第31話
一オクターブも届かない小さな手が懸命に指を広げて、丁寧に、丁寧に鍵盤をたどっていく。
慎重な演奏。テンポや強弱に細心の注意を払って、紗奈は音を追いかける。その演奏は静かで、それでいて不思議と、ひそやかな熱をはらんでいた。
名前も知らないその曲に、束の間、心を奪われた。
紗奈が踏み込んだペダルから足を浮かせると、先生はニコリと笑った。
「練習したでしょう。先週よりずっといいわ」
「ありがとうございます」
「何より、気持ちがこもってる! やっぱり音楽は気持ちが大事よね!」
一人で盛り上がりだす先生と、困ったように笑う紗奈を横目に、あたしは一番右のアップライトの蓋をあけた。
「荒井さんも弾く?」
「はい」
『悲愴』の1ページ目を開いて置くと、椅子をひいて、自分の高さに調節した。
残念なことにあたしの心は、そう、先生が言うようにかなり荒んでいる。今はベートーヴェンともわかり合えそうにない。
ピアノを弾いて苦しくなるくらいなら、ベートーヴェンを裏切ったほうがまだマシだ。
楽譜にチラリと目をやる。fpだって? そんな強弱記号、知ったこっちゃない。
あたしはスウ、と息を吸い込んだ。
――ff(フォルティッシモ)で叩きつけたその音に、先生は思いっ切り、顔をひきつらせた。
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