第37話
だけどまあ、察してほしい。
ピアノの譜面なんて、相当弾き慣れてないと覚えてるもんじゃない。どんなお気に入りの曲だって、うっかりするとすぐにどこかの和音が記憶から抜け落ちる。
要するに、今あたしがここで何も見ずに弾ける曲は、一曲だけってわけだ。
スタジオに着くなり野川さんが電源を繋いでくれた新品のキーボードで、あたしは今、悲愴な音楽を奏でている。
もちろん、今日は叩きつけるようにffで弾いたりなんかしないけど。
ただ、こんなの間違っても、よく晴れた・初夏の・土曜の・朝から人に聴かせる曲じゃない。
野川さんを悲愴な気分にさせていないか、弾きながらちらっと横目で確認する。
野川さんは食い入るようにあたしとキーボードを見つめていて、その顔はワクワク感に満ち溢れていた。
……なぜ。
途中、続きを忘れたところで適当に演奏を切った。
「……すごいなあ。なんて曲なの、これ」
「ベートーヴェンのソナタ『悲愴』です」
野川さんはくすっと笑うと、キーボードの前に直立不動のあたしをまじまじと見つめた。
「蒔子ちゃん、ずいぶん大人っぽい曲を弾くんだね」
「こういうのは、あんまり弾かないんですけど……たまたまです」
普段はもっと、暴れ馬みたいな曲しかやってない。
……いや違うか。あたしが弾くと全部暴れ馬みたいになるんだった。
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