リンとミハルの場合 後編
六時間目、現国。リンは教科書に掲載された短編を読み、「この話結構好きかも」などと感じながら、頭の片隅でSNSのことを考えていた。鉢山とミハルをどうにかして邂逅させる必要がある。呼び出しを食らった当日はそのように考えていたリンだが、それには手間と精神的な疲労を伴う。どちらも思い込みが激しいタイプのように見受けられたので、気が進まなかった。
レオのアカウントから鉢山らしき人物を探ろうにも、レオのフォロワーが多すぎる為、不発に終わっていた。レオの中学を特定するときに見たさやかという女とレオの共通のフォロワーを見れば、とも考えたが、自分がそこまで手間をかける理由が見当たらない。
チャイムが鳴り、教員が声を掛けると日直が号令をかける。周りに合わせて立ち、終業の挨拶をし、しかしリンは座らなかった。立ったまま、窓の外を見つめる。何もかもが面倒になった彼女は、何故かこの瞬間、変わるべきは自分だと気付いたのである。休み時間の喧噪が耳の奥でぼんやりと響いていた。
SNSを見ると、そこには相も変わらず、温い絡み方をするミハルがいた。レオに対してだけではない。主にSNS上の人気者に対して、万遍なくそのように接している。その一方で、裏と呼べるか分からない例のアカウントで「死ねよ」と投稿していた。
帰りのホームルームが終わり、リンはミハルを待った。来ない日もあったが、今日なら来ると確信している。理由は明白だ。何気ないミハルの問い掛けに、レオが応じなかったからである。リンは、自分をミハルの痰壺のように感じることが増えてきた。愚痴を言いたい時だけ寄ってきて、吐き出し終わるとその場を去る。最近は特に、会う度にそんな日が続いていた。
悲しいことに、その認識はさほど間違っていない。どちらかが変わらなければ、そんな日常はいつまでも続く。少なくともこの学校を卒業するまでは。だからリンは抗うことにした。気が遠くなるほど下らないこの営みを止める為に、本音で話そうと思えたのだ。
リンが待ち構えているとも知らず、ミハルはのこのことやってきた。不機嫌さを隠そうともせず、今日もリンにそれらを吐き出すためにやってきたのである。予想が当たった訳だが、リンは微塵も嬉しさを感じなかった。
ずっと、リンはこうしてミハルに裏切られ続けている。もし今日ミハルがのこのこのと姿を見せなければ、リンは予想が外れてしまったことについて考え、ミハルにとって自分の価値がまた変わった可能性があると考えを改めたかもしれない。自分の前にミハルが姿を見せた瞬間、リンは本当に彼女とのこれからについて考える必要が無いのだと理解してしまったのだ。
ミハルはいつだって浅はかで狡猾で、素直に人を嘲る。機械のようなルーティンは大変予測がしやすい。次に何を言うか完璧に予想できてしまう人といて楽しいか、リンは自分にそう問いながら、ミハルをじっと見る。彼女は挨拶も早々に用件を口にした。今さら妙な前置きをされてもまどろっこしく感じるだけなので、この点についてリンは何とも思っていない。
「なんかさー知らない人らに絡まれてて」
「そうなんだ」
ミハルの愚痴の内容がレオに相手にされていないことだと思っていたリンは、少しだけ目を見開く。絡まれるとは穏やかでない。直接的なトラブルを訴えるミハルの声色は普段の愚痴を言う時のものと遜色なかった。
どんな人達なの? そう質問されるつもりだったミハルは、少しリンの言葉を待った。しかし、彼女は何も返さない。目の前で自分の言葉を待つ女を放置して、リンはスマホを取り出し例の悪口アカウントを見に行った。数秒だが、あきらかに妙な間が生まれた。リンが沈黙に怯えることはない。彼女はミハルに心底軽蔑していた。
レオに素っ気なくされた仕返しに、何かまた悪口を投稿して、それをレオの友人などに咎められたのではと睨んだのだが、全てがその通りだった。しかし、このアカウントについて、リンは知らないことになっている。ミハルがどのように愚痴の続きを告げてくるのか興味が湧いたリンは、スマホへと落としていた視線をやっと上げた。それを合図に、彼女はまんまと語り出す。
「ちょっと色々あって意見押し付けられてるっていうか」
「へぇ」
あくまでもう一つのアカウントについて打ち明けるつもりは無いようだ。当然だろうと、リンは冷静に分析した。痰壺である自分にすら言えない過激な愚痴が溜まったから、ミハルは新たに居場所を作ったのだ、と。口外する選択肢が存在しないことは痛いほどに理解できた。リンだってもう一つのアカウントの存在をミハルに告げるつもりは無いのだから。
自分にまるで非が無いかのように告げられたそれは、鼻で笑いたくなるほどの強度でリンの前に立ちはだかった。意見というのは「差別的な発言をやめろ」というもので、何故そんなことを言われる事になったかと言うと、レオが共有した同性婚賛成のウェブ署名に対して「気色悪い」と言ったからである。つまり全てミハルの自業自得であり、リンですらミハルの発言に嫌悪感を覚えていた。
「意見の押し付けって何?」
「普通の結婚より同性婚のが優れてるって言われてさー」
あまりの下らなさに、リンは危うく吹き出しそうになるのを堪えた。そんな意見を押し付けてくる人間が居たとしたら、ミハルの愚痴は尤もなものだろう。しかし、リンが見た限りそのような意見は飛んできていないし、万が一何処かから送られてきたとしても、やはりきっかけを作ったミハルが被害者であるとは考えられない。
ミハルが発言したことを、リンはやっと受け入れ始めた。リンという存在は、ミハルにとって「ミハルは悪くないよ」と告げるための装置なのだ。それがたった今、ハッキリとした。もし違うというのであれば、意見を言われるきっかけになったことも、意見の内容も、嘘偽りなく告げるだろう。本当に自分が間違っていないと確信して味方をしてもらうには、それしかないのだから。しかしミハルはその両方を怠った。「理由も理屈もどうでもいいから慰めろ」、という傲慢な思いがダイレクトに伝わる。
リンには、ミハルの行為が「ミハルは悪くないよ」と録音した音声データを自分で流すのと、何が違うのか分からない。手順や気持ちを無視して欲しい言葉を引き出そうする行為は、彼女にとってとても浅ましいものだった。
「私はそこまでは言わないけどさ。多様性を認めさせたいなら、例えばキモいと思うのも自由じゃないとおかしくない?」
「思うだけなら自由だよ」
「……何が言いたいの?」
語気が強くなった。ミハルの目に、強さが宿る。敵を見定めようとするときの鋭い視線である。ムッとしているミハルとは対照的に、リンは落ち着いた様子でスマホを何度か指先で叩いた。スマホの録音アプリを起動したのだが、ミハルに告げられることはなかった。
「レオに相手にされないからって、悪口用のアカウントまで作ってるの、最高に惨めだと思うよ」
「……は?」
「ミハルがしてるのってこういうことだよ。思ってることを全部言うのは駄目だって分かった?」
リンは淡々と言葉を紡いでいるが、頭の中は振り切れていた。信じられないものを見るような視線を目の当たりにしても動じる気配すらない。何かを言い返さなければならない、ミハルはそう感じているようだが、リンの発言とは思えない言葉と、告げられた内容に上手く二の句が継げなかった。
動揺しているミハルをよそに、リンは後戻りできないことを察してゆっくりと天を仰ぐ。教室の天井は無機質で、気分を変えてくれるようなものは何も無い。
「ミハルには感謝してるよ」
「何、急に」
「もう一つのアカウントで言ってること、本心なの?」
対話をするつもりは、既に無かった。ただ確認したいことだけを訊く。そんな言い方にミハルも緊張感を増していく。アカウントの存在がリンに知られていることに驚くことも忘れて、ただ目の前の問いについてどのように回答すべきか逡巡する。しかし時間切れだった。リンは呆れた表情を見せると、自分の考えを述べる。
「私には、自分を拒絶した人が守ろうとしているものを壊そうとする、仕返しみたいに見える」
「は? ウザくない? 大丈夫そ?」
「ウザいのはそっちでしょ。高校生にもなって、子供の癇癪みたいな真似するのやめなよ」
間髪入れずに反論されたミハルは言葉を失った。これまで聞き役に徹し、必要とあらば振り回してきた女の反撃である。足下がぐらつくような衝撃すらあった。それでも、リンにはミハルを傷付けるつもりは無い。ただ事実を述べているだけ、そのスタンスが逆にミハルを追い詰めていく。
このまま続ければミハルの行いを止めることもできたかもしれないが、そこまでする義理もないと考える。他に伝えたいことも無かったリンは、おもむろにスマホを手に取ると、アプリを開いた。そうしてこれまでリンのタイムラインで最もうるさかった女、ミハルをブロックしたのである。
「やけにチョーシ乗ってるけど、ネットで友達でも見つけた?」
「それもそっち。性的少数派を馬鹿にして晒し上げてる素敵な友達ができたみたいだね。あぁ、お仲間って言った方がいい? 人って自分が気にしてることを悪口にするって本当なのかもね」
煽るような言葉にもリンは動じない。こんな人間に言いたいことも言えずにいた過去の自分を恥じるのみである。
「……あ、あんなん向こうが言ってきてるだけで、リンだって知ってるじゃん。最初、わたしはレオがそうだと思っても否定したりしなかった。それは見てたよね?」
「私に弁明なんてしなくていいよ。別に聞きたくないし」
リンは筆箱などを鞄に収めると、ゆっくりと立ち上がった。二人が話している間に、教室に残っていた生徒の多くがいなくなっている。
「明確な意見があって否定する人よりタチが悪いよね。ファッション感覚で他人を否定する人って。レオさんは言ってたよね、別のアクセ探せって。で、ミハルは言われた通り、批判する側に回った。自分の意見を付け替えたよね、アクセみたいに」
自分だったら、いくら当人に思うところがあったとしても、関わる人全てを否定するような真似は出来ない。全ては身から出た錆、リンはそう考えている。会話を強制的に中断させるように、彼女は椅子を机の下に押し込む。
「ミハルのこと、もっと賢い人だと思ってたよ。じゃ」
そうして呆然とするミハルを残して数歩進んだところで、リンはスマホの画面を見せながら振り返った。
「あとこれ録音してるから。もう私に関わらないで」
ミハルとリンの目は合わない。最後に目を合わせたのはいつのことだったろうとぼんやり考えながら、今度こそリンは教室を後にした。彼女には、まだやることがある。
リンの足は昇降口ではなく、職員室に向かっていた。三年の授業を担当していそうな適当な教員を捕まえると、鉢山の名前を出す。珍しい苗字のお陰か、三年二組に所属しているらしいことが分かるまで、職員室に入ってから三分と掛からなかった。
翌日、午前中の授業が終わると、リンはすぐに三年二組の教室へと向かう。入口に屯している男子達に「お前の彼女?」「ちげーよ」などと冷やかされたが、鉢山の名前を出すと彼らは口を噤んだ。
廊下側の後ろの席で、鉢山は一人、静かに昼食を摂っていた。心なしか表情も暗い。後輩のリンは三年の事情に全く詳しくないが、その様子を一目見てすぐに、鉢山がクラスで浮いていることが分かった。楽し気な昼休みの喧噪とは、たった一人無関係に見える。ミハルと縁を切ったリンも似た様なものだが、クラスメートと会話することに苦労はしていないので、鉢山の孤独は自分には推し量れないと感じる。
彼女の前に立つと、リンは自分のスマホを彼女の机の上に置いた。そこで初めて、鉢山はリンの存在に気付いて顔を上げる。リンが訪れたことへの驚きというよりも、自分なんかに用事がある者がいることに驚いているような顔だった。
「な、に……?」
「これ。聞いて下さい。必要ならイヤホンも貸しますけど」
「え、何よ。急に」
動揺する鉢山に対し、リンはそれ以上言葉を発さず、スマホの上にイヤホンを置く。カツンと小さな音を立てたそれを鉢山は凝視したが、少し経つと観念したようにイヤホンを手に取った。
不思議そうな顔をしながら耳にイヤホンを装着するのを見届けると、リンは昨日の音声を再生する。会話が録れていることは、自宅に帰ってから確認済である。衣擦れの音が混じることはあったが、全体を通して判別可能であると判断したのだ。聞こえなかったとは言わせない。
全て聞き終えると、鉢山はイヤホンを外して、「本当にごめんなさい」という声を絞り出した。頭を下げると、彼女のつむじまでが申し訳なさそうにしているように見えた。
鉢山は、リンが濡れ衣を着せられたことを怒っていると考えたのだ。何も突飛な発想ではないが、リンが言いたいこととはかけ離れている。
「別に。謝って欲しいわけじゃないので。ただ、ミハルが改心しない限り、あのアカウントは止まりません」
「それは、うん。分かった……でも、良かったの?」
「何がですか?」
「仲良しだったのに、その」
「別にいいですよ。ところで先輩っていじめられてるんですか?」
「ちょっ、大きい声で何、は?」
あっけらかんと問い掛けたリンの言葉を聞いて、周囲に居合わせた者の空気が凍った。立ったまま辺りを俯瞰していたリンにもその変化は伝わったが、彼女が止まることはなかった。
「すみません、なんかいじめられてるっぽかったので」
「そっんなこと、違う。ちょっと靴や筆箱を隠されたりするだけ、イタズラよ」
「どこに隠されるんですか?」
「ゴミ箱とか……」
「いじめられてますよね」
クラスメートの手前か、鉢山はいじめられていることを必死に否定するが、客観的事実を見るとそうとしか思えない仕打ちを受けていた。とはいえ、まだレオに繋がる理由は見えてこない。聞こうか聞くまいか迷ったリンだが、彼女が言葉を発するよりも先に、鉢山が声を潜めて言った。
「あの、事情は分かったから、後でこっちから連絡していい?」
「……なるほど、はい。それでは」
連絡先を伝えていないはず、そう考えたリンだが、恐らくはSNSを通じてということだろうと解釈して、その場を離れることにした。了承したものの、鉢山と話すことなどリンにはもう無い。誤解を解いて、その後のことは本人に委ねるつもりだった。制裁を加えようが、無視をしようが、鉢山の自由であるべきだ。どちらの行動にもメリットとデメリットがある。天秤にかけてどちらが傾くか、自分が思案すべきことではないと考えていた。
リンがミハルと決別してから数日。穏やかな日々が続いた。たまに話をする程度の学友の数人は、リンとミハルのフォロー関係が切れていることに気付いたようだった。しかし、最近の言動が目に余ると思われていたのか、表出ってミハルを心配する者はいなかった。
一方で、リンにはクラスメートから個別メッセージが二通届いた。どちらもミハルとのことを詮索するような内容だったが、リンは多くを語らなかった。ただ合わないと思ったから離れた、そう告げるに留まっている。今後も詳細を話すことはないだろう。彼女には分かっていたのだ、返信の仕方を間違えると、ミハルが反LGBTの思想を持つ輩に取り込まれたように、自分も不要な悪口に付き合わされることになる、と。ミハルは目立つ反面、大人しい女子達からは元々嫌われていた。
一人でも別にいいと開き直ってから、リンは視界が拓けたような気持ちで過ごしていた。孤立していることが恥ずかしいという考えはまだあるが、苦しい思いをしてまで他人とつるむ必要は無いと思えるようになっていた。
数学の授業は終盤で、本日のおさらいとして小テストが配られていた。一足先に答案を埋めたリンは、筆箱に差し込んでいたスマホをちらりと見る。すると、彼女を現実に引き戻すように、スマホのアプリが通知を吐いていた。
担当教員は教壇の上に資料を広げて手を動かしている。おそらくは他のクラスの採点だろう。あと五分でチャイムが鳴るという状況で、教師がリンに注目し、さらにスマホを触っていることを咎める可能性はゼロに等しかった。
そろりと手を伸ばして内容を確認すると、個別メッセージの通知だった。また第三者の詮索かとうんざりしかけたが、差し出し人を見たリンは一瞬固まった。全く心当たりのない人物からのメッセージだったのである。アイコンは猫の写真で、不遜な表情の猫を飾り付けるように虹色のマークが端に設置されている。このところ、似た様なアカウントを見て来たリンはすぐにピンときた。LGBTに関わる者だろうと。
――鉢山よ。ミハル、「リンの言うことが正しい」なんて投稿してたわ。改心しているかは微妙だけど、それから目に見えて悪口ばかり投稿していたアカウントもトーンダウンしたし、しばらくは様子を見ることにする
まさか鉢山がアカウント名を「ミクちゃん」にするようなセンスの持ち主だとは思わなかったが、とにかく事情は理解できた。ブロックしているリンからミハルの動向は追えないだろうと気を配ってくれたのかもしれないが、ミハルの改心を知っても、リンは特段嬉しいとは感じなかった。自分の正しさを証明するためにミハルと決別したのではないのだから、当然である。言われて気付けるならどうして自分で気付いてくれなかったんだという落胆が、リンの胸の中にひっそりと広がった。
――あのときは本当にごめんなさい。わたし、どうかしてた。このアカウントを見てもらえば分かると思うんだけど、まぁそういうことだから。レオとは何の関わりも無いけど、例の炎上騒ぎでレオのことを知って、「同じ学校にも、わたし達のために声を上げてくれる人がいる」って思えて、すごく勇気付けられたの。要はただのファンね。いや、ファンと公言すらしていないから、もっと気持ち悪い何かかも。言い訳になるけど、ミハルの悪口でレオがもう声を上げてくれなくなったらって思うと、怖かった
これだけの長文を送るということは、彼女のクラスは教員不在で自習にでもなっているのだろうか。リンの頭にそんな考えが過るほどに、鉢山のメッセージは長く、感情が乗っていた。
——事情は分かりました。ご連絡ありがとうございます。
素っ気ない返事をした直後、授業終了のチャイムが鳴った。鉢山からの返信は無い。これで会話が終了したということだろう。ホームルームが始まるまでの時間で帰り支度を整えると、窓の外を見る。快晴だった。ミハルと一緒にレオを探しに行った日も、こんな日だったと思い出す。
それから、放課後になると、リンはすぐに教室を出た。もう、ミハルが来るかもしれないと待つ必要は無いのだ。これまで、なんとなく教室に残っている日もあると思い込んでいたリンだが、実は違った。ミハルが自分に用事がありそうな日は、無意識に待っていたのだと、こうして縁が切れてから気付かされた。
靴を履き替えて校舎から出る。その姿は颯爽と家を目指そうとしていたが、意外な人物によって呼び止められた。名前は呼ばれない。よっ、と声を掛けられただけである。しかし、肩を叩きながらだったので、呼び止められたのは間違えようがなかった。
振り返ると、そこにはレオが居た。二人は往来の邪魔にならないよう、校門の隣に立つ。
「最近ミハルといなくない?」
「色々あって、ね」
「あぁ。あたしの悪口とか?」
レオはリンの肩にがっしりと腕を回して笑う。本人があのアカウントの存在を知っており、さらに持ち主をミハルだと推察していることについて、リンはさほど意外に思わなかった。
「……そうだね。愛想が尽きた」
「わ、否定しないんだ」
「私がレオなら、あの攻撃的なアカウントがミハルだって気付くよ」
「おもろ」
「分かりやす過ぎるでしょあんなの。レオは、なんで指摘しなかったの?」
肩を組まれてもリンは動じなかったが、質問を投げ掛けられたレオは違う。少し前に会ったときと比べて、明らかにリンの纏うオーラが違っていることに気付いたのだ。表情が、具体的に言うとレオを見る目が前回とは別人のようだった。初対面のときは気付かなかったレオだが、リンという女は存外目付きが鋭い。彼女は化粧でカバーする必要がないように見えるその綺麗な瞳を、ひっそりと羨みながら笑った。
「指摘? 本人に? 言っていいの?」
「いいと思うよ。あの悪口アカウントに向けて「ミハル、お前よく飽きないな」って言ったら? 本人はバレてないつもりだろうから驚くと思うよ」
「あはは! それ傑作だな!」
けらけらと声をあげるレオは、やはりどこか目立っていて人目を引いているように思う。少なくとも、絡まれて共に歩いているリンはそう感じた。このまま帰路に着いてもいいが、レオが目指すはずのバス停はリンの家と違う道になる。リンは校門に凭れかかって、ちらりとレオを見た。
「マジ面白いって、でも……やめとく」
「そう?」
「あんたがあたしに告げ口したって思われそうじゃん。そういうのは面白くない」
レオの言うことは至極真っ当だった。SNS上の言動を見るに、少し攻撃的過ぎるきらいがあるが、全体的な考え方や主義主張はミハルよりもよっぽど一貫していて分かりやすい。炎上した中でも、自分はLGBTの理解者、所謂アライであり続けるとツイートして見せた時は、さすがのリンも痺れたものである。
「ずっと言わせておいていいの?」
「好きにすればいい。むしろ、高校生活という貴重な時間をどれだけ人様の悪口に費やせるか、見物だな。あいつから時間という金で買えないものを奪ってると思うと誇らしいよ」
強がりではなく、レオは本当にそう思っている。それがリンには分かった。敵も多いが味方も多い彼女のことである。その気になれば悪口を言っているアカウントを吊るし上げるくらい雑作もないはずだ。しかし、何らかの事情で実行しない。そのしっくりと来る真相を、リンはようやく手に入れた。
「いい性格してるね」
「そりゃそうだ。あたしは別に聖人じゃない。パレードに参加したのだってゲイの友達のため。世界中の人のことを平等に愛してるわけじゃない」
レオの言葉を聞いて、リンは記憶を辿る。LGBTといえど、レオがSNS上で主に関わっているのはレズビアンとバイセクシャルの女性がほとんどだったはず。ミハルを経由していたとはいえ、一度でもゲイの話題を見かけただろうか。リンは少し考える素振りを見せた。それを見たレオはすぐに付け加える。ゲイの友人のことは、SNSでは一度も言っていない、と。
「あたしが女好きだって思われるのは、実害が無ければ別にどうでもいいし。でも、ほら。男性同性愛者の方が、何かと風当たりが強いっていうかさ」
「あー……うん。分かる。そんな風潮あるよね」
リンはこれまでに見てきた様々なシーン、シチュエーションを思い出す。テレビに出して堂々と馬鹿にしていいものとして扱われてきた昭和の過去などを考えると、庇いたくなる気持ちは理解できた。
あいつに火の粉がかかるのは嫌なんだ。レオは噛み締めるように言う。
「仲いいんだね」
「うん。幼馴染だから」
過去に転校を経験し、幼馴染というものを持たないリンは、ただ頷いた。強い絆で結ばれているのだろう。その縁を大事にして欲しいと願うが、大事にしたからこそ今のレオと幼馴染の関係があるのだと気付く。
転校をしても、メールや手紙、電話、SNSで繋がれたはずだ。それをしなかったのはリンである。一瞬でも自分が矢面に立ってでも守りたい親友がいるレオを羨まなかった自分を、リンはこっそりと褒めた。自分にはそんな資格はないのだから。
「えーと、飯でも行く?」
「え、行かないよ。お母さんがご飯作って待ってるし」
「はは! リンさん、面白いな! わかったよ。そんじゃ」
二人で話をしていると、奥の方から声がする。前に立っていたレオの姿を躱すように首を傾げると、そこには鉢山が居た。
「リン。と、レオ、さん」
鉢山の話の通りであれば、鉢山とレオはたった今が初対面で、声を交わす事すら初めてである。本人の居ないところでは呼び捨てにしていた鉢山だが、目の前にするとどうしていいか分からなくなったらしい。取って付けたような「さん」に、リンは少しおかしさを覚えた。
レオは自分の名前を知っている女子を見ると少々目を丸くしたが、結局問うことを止めた。呼び止めてきた三年の先輩が何かを言う様子もないので、それじゃと言い残してターミナルへと向かおうとする。動き出した彼女を見て、鉢山がやや声を張り上げる。待って、という台詞は校門前で小さく響いた。あともう少し大きい声を出していれば、鉢山はこの瞬間のことを家に帰ってから数回悔いることになっていただろう。
振り返ったレオに、鉢山は告げる。リンは、特に言うべきことも無いので、二人の邂逅を見守っていた。
「あの、ありがとう」
「……どういたしまして」
レオは見ず知らずの人間の敵意を受け止めることに慣れていたが、それと同時に謝意を受け取ることにも慣れていた。リンから見たレオは、まさにネットの有名人という振る舞いである。ややネットに特化していると言えなくもないが、あの度量の大きさは年下とは思えない。
レオはそれからターミナルを目指して歩いていった。鉢山はレオの背中をじっと見送っている。何についての感謝なのか、結局伝えることはできなかったが、校門の前で話せるような話題でもない。元より、きっとレオには伝わっただろうと、鉢山は確信しているのだ。
満足げな表情を浮かべる鉢山を見て、リンはいきなりやってきて自己満足していることを呆れていた。リンから鉢山に対する印象はずっと変わっていない。人の印象というものは第一印象から変化していくことが多いだろうが、リンから鉢山へのそれは、終始「はた迷惑な人」で一貫している。
「あの、私もこれで。部活に戻るから」
部活に戻るという言葉を疑うつもりはない。その証拠に、鉢山は今日も上履きで校門前まで出向いている。リンが足元をじっと見ていると、彼女は「ほら、あの教室。あそこで練習してたら、二人の姿が見えたから」と、言い訳をするように行った。室内で練習するということは合唱部や演劇部など、文化系の部活ということになるだろうが、如何せん関心がないのでその話を広げるつもりにはなれなかった。
帰ろうとする鉢山に、リンは問い掛ける。淡々とした質問だが、鉢山にとってはかなりキツい質問でもある。
「部活では、いじめられてないんですか?」
「嫌なこと聞くな……部活は平気」
「そうですか、良かった」
良かったと言うわりには良かったと思っていなさそうな返答だったことが気になる鉢山だが、その関連で一つ聞いて欲しい話を思い付くのであった。
鉢山はリンに妙な縁を感じていた。ちなみにリンの方は彼女に何も感じていない。鉢山から見れば、学友に一切教えていない、自分の本当の姿とも言うべきアカウントで接触した初めての後輩なのである。なんとなく特別に思えて、自分の身の上話をしたくなるのも、仕方のないことだった。
「いじめられないのはいいんだけど……フォローが辛いかな」
「どういうことですか?」
リンは存外素直に聞き返す。それが嬉しくて、ただそれだけのことに鉢山は舌が縺れそうになる。リンが鉢山に気を遣って動くことはないことくらい、本人にも分かっていたのだ。決死の覚悟で悩みを打ち明けても、望んだそれらが与えられる確率は非常に低いと踏んでいた。それでも告げた。どうせ出来たばかりの縁で、自分が行動しなければこれからも発展しないのだからと割り切って。
「私が、同性愛者って言われると、その、「鉢山はそんなんじゃないのに、決めつけていじめるなんて頭おかしい」とか、言ってくれるんだよね」
何部かリンには明かされていないが、とにかく仲のいい学友が居て、その子達は鉢山を守ろうとしている。守るつもりのその言葉で、鉢山を傷付けているのだ。カミソリを薬と思い込んで、それを鉢山に飲ませようとしている。リンはそんなグロテスクさを感じていた。
「それ、結局思想は同じですよね。いじめてる馬鹿共と」
「そう、なんだけど」
「なんですか」
「いえ……リンがこんなにあっさり言いたいこと、分かってくれるって、思ってなくて」
「ミハルの裏アカウントを私だと思ったり、私ってそんなに人相悪いですか?」
そんなことはない。そんな台詞を言わせるつもりだったリンだが、鉢山は気まずそうに視線を逸らすのみで手をわたわたと動かしている。リンはここ最近で一番傷付くのであった。
話を逸らすための話題ではあるが、鉢山にはリンに聞きたいことがあった。言わずもがな、二人を繋いだ厄介者についてである。
「ミハルのこと。どうするの?」
「さぁ。私からはブロックしているので。もう終わりですよ」
「でも、間違いに気付いたって言ってた」
「ミハルが自分の間違いに気付いたからなんですか。私と仲良くしたいと思うかどうかは別ですし、私はもう結構こりごりです」
あまりに冷徹な返答をするリンに、鉢山は何故かミハルの肩を持つような発言をしてしまったことに、自分で驚く。しかしすぐに思い直す。鉢山はミハルの為ではなく、リンの真意が知りたくて反論したのではないか、と。間違いに気付いた元親友を捨てられるほど、目の前にいる肝の据わった後輩は薄情なのか。部活に戻らねばならないことなどすっかり忘れて、鉢山は呟いた。
「リンはどうしたいの?」
「……ミハルの件は、後にしたいですね」
「どういうこと?」
これを後回しにするほど優先すべきものなんて、きっと無い。時期的にテスト等が頭を過った鉢山だが、リンの返答は予想だにしないものだった。
「私は、私を殺さなきゃいけない」
「は?」
「こっちの話です」
多くを語るつもりは無い。声色と表情から、鉢山もそう感じ取っている。惚ける鉢山を見て、リンは笑った。ここ最近で最も自然で、イジワルな笑顔だった。
「っていうか、早く戻らないと。部活でもいじめられますよ?」
「あんた、言っていいことと悪いことがあるでしょ!」
リンは、遊歩道を登って、再び夕陽を眺めていた。アカウントを作ったときのことを思い出すと、自然と足を運んでいた。ここならゆっくりと一人になれると期待したが、その通りとなった。夕陽が綺麗なのはオマケのようなものである。例え雨だったとしても、リンは坂を登っただろう。
以前ここを訪れたときから、色々なことがあった。SNSの世界から嘘が消えて、生まれた軋轢で友達だと思っていた者も消えていった。
リンはスマホカバーに手をかける。端に爪を入れてみても、なかなか外れない。ミハルが選んでくれたものだった。言い方を変えれば、リンにデザインを決める決定権がまるでなかったとも言う。それでも当時のリンは嬉しかった。自分とお揃いで何かを身に付けることを嫌がらず、むしろ率先してくれた事実が宝物のように思えた。ポケットにいつも、ミハルが誂えた自分の分身がいるような心地だった。指先に力を込めると、パキンと音が鳴って、プラスティックのカバーが勢いよく外れた。足元に落ちたそれを拾い上げる。
ミハルはリンを守ってくれた。それも一度や二度ではない。言えないことを言わせて、ときには言いたくないであろうことすら代弁させた。自分はズルい、リンにはその自覚があり、ミハルに感謝する気持ちもある。だからこそ、ミハルがネットいじめのような真似に加担していることが許せなかったのだ。
リンには確信があった。もう昔のようには戻れないことを。リンから見たミハルは高飛車で打算的で媚びることを恥と思わない人間である。一方で、ミハルから見たリンは、細かいことをネチネチと責め立てた挙句、これまで本性を隠していた嘘つき、になる。ミハルとの楽しい思い出を振り返って、胸が痛くなることはあるだろう。それでも決別しなければならないと、リンは考えている。
本当は、スマホカバーなんて捨ててしまえばいいのに。決別が胸にあるのであれば、そうすべきだ。できることなら叩き割ってから、未練の残らないように破棄すべきである。しかし、リンにはできなかった。自販機の近くから平たい石を拾ってきて、ベンチの真下を掘った。できるだけ深く。ただ穴を掘るだけならば、それこそ外したばかりのスマホケースで掘ればいいだろう。しかし、リンは割れる危険性があると思ってしまったのである。
ゴミ箱ではなく、この場所の誰にも見つからないところで。それも壊れた状態ではなく、形を保ったまま、リンはケースを埋葬したかった。視界が滲んで作業がしにくいと感じる。西日のせいかとも考えたが、何のことはない。リンの涙である。正体不明の涙を流しながら、リンは穴を掘った。穴の底面にケースを設置すると、上から優しく土を被せていく。
作業が終わったら石をあったところに戻して、水飲み用の蛇口で手を洗った。爪の間に茶色い土が入り込んでいる。ちょっと洗ったくらいでは取れないだろうと観念して、リンは水を止めた。
ベンチがあった方を向くと、綺麗な夕陽がリンを見守っていた。たまらなくなった彼女はスマホを取り出して、シャッターを切る。頬にはまだ涙の跡が残っていたが、気持ちは晴れやかだった。この出来事をどうしてか世界の誰かと共有したくなって、学校の誰にも教えていないアカウントを起動する。撮ったばかりの画像に、ある言葉を添えて投稿する。
——死体を埋めた。
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