ラセツと井上の場合
ラセツと井上の場合 前編
「……いやマジでふざけんな」
何度も試行するために指が走る。音が鳴る。妙に押し付けがましくて自己中心的な音が。何故繰り返し試行する必要があるか、それはSNSへの投稿を認められないからである。つまりは嘘が含まれているから。どうにか嘘を投稿しようと、ギリギリの表現を探している最中だった。
子供部屋として割り当てられた部屋を大人になってもそのまま使用する女が居た。女はほとんど働きに出ない。幸いなことに、家族に要介護者はおらず、身内の努力の一部を食い潰して、情に生かされている。換気を怠っているせいで空気は淀んでおり、カーテンを締め切った部屋は日中にも関わらず薄暗いが、女はそのことに気付いてすらいない。最後に風呂に入ったのはいつだと問われて恥じる気持ちがあったなら、女はもっとまともに日々を過ごしていただろう。
何故、彼女は脂ぎった前髪を額に張り付けたまま平気でいられるのか。何故、関取のようにだらしなく垂れ下がた乳房を目の当たりにしても正気を保っていられるか。それは偏にSNSのおかげである。インターネットは彼女の心を救った。いや、心だけを救った。救ってしまったのだ。だから彼女は肉体や社会的な評価を度外視して、醜い体のまま人に頼り切った生活を営むことができた。
彼女にとって大事なのは実生活ではなく、SNS上の評判だった。近所の誰かに、両親が「自立していない娘を飼っている哀れな中年夫婦」という目で見られていると知っても、女の心には何も響かない。渾身の面白投稿が伸びなかった時はその日一日気分が落ちている。それが女、ラセツと名乗っていた井上である。
インターネット上のラセツは最高の女だった。ユーモアのセンスに溢れ、ただ生きているだけで面白いことが舞い込んでくる、突発的に絡まれた時の返しのセンスもよく、交遊関係も広い。随所から滲み出るのは、ラセツがスタイルのいい、それなりに稼いでいる美人ということである。ある時は老舗ホテルのビュッフェで、ある時はナイトプールのプールサイドでアクシデントに巻き込まれる。しかし、ラセツが顔写真を投稿したことはなかった。そしてそれを不自然に思う者はほとんど存在しない。何故ならば、ラセツのアカウントでのメインの活動は、アニメ作品を愛でることだからだ。トバル・ファイトという作品の、特に二人の男性キャラクターを好いていた。二人のボーイズラブ、BL妄想をする、いわゆる腐女子である。
ラセツと井上の生活には大きな齟齬がある。いや、全く別人であると言っても過言ではない。世界中の人間の嘘が削除される中、ラセツへの罰則は最も厳しいものとなった。そう、アカウントごと削除されたのである。しかし、現実に居場所が無い井上はそれほどのことではへこたれない。彼女はすぐにインターネットという戦場に舞い戻ろうとしていた。アカウント作成にも制限がかかるという噂に怯えながら操作したが、井上は再びインターネットに分身を顕現させることに成功したのである。
そして冒頭。井上は歯噛みしていた。自身の投稿が何度試しても許されないのだ。パソコンのブラウザには、「この投稿はできません」と表示されるのみである。一体誰が、こんな余計なことをしたのだ。政治や経済のことには目もくれず、ラセツは自分の不運に憤るばかりであった。
SNSで上手くやっていた彼女には、独自の嗅覚が備わっていた。できることなら、前のアカウントは自らの意思で消したという印象を持たせるような文面にしたいと考えている。しかし、これが投稿の妨げになっていることは明白である。仕方無く、譲歩に譲歩を重ね、ラセツは決心した。これまでの自分のキャラクターや人気があれば、きっと受け入れられるはず。
——色々あったけど、戻ってきました
「いけた……」
何度も試行してようやく受け入れられた投稿だが、ラセツが喜ぶ姿を見せることはなかった。むしろ、他にもっといい言い方がなかったか、自らの投稿が世に発信された後でも頭の片隅で模索し続けた。
この投稿には明らかな不備がある。それは、大変意味深であることだ。簡潔に嘘以外の理由でアカウントを作り直したと思わせ、過去に触れさせないような力が、全くと言っていいほど感じられない。
アカウントのアイコンは消される以前のものと同じ、名前は言わずもがなである。削除されてしまった為、IDだけが以前のものと少し異なっていた。この新たな場所で、ラセツが次に取る行動は一つである。
——相互だった方はお迎えに行きます。ラセツです。追いきれない可能性が高いので、フォロー下さると助かります
投稿できたことを確認し、井上はディスプレイの前で短く息をついた。型落ちしたエアコンが冷たい風を運んでくる。ぺったりと張り付いた前髪が、少しだけふよふよと人口風に揺れた。
世界から嘘が消えてから、十日が経っていた。すぐにアカウントを作り直そうにも、元の規約で削除された同一アドレスからのアカウント作成には一週間の制限がかけれていた。それらが解けた直後は、舞い戻った者で界隈は溢れかえった。だからこそ、すぐに戻りたいのを堪えて、井上はそこからさらに三日待ったのだ。「別にSNSとか暇つぶしだし」という強がりと、「いや削除されて慌てて戻ってきたわけじゃないですよ」というアピールと、帰還者で盛り上がる時期を少し外して自分に目を向けさせるという打算を引っ提げて、ラセツはそこにいた。
知人をフォローし直すため、関連ワードで検索をかけるよりも先に、もう一度だけ試してみたいことがあった。どうせ弾かれてしまうのだろうという気持ちが文面を考えることを適当にさせる。井上の指がキーボードの上を踊り、「
「ちっ。死ねよ……」
小さく発せられた声はもそもそとしたもので、女にしては低かった。突然この声が聞こえてきたら、男と聞き間違える者もいるだろう。しかし、ラセツはこの声をコンプレックスに思ったりしない。人と通話する機会などないので、気にする必要がなかったのである。
言い訳を却下されたラセツは、仕方なしにこれまで繋がっていた人間を迎えに、もといフォローしにいった。ほとんどのアカウントはトバル・ファイトのファンである。しゃけというユーザーは時折二次創作の小説を投稿しており、ラセツほどではないがフォロワー数も多かった。世界から嘘が消えた時も、しゃけはあっけらかんとしていた。ラセツのように削除されたアカウントは大量にあり、しゃけ自身は誰が消えてしまったか、認識できていなかったのだ。しゃけの投稿を遡ってそんな様子を確認すると、ラセツはため息をついた。
「しゃけさん……本当に呑気な人だな」
ラセツはアカウントを削除されていたので、SNSの動きを把握できていなかった。ニュースで取り上げられることはあれど、自身の界隈について詳しく報道されることなど有り得ない。嘘が削除される以外に彼女が知っているのは、特定の界隈やSNSでは独自の制限が設けられることがある、ということだけである。
——経験した以上のことを書けないって、どういう意味なんだろうね
しゃけのこの発言は、ラセツの目に留まり、彼女を悩ませた。この投稿から意味を推察することは難しい。
「経験って……そりゃそうだろ。嘘は投稿できないんだから。どういうことだよ」
まぁいいやと小さな疑問を振り切ると、次にラセツはしゃけのフォロー一覧から、人を捜した。共通の知人が多いので、作業は容易だった。名前の隣にフォローボタンが設置されているので、ワンクリックで自身のフォロワー達を取り返すことができる。井上の部屋に、カチカチという音が響く。
モリゾーという名前を見つけると、ラセツはフォローボタンを押す前に、投稿一覧を見に行くことにした。モリゾーは女性であることを公表しており、ラセツのアカウントが消える前から直接交流のあった数少ない人物である。良くも悪くもうるさい女で、二次創作作品に感想を送りつけては、自らも妄想を言葉にしていた。よくもそれほど頭をピンク一色にできるなと関心したくなるほど、モリゾーの投稿は危ういものであった。そのため、モリゾーのアカウントのプロフィール欄には、十八歳以下のフォローお断り、とまで書かれている。
あの圧のある投稿達を再び目の当たりにすべく、ラセツは久々に彼女の投稿一覧をクリックした。結論から言うと、モリゾーは発狂していた。
——妄想を取り上げる権利が誰かにあるの?
――死ね(笑)
――本当に許さない
呪詛のような言葉が数時間おきに投稿されている。ラセツは、妄想を取り上げられる、という言葉に固まった。しゃけが言っていた「経験した以上のことは書けない」という言葉とくっついてしまったのである。普段は男同士のスケベ以外に興味を示さないアカウントが、強い口調で憤っているのは異様であった。
ぞっとした気がして、井上はエアコンを止めた。分かっている、少ししたらどうせまた点けることになると。
「オタク 妄想 SNS」など。関連ワードで検索をかければ、噂話はすぐだった。現在確認されている制限というサイトを見つけた井上は、上から視線を滑らせて関係の有りそうな項目を見ていく。関心がないので熟読はしないが、陰謀論関係のアカウントのみに課せられた制限や、政治に関わるアカウントのみに課せられた制限などが書かれている。
目当てのものはすぐ見つけた。分類はファン。つまり漫画やアニメ作品に執心している腐女子だけに留まらず、アイドルや俳優など、全てのファンを指しての制限ということになる。
「実体験を含まない妄想を制限されている可能性が高い、か……」
井上は声に出して読み上げるが、無意識だった。理解しがたいことを理解しようとしている現状が、自然と彼女にそうさせたのである。そして、意味の分からない制限であると呆れながらも、彼女はすぐに理解を示した。
「まぁ、オタクの妄想って本当にぶっ飛んでるし。まるで見てきたかのように話し出す様子を、何も知らない人が見れば……嘘に限りなく近い何かをばら撒いていると言っても過言ではない、か」
当然、SNSを通して発言するわけにはいかない。モリゾーの怒りを買うことになるのは間違いないだろう。せっかくフォローし直したというのに、早々にトラブルを起こすことは避けたかった。
さらに、井上はあることについても非常に達観していた。この嘘のボーダーラインは波のように寄せては引いている、という仮説の項目を捉えると、小さくため息をついた。
「発覚して困ることは人それぞれだろ」
相も変わらずもそもそとした声が、真実を呟く。ある者に投稿できなかったことが、別の者によって投稿することが出来たとなれば、二人の違いを探るのが現実的ではあるが、実現できない場合がある。嘘が発覚する時、大抵の人間は気まずさを覚えるものである。そのとき、人は時やタイミングのせいにしがちだ。
意外にも敏いところのある井上は、嘘に関する法則がゆらゆらと動いているという説について、それこそが今の人間の逃げ道になっていると見抜いてみせた。要するに自分が嘘をついている訳ではなく、そのように世界の仕様が変わったことにしたほうが、大勢にとって都合がいい場合があると、このサイトの噂の一部を鼻で笑い飛ばしたのである。
「お」
SNSに戻ってみると、大勢がラセツへとフォローを返していた。しゃけと、モリゾーもいる。アカウントが削除される勢いで嘘ばかりついていたラセツであるが、そんな彼女にもモリゾーの気持ちは理解できなかった。サイトで情報収集するまでは。
ラセツはニヤリと不気味な笑みを浮かべて、モリゾーの過去の投稿を遡ることにした。過去というのはここ数日ではなく、世界から嘘が消される前のことである。
「やっぱり。はは、はははは」
井上の乾いた笑いが淀んだ空気を纏った部屋に響く。モリゾーの一部の投稿が消えている。というより、半分以上の投稿が消えている。こうして見ればモリゾーのアカウントは非常にクリーンな状態だが、それが元の姿とかけ離れることを、ラセツはよく知っているのだ。
「エロ発言、全部消されてやんの」
要するに、恐らくモリゾーにはその手の経験が全く無い。言ってしまえばキスにまつわる投稿すら消えていた。それに気付くと、井上は一際笑い声を大きくした。さらに大きな声で笑えば、井上の母が不審に思って階段を上ってくることだろう。
ラセツとして接する中でモリゾーに激しい敵意を抱いたことはないが、経験豊富な振る舞いで他人の色恋に首を突っ込みたがり、一部の人間に姐さんと呼ばせていることを疎ましく思ったことはあった。その全てが嘘だったという事実は、存外ラセツを楽しませた。
「ウケるー。あいつ全部ウソだったんだ。どんな顔でアドバイスしてたんだ、マジで」
アカウントごと削除された女に笑われていると知れば、恐らくはモリゾーもそれなりに腹が立つだろう。しかし、ネット上のやり取りだけでは伝わりようがない。井上はSNSのそういったところを好いていた。
フォローを返してくれた人々に礼を言いたい気持ちが無いと言えば嘘になるが、余計な会話で真実が明るみになることを恐れたラセツは、フォロワーを取り戻す作業へと戻ることにした。投稿が一つも消されていない人間なぞきっといない。そんなことはないのだが、少なくともラセツはそう思っていた。彼女は綺麗な世界を知らなすぎるのだ。誰しもが脛に傷を持っているので、触れない方がお互いに都合がいいに決まっていると決めつけていた。
今度はモリゾーのフォロー一覧から辿ってみることにする。他人のフォロワー数まで把握していないラセツだが、モリゾーは広く浅い交友関係を築いており、フォロワーの数は五〇〇はいたはずだ。しかし、それが半分ほどにまで落ち込んでいる。自分と同じような人間がそれだけいたことにラセツは驚いたが、真実はそうではない。単純に、スパムアカウントが全滅しただけである。スパムアカウントを交えた偽りの数字でも、無いよりはマシ。そんなスタンスだったモリゾーの真のフォロワー数が暴かれただけだった。際どい発言の多いモリゾーの投稿はそれらを呼び寄せやすかったのである。性器の名前を直接的に出すこともままあり、精液やアナルなど、関連する卑猥なワードも多かった。
モリゾーのフォロワー一覧の中で、田町という名前が井上の目を引いた。トバル・ファイトの界隈に身を置いているものなら誰でも知っている、大御所の小説書きである。二次創作の界隈において、文章でのファン作品はSSと呼ばれることが多い。クリックして田町のページに飛んでみると、田町は発狂していた。
――返してほしい。あのSS達はただの落書きではない。大切な作品だ。
――極めて論理的じゃない。フィクションを交えたものを嘘と断じて削除するという暴挙に出るなら、この世に存在するファンタジーやSF小説はどうなる。何故それらは無事で、我々の作品だけがこのような目に遭わなければならない
――RT 拡散希望。署名にご協力願います。
モリゾーと比べると口調そのものは穏やかだが、彼女の投稿と同じかそれ以上に、田町の投稿は怒りを湛えていた。自分の知らない事情が他にもある。ラセツはそれを確信しながら、田町が拡散に協力している投稿をクリックした。
ネット署名のサイトであった。概要には、業界最大手の投稿サイトの名前が書かれている。絵や小説を投稿できるところで、特に二次創作をしていてそのサイトを利用したことが無い者は居ないだろうと断言できるほど、巨大なサイトである。署名は、そこの作品を取り戻したいという内容である。勝手に作品を削除された人間の呪詛が、署名の横に書き連ねられていた。
投稿サイトの作品が何故。その疑問を解消すべくブックマークに入っていたサイトにアクセスしたラセツは、ページが表示された瞬間にその意味を理解した。その大手投稿サイトは、創作SNSを謳っていたのである。
「あぁー……誰もSNSだなんて思ってないと思うけど。そういうことか」
経験したことがない妄想については嘘として認識され、容赦なく抹消されたのであろう。事態を把握したラセツだったが、軽率に「自分でサイト作ってそこに上げなよ」とは言えなかった。このサイトで評価を伸ばすことが多くの書き手のモチベーションになっていることを知っているからである。返せという田町の主張については理解できないが、ここじゃなきゃ駄目だと縋る理由については理解できる。
ラセツは、田町のアイコンの横に表示されたフォローボタンを軽率にクリックしたことを、少しだけ後悔した。田町は二次創作界隈では有名な物書きで、ラセツの立場から見ても繋がっていたい人物ではある。しかし、署名活動に参加するよう促されたときのことを思うと億劫だった。
ネット上にはこのようにデジタルの署名活動が多く存在するが、ラセツはそれに参加したことがない。したいと思ったことも、しなければならないと思ったこともなかった。インターネットはあくまで自分が心地よく過ごせる居場所であり、決して主義主張を声高に宣言する場所ではなかったのである。当然、それらを脅かされている者が声を上げていることくらいはラセツにも分かる。しかし、自分に関係の無い署名をする暇があるなら、バズりそうなフレーズや会話を考えていたい。後者の方が、彼女にとってはよっぽど大事だった。
今さら田町のフォローを取り消したところで、アプリの通知をオンにしていれば取り消した事実だけが残って余計に気まずい。とりあえず放っておこうと、ラセツが自らのユーザーページに戻ると、いくつかのアカウントから声を掛けられていた。その多くは突然姿を消したラセツを心配するもので、中にはしゃけの名前もある。
大切なのは、これらの声掛けは個人的に送れるメッセージと違い、見ようと思えば誰でも見れるものだということだ。両者をフォローしている人間には自動的に表示されるものでもある。傍目に見れば、人気者のラセツさんが戻ってきて、早速色んな人に声を掛けられている、ということが見えるようになっているのだ。
ラセツは、届いたメッセージを眺めて、返信すべき順番を考える。炎上も再始動も、SNSでは初動が大事、というのは彼女の持論である。鼻が効くようになったせいか、この程度のことは一瞬で分別がつく。たった数秒の選定の結果、ラセツはしゃけからの言葉が最も重要だと考えた。
わざわざ他人とのやり取りを眺めたがる者などいないかもしれないが、しゃけとラセツはただの他人ではない。中堅の字書きと、界隈随一のノリのいいインフルエンサーのやりとりである。二人をフォローしていればやり取りは自動的にタイムラインに現れるし、そんな人間は少なくない。ラセツは、アカウントを取り戻したと発言してまだ十五分ほどで、すでに百近いフォロワーを取り戻していた。
あまりにも図々しい自己評価だが、ラセツの読みはあながち間違ってはいない。いや、曲がりなりにもそれらの分析が上手いから、彼女はある程度狙って投稿をバズらせることができたのだろう。そんな彼女ですら、下手を打たないようにしなければならない、と緊張していた。ラセツにとって、失敗の出来ないやり取りが始まった。
――ラセツさん、どこ行ってたの? 心配したんだよ
――心配かけてごめん。色々あって、アカウントを作り直したんだ。もう大丈夫
――そっかぁ。ラセツさん、フォロワー多かったもんね。詳しくは聞かないけど、トラブルに巻き込まれてたのかな。人気者は辛いね(笑)
しゃけからきた返信を読み終えると、井上は満面の笑みを浮かべて立ち上がった。キャスターの付いた椅子が後ろへと後ずさる勢いである。がしゃんと音が響くが、全く気にしない。
「そうだよ、それだよ、それ。しゃけフィンドールに三億点」
ご機嫌でモニターを指差すと、井上は口の中で、コッと音を鳴らす。しゃけはたった今、ラセツが望んでいることを百パーセントの形で出力してみせたのである。つまりは、ラセツは嘘吐きとしてアカウントを抹消された訳ではなく、一時的にアカウントを削除せざるを得ない状況だったと周囲に思わせるような投稿をした。
井上は、伊達に四桁のフォロワーを率いてきた訳では無い。こういった場合の正解が、がっつかないことだと知っていた。文面からでも「あ、言って欲しいこと言ってもらえたんだろうな」という感情は透けてしまうものである。
――人気、ならいいんだけど。そっちの方はもう片付いたから、これからもよろしくね
「暗になんかあったと仄めかしていくぅ!」
井上はノリノリだった。アカウントを作り直すまでの日々は、井上にとっては地獄だった。毎日垂れ流していた心の糞尿が塞き止められていたのである。しかし、今はその苦痛に満ちた過去すら愛おしく思っていた。その溜めがあったからこそ、しゃけはこうやって話しかけてきてくれたのだろうと、全てを肯定的に捉えている。
滑り出しは好調だった。井上が思っているよりも遥かに理想通りにラセツとして再スタートを切ることができた。安心すると、次に井上を襲ったのは、誰かのメッセージではなく、睡魔である。次の仕事まであと四日もある。それを確認すると、井上は中学生の頃から使っているベッドに潜り込んだ。ちなみに、井上は今年二九で、時刻は十四時である。
井上がラセツとして再スタートをしてから一週間が経った。彼女はこの間、ちゃんと風呂にも入った。一度だけ。
パソコンの前で、椅子の上に胡座をかいて、じっとタイムラインを見つめる。ラセツのフォロワーは、ほとんどが戻っていた。以前繋がっていなかったフォロワーもちらほらと見かけたが、元の数が多いのであまり把握できていない。結局、田町もラセツにフォローを返してくれた。さらに、署名運動に協力してくれという面倒な声掛けは無かった。このことは井上を心底ホッとさせた。
一連の流れから、ラセツは田町のことを見直しつつあった。さすが有名な字書きだけあるというべきか、きっと理解しているのだろうという確信があった。いくら署名を集めようが、万が一それで世論が動こうが、消した犯人が分からないものは帰って来ないのである。各SNSの運営会社は法的処置を取ると発表しているが、肝心の訴える相手が居ないのが現状だった。今やこの騒動は、愚かな人間に嫌気が差した神の仕業かもしれない、などと言われているほどである。
署名について、オタクの動きは二つに分かれた。田町のように行く先を見つめたからこそフェードアウトしていく者と、声高に活動をして署名を集め続ける者がいた。先述の通り、訴える相手がいないというのに、署名活動の主催者はまだ名前を集めようとしていた。その活動について行く者の背中を、田町はついに見送ったのである。少なくとも、ラセツにはそう見えた。
一つの面倒事を避けられたラセツだが、それはそれとして、彼女は二つの事情の間で揺れていた。嘘を禁じられているせいで最近の自分の発言がつまらないということと、それに気付いている者がいるということである。個人的に思われているだけならば、まだいい。もしそれをどこかで発信したり、誰かに共有されたら。気付いていなかった者までもが、ラセツの異変を察知してしまう。常識的に考えれば、ラセツの発言に嘘が含まれていると見抜くことは難しくない。少し気を抜いて客観視すれば、きっと井上もラセツの発言の内容と、妙なトラブルに巻き込まれる頻度の異常さに気付くだろう。嘘が禁止される前、ラセツに二日に一度くらいの頻度で虚言を投稿していた。
——父にヲタ活動がバレ、なんなんだこれは!と怒鳴られて殴られるのを覚悟しましたが、続けて「カケシグなんて読むやつがあるか!シグカケだろう!」と言われたのがこちらのアカウントになります
——急いでいる時にセールスがあまりにもしつこかったから、「私の分給三万円になりますがそれでも足止めしますか?一秒五百円になります」と言って追い払ったときの話する?
——電車に乗ってるんだけど、眼の前にいるショタ系DKがいきなり「ここでいいや」って連れの大柄なDKの膝の上に座って、大柄DKは驚いた表情を見せたあと、顔を赤らめて黙ってしまった。二人の隣に座ってるお姉さんと目が合って、見えないようにこっそりサムズアップした。現場からは以上です
井上はパソコンを覗き込み、ラセツが最高に輝いていた頃の過去の投稿を見つめている。伸びた投稿はスクリーンショットで画像保存し、いつでも見返せるようにしてあった。自分の発言がよほど好きでなければできない芸当である。井上はかなり特殊な事情で、自分の投稿を一言一句確認できる環境にあったのだ。
ちなみにこれらは全てが嘘である。まともな人間でも電車に乗っている最中に魔が差して「目の前に座っている男子高生二人を見て、BLの妄想の下地にして投稿しよう」くらいは考えておかしくないかもしれないが、井上はもっとタフで、家を出たところから嘘である。
こんなことを週に数回のペースで投稿してたのである。世界が変わってから、当たり障りの無いことしか言わなくなったラセツを見て、これまでの投稿を嘘だったと確信する者が増えるのも無理はない。「前に言ってたDKカップル、続報は無いのですか!?」等という無茶振りに対しても、以前は好きに続きを創作した。「実は……」なんて切り出しで設定を後付けしながらつらつらと話した。自分が事情を知り過ぎてるのもリアリティが無いと判断し、あえて多くを語らないこともあったが、大勢がラセツの言葉に納得し、それを信じようとしていた。しかし、最近は歯切れの悪い言葉しか返せない。どうにも上手い言い方を見つけられないときは、投稿そのものができないので無視する形になってしまったこともある。
重ねて言うが、ラセツは真剣だった。だからこそ、ある手法を思い付いてしまった。
「やってみる価値はある、か」
空が高い日だった。井上がこの日関わる最も高いものといえば天井なので、空の高さなど彼女の知ったことではないが、とにかくそういう日だった。
井上が目を付けたのは、SNSと連動してライブ配信が行えるツールである。SNS上では嘘の発言は取り締まられてしまった。しかし、彼女は確認済みだった。匿名の掲示板では、これまで通り嘘がつけることを。嘘の制限はあくまでSNSに限られたものであると探り当てていたのである。匿名掲示板同様、ライブ配信サービスはノーマークであることが予測される。
そうして昨日、久々のバイトの帰り道、井上はコンビニでイヤホンマイクを購入した。買った時に、後悔は微塵も無かった。早くラセツとして、元のキャラクターとして振る舞えるように戻らなければならない。井上の中にあったのはそんな使命感だった。別に果たされなくても困る人間は彼女以外いないのだが。
耳にはイヤホンマイク。パソコンの画面には配信サイトと、宣伝用投稿を記載したSNSの画面がある。父は仕事で、母もパートで夕方まで帰ってこない。平日の昼間、初配信のタイミングとしてはちょうど良かった。多くの人が見に来れない環境で、テストできるのだから。
準備を整えて、井上は投稿ボタンを押す。
——配信やってみたいと思いながら帰宅したらイヤホンマイク買ってて草。今日はこれからフリーなので、今からやってみます
思い付きで、本当に突発的に、お遊びでやってみることにした。井上が何日も悩んで、どうすれば自分の過去の立場を取り戻すことができるか苦慮した文面には見えないだろう。とはいえ、あまり予防線を張ると嘘認定されて投稿できなくなるので、これくらいで留めておくのが良い。
機器の接続を再度確認し、配信ボタンを押す前にSNSを見ると、既にいいねが三つついていた。軽くプロフィールを見に行くと、三人中二人は大学生のようで、おそらくは見に来る時間のある人物だと判断する。
配信を始めても、誰も来ないのであれば意味が無い。最低限の客は確保できそうだと睨むと、ラセツはいよいよ配信のボタンを押した。ボタンを押すと同時に、左下に秒数がカウントされていく。最大九十九時間九十九分五十九秒まで表示できるようになっており、これがそのまま配信時間になることは直感的に理解できた。つまり、ラセツの配信は始まってから既に数秒経っているのだ。
「あ、あー。もしもし。聞こえてますか」
配信画面、右上の数字が2から4になる。と思ったら3に減る。現在配信を聞いている数がリアルタイムで分かるようになっており、井上もすぐにその数字の意味に気付いた。
「って、電話じゃないのに、もしもしっておかしいね」
数字が3から5になるのを確認して、井上は苦笑してみせた。今日は試しに、長くても三十分。ラセツはそう考えていた。一度の配信時間の制限が三十分なのでそれを目安にしたが、それ以下で手短かに終わらせるつもりである。素人が三十分も一人で喋るなど、よほどの素質が無いと難しい。人と接することが苦手な井上はそう考えていた。
「こんな真っ昼間に来てくれてありがとう。あと、メッセージにも反応できないことが多くてごめん。って、反応できなかったメッセージをくれた人がいないと、意味ないかな」
事前に用意したメモに視線を落とす。話すことが苦手、それは会話が苦手という意味ではなく、いや、それももちろんあるが、井上は声を発するところから苦手に思っているのである。どうせ言葉に詰まるからと見越して、話すことを事前にメモしていたのだ。返事ができなくてごめんというのも、井上がメモした中に書かれている内容である。使用した言葉は、分からなくならないように上から斜線を引いて、二度読み上げないようにする。
今日のラセツの目的は、SNSでできない言い訳を声に乗せて伝えることである。これから井上は嘘をつく。嘘がどうなるのか分からないが、これが発信されなかったとしても、初配信故の機材トラブルということにして誤摩化せるだろうと踏んでいる。
「アカウント消しちゃったのは、その、周りの人が消えてっちゃって。それで、あのときは私、何が起こってるのか分からなくて。もしかして、トバファイの二次創作関係でなんかあった!? とかさ。とりあえず垢消しして、逃げたんだよね」
尤もらしいことを言って、ラセツは一息つく。右上の数字は7と8の間を行ったり来たりしていた。ラセツのフォロワーは七百人ほどなので、時間帯さえ合えばもう少し集客が見込めるかもしれない。
しかしそんなことよりも、今の発言がどう聞こえてたかである。自分の意思でアカウントを消したという明らかな嘘をついて見せたが、リスナーに正しく届いているのか。配信を終了して自分で聞き直すしかないという可能性は最初から考慮していたので、ラセツは気持ちを切り替えて続きを話そうとした。
——流石ラセツさん、逃げ足が早い(笑)
初めてのコメントがつく。しかもそれは、嘘を真に受けた好意的なものであった。彼女は時を得たことを瞬時に理解する。ただメモを読み上げようとしていた言葉が、まるで自分の中から紡がれているように出た。
「はは、逃げ足っていうか。まぁそうだね……で、ほとぼりが冷めたら戻ってこようと思ったんだけど、ほら、そういう事情じゃなかったんだって後から分かって。仲良くしてた人が怒ってたり、アカウントごと居なくなっちゃった人も結構いてさ。それに、元あったアカウントも、一部だけど厄介な人が増えてたし。なんていうか、一旦新しくしよっか! ということで新しいアカウントにしました」
そう言い切ると、また手元のメモに斜線を引く。これはラセツとして、必ず伝えたかったこと。むしろ、これさえ伝えてしまえば後は適当に配信を切っていいとさえ考えていた。手元を見て事前に用意した言葉を読み上げていた井上だったが、顔を上げた直後、変な声が出た。
「へっ!? 23人!?」
少し前まで一桁だった視聴者は倍以上に膨れ上がっている。見ると、少し前に「めっちゃイケボで草」と書かれていた。イケボ、意味は知っている。自分だってこれまでに他人に何度も遣ってきた言葉である。イケメンボイス、要はかっこいい声ということ。井上は、何も考えられなかった。多くの人が聞きに来てくれたことも、自分の声の客観的な評価についても。
「今日は本当に思い付きだったんだけど、来てくれてありがとう。また今度配信するかも?」
最後の意味深な一言は、舞い上がってしまった井上の自我である。己のどこかを褒められたことがほとんどない彼女は、声を褒めてくれたことに報いようと、なんとなしに期待させるような発言をしてしまったのである。
配信終了のボタンを押すと、ラセツは大きなため息をついた。配信終了時の人数は26人である。何が起こったのかをもう一度確認するため、ラセツはSNSで自分の配信についての投稿を探す。コメントをした者は、配信サイトとSNSとで連携しており、配信サイトへのコメントが、そのままSNSの投稿にもなっていた。つまり、このアカウントの人物は、すごいイケボがいるぞと、フォロワーにアピールしているのも同然である。フォロワー数は三桁後半。仲間内でおすすめのコンテンツを教え合うだけと考えると十分な拡散力を持っていると言えるだろう。
井上も、心の隅では分かっていた。こんな真似をしたとて、きっとまともな人間は自分のアカウントが消えた時点で何があったのか察したのだろう、と。それでも唯一の居場所のため、足掻かざるを得なかった。わざわざ配信という、嘘の制約がないフィールドに飛び込んでまで自分の居場所を確保しようとして、そのための言い訳をべらべらと並べ立てながら、見えないふりをしていた可能性について気付いてしまったのである。だから、ラセツとしての大きな活動は終了、するはずだった。しかし、失った瞬間手に入れてしまったのである、新たな可能性を。
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