第36話

雑然とした事務所の中に、ひとり。


奥には前に来たときに座ったソファが見えるけれど、勝手に座るのも気がひける。


入口に立ったままぼーっと部屋全体を眺めていると、前にはなかった大きなダンボールに目が留まった。


「キーボードだよ」


「わ、野川さん!」


いつのまにか戻ってきた野川さんは、あたしがダンボールを凝視しているのに気がついて、教えてくれる。


「前までスタジオに置いてたやつが壊れてさ。昨日届いたところなんだ」


ふーん。なるほど。


野川さんはふと、何かに気づいたみたいに、


「蒔子ちゃんってもしかしてピアノ弾ける?」


「あー、まあ、弾けます」


実はピアノ部なんです、と言うと野川さんは目を見開いた。


「じゃあクラシックとか弾くの?」


「はい」


「やっぱりお嬢さんじゃないか、蒔子ちゃん」


「それがロックが好きとか言うから母がうるさいんですけどね」


うーん、と野川さんはひとしきり唸った後、パッと顔を上げた。その表情は輝いている。


「スタジオに行こう。何か弾いてよ」


「え、いや野川さん、」


野川さんは人の話も聞かずそのダンボールを抱えると、楽しそうに笑って事務所のドアを開けた。


「行くよ、蒔子ちゃん」


「……はい」


その期待するような笑顔に逆らえず、あたしは野川さんの背中を追って外へ出た。

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