3.

第30話

「えっ? 違う曲にするの?」


部室にあった『軍隊ポロネーズ』の楽譜を差し出した紗奈は、受け取ろうとしないあたしに目を丸くした。


「うん。気分じゃない、それ」


「そっかあ……これ弾いてるマキちゃん、かっこいいのに」


残念そうに楽譜を棚にしまう紗奈の背中に、今は、こんな元気のいい曲弾けないよ、と心の中で言い返した。


曲調が気分とリンクしないと、弾いている途中で急に苦しくなる。違う、違うと胸の奥で何かが騒ぎだすのだ。


「じゃあ荒井さんは今、どんな気分なの?」


ピアノ部の講師の先生は、大人しそうな見た目とは裏腹に妙にハキハキした口調でそう訊ねる。


ああ。なんだか、無性にベートーヴェンが弾きたい。


「『悲愴』が弾きたい気分です」


あらー、それは随分すさんでるわねー、と先生は明るい声で言った。絶対他人事だと思ってる、この人。


「じゃあいいわ、考えておいて。先に水上さんのレッスンつけるから」


「……はい」


三人しかいないピアノ室、三台並ぶ真ん中のアップライトの椅子に腰を下ろした紗奈と、先生の姿をぼんやり眺める。


紗奈はその両手を鍵盤の上に置くと、真剣な表情で楽譜を追いはじめた。

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