何故、うちを敵に回す方を取ったのでしょう…」



「あいつは賢いからなぁ。自分がコントロールしやすいのは樋上か俺か、比べたんだろうよ。嫌だねぇ。佐野は敵に回したくねぇんだけどなぁ」



佐野組長は保谷さんにとって、付かず離れず、良いビジネスパートナーという印象がある組長だった。それが今になって、完全に敵側に回ってしまうとは予想外だった。今の佐野組長は、保谷さんを引き摺り下ろす為なら、手段を選ばないのかもしれない。縦社会のこの世界で、会長が保谷さんを支持しているのは、分かりきった事なのに、会長の意に背くような行動を取ってしまうほどなのだから。


組員の数も多い大世帯の佐野組は、今回の件では今の今まで沈黙を貫いていた。それがとうとう、敵として動き出したのだ。保谷さんは、気怠そうに頭を掻くと溜息を漏らす。



「佐野が向こうにいる限り、こっちはなかなか危ない状況だろうな。さて、どうするか」



あなたの為に使うと決めた命。俺はあなたに従うだけ。そう心の中で呟きながら、意を決して口を開いた。今が、この人にとって苦境なのだ。今こそ、恩に報いる時ではないだろうか。



「保谷さん、俺に出来る事は何でもします」



保谷さんの瞳がゆるりと弧を描く。だが、そこに優しさも温かさも何もない。何故だろう。背筋を氷で撫でられたように、すぅっと冷たくなる。緊張が体に走るが逃げ場はない。



「そうだよなぁ、お前は俺の為に死ぬんだもんなぁ」



保谷さんは、ふっと笑う。



「はい」



俺が生きていられるのは、…いや、アキと共に生きてこられたのは、この人が俺達を守ってくれたからだ。当時、俺とアキの命を狙っていた組織は、保谷さんが最も頭を下げたくなかった組織で、長い事、ずっと敵対していた。そんな組織に話をつけ、俺とアキから手を引かせたこの人の男気と温情に感服し、心底惚れ込んだ。一生付いて行くと決め、この人の為に命を使うと決めた。


だから、この人の意に背く事は決してない。あってはならないのだ。



「俺の為なら、何だって出来ンだな?」



保谷さんは、飲んでいたグラスをカタンと音を立ててローテーブルに戻した。タバコを咥え、俺は即座に火を点けながら答える。



「はい」



保谷さんはふぅと煙を吐き、タバコを挟んだ手で気怠そうに頭を支えると、背もたれに肘を掛け、俺をじっと見下ろした。もう一度タバコを咥えると、肺の深くに煙を押し込んだ。少し肺に溜めた後、ふぅーと宙に吹き付ける。吐き出された煙が、ゆるりと肺を満たす。



「嘘はねぇな?」



「はい」



覚悟は出来ていた。あの日、自分の命は保谷さんに捧げたのだから、敵対する佐野組にカチこむ事だって、刺し違えて、佐野組長を殺す事だって、何だって受け入れるつもりだった。



「そうか、なら…」



その言葉を聞いた瞬間、頭は真っ白になり、音も温度も、全てが遠のいていくようだった。



「原を、始末してこい」



この世界は、あまりにも酷薄で、凍てつくほどに無慈悲だという事を、俺はどこかで忘れていたのかもしれない。

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