リンとミハルの場合 中編
これから夏を迎えようとしているとは思えない天気だった。真夏になれば今よりも更に日差しが強くなるという当たり前のことに辟易としながら、リンは日陰からバス停を見つめていた。
「天才でしょ?」
「やっぱり探偵になった方がいいよ。そろそろ進路希望調査あるだろうし」
「書こっかなー」
暑さにやられているせいか、リンの声色は冗談とは思えない淡々としたものだった。しかし、リンを駅前のバス停まで引っ張ってきたミハルは、その嫌味とも取れる発言を正面から受け止めて鼻歌を歌っている。
「加茂西ならバス以外無いからね」
「目の付け所はいいと思うけど……一応訊くけど、バス停が間違ってるってことはない?」
「無いよ。調べたら駅前のターミナルを出た後の停留所はかなり遠いし。学校から家に帰ろうとするならここしかない」
「そっか」
今日一日だけ、リンは付き合う覚悟を決める。見つけるまでやると言われた日には、家庭の事情や学校の用事を言い訳に、ミハルの誘いを断るつもりでいた。前の、正確に言えば、数ヶ月前の自分ならいつまで掛かろうと言われるがままだったろうと、リンは冷静に分析する。
幸いなことにバスの本数はかなり少ない。常時目を皿のようにして三番乗り場を見つめる必要はないようだ。まだバスの時間まである為か、ロビーの方にはそれなりの人がいる。ロビーと乗り場の両方をチェックできるように、外の日陰に置かれたベンチに座っていた二人だが、リンは室内で涼みたがっていた。
「時間まであるし、ロビーの方に行かない?」
「えぇ? でも」
「もしロビーで会えたら、バスの時間まで話せるし」
「確かに! 乗り込む時に声掛けられても困るかも!」
リンはミハルを上手く誘導すると、立ち上がる。近くにあったガラス扉を開けて、念願のロビーに戻ると、冷房が二人を出迎えた。リンは、鞄からスポーツドリンクを取り出す。ミハルに「これあげるから、今日はよろしく」と押し付けられたものである。既に温くなっていることを残念に思いながらキャップを回すと、飲もうとしたところでミハルがリンの腕を引いた。
「ねぇ、あの人じゃない!?」
「げぶっ」
「あ、ごめ」
「もー……」
口に付ける直前の飲み口から液体が少し溢れるが、制服は無事だった。味の付いた飲み物で汚すと大抵シミになるので、大変頂けない。リンは自分の胸元を確認してからほっと息をつき、それからやっとミハルを見た。
「ごめんって」
「もう……で、どこの人?」
「あの子だよ!」
彼女の言う生徒が探している人物であるか、リンにとってはかなりどうでも良かった。明日、理由を付けて断ることを考えると見つかるに越したことはないが、リンはレオと直接話をしたいだなんて考えていない。それは昨日から一貫していることで、一日経っても変化の無い事実である。
ミハルの指差す生徒は、ロビーの壁に凭れてスマホを眺めていた。刈り上げているサイドは、二人が想定した通りトップから下ろした髪で完璧に隠れている。当然、さすがに校則に引っ掛かりそうな髪色も今日は黒だ。しかし、背格好と口元が、昨日動画で観た人物であることを物語っていた。化粧が濃かったので顔立ちはあまりヒントにならないのでは、と考えていた二人だったが、実際はかなり面影があった。
「行ってきたら?」
「そうする!」
話に参加しなくていいと言われていたリンは、意気揚々と小走りするミハルの背中を眺めていた。二人の会話に関わるべきでないと思いながらも、心の何処かではミハルの態度を確かめたがっている自分がいる。リンは複雑な気持ちのまま、ゆっくりとミハルの方へと歩いた。
「ね、レオさん?」
「びっ……くりしたー……」
声を掛けられた女子は切れ長な目元をミハルに向けた。少し後ろから見ていたリンは、レオの声が高いことを意外に思う。
「あ、急にごめんね? 私、二年のミハル。SNSで燃えてる動画観てさ」
「あぁ。よく見たら自分の学校の生徒だったから驚いたってクチ?」
「そんなとこ。え、一年生だよね?」
「そうだけど。なに?」
リンはミハルが何を言おうとしているか、すぐに察した。名乗ってきた相手が年上だと分かったら、敬語で話すのは当然だろう。会話に参加したくはないが、険悪な空気の中に身を置きたくもない。リンは口を挟もうと一歩前に出る。しかしリンよりも先にミハルが言った。
「タメ口だから確認しただけ。別にいーんだけどね。敬語とかダルいし?」
「ふぅん」
気にしていない、そうアピールして見せるミハルに、リンは押し黙った。それは明らかに嘘である。そう断言できるだけの材料もあった。ミハルは相手の立場に応じて態度を変えるタイプの人間である。リンはずっとそれを間近で見てきたのだ。
長いものに巻かれようとしているかつての親友を見るのは辛い。自分にとって利用価値の無い人間が相手だったなら、ミハルは間違いなく敬語について指摘したはずである。もし初対面の相手が自分ならば、ミハルは敬語を遣うよう指摘した。それがリンの見立てである。遠回しに、自分は無価値だと言われているような感じがして息が詰まった。
「っていうかわざわざ探す?」
「気になったし。面白い子がいるんだなーと思って」
「そっか」
二人の会話は順調だった。ちょうどSNSのアカウントをミハルが教えたところで、レオはバスに乗るからと言ってロビーを早足で出ていった。仲良くなりたいと言ってはいたが、ミハルは本当に有限実行するというガッツを見せたことになる。祝福したい気持ちと、そんなに簡単に繋がって平気なのかという疑念がリンの中に存在した。しかし、その辺りの感覚で、二人が合致することは無い。それらは論じるまでもなく、フォロー、フォロワーの数を見れば明らかなのである。
リンは良くも悪くも近寄り難く、そもそもフォロワーを増やそうという気概がほとんど無い。一方でミハルは分かりやすかった。プロフィールには「絡も!」と書かれており、気になる人を軽卒にフォローすることが多い。さらに、合わないと感じたときにフォローを外すのもかなり気軽である。フォローを返してもらっているとか、やりとりをしたことがあるといった過去は、ミハルにとってはあまり関係が無い。
レオと繋がったミハルは、当然そちらに付きっきりになる。横でこのあとについて話をしたそうにしているリンの挙動や視線になぞ気付くはずがなかった。だからリンはほんの少し勇気を出して口を開く。
「あのさ」
「うん? なに?」
「今日、もう解散ってことでいいかな」
「あぁ。うん」
素っ気ない返事は「お前はもう用済みだ」と言っているようで、リンをいささか不快にさせる。だが、解放されるならなんだっていいと思い直し、ターミナルを出ることにした。
忘れかけていた太陽の日差しに瞼まで焼かれ、眉間に皺を寄せる。振り返ると、そこにはレオとのやりとりに夢中になり、ロビーの真ん中で通行の邪魔をする置物と化したミハルがいた。リンは、少し迷ったが、声を掛けることなく、そのまま帰宅するのであった。
それから数日、リンがミハルに話し掛けられることは無かった。しかし、本人はそれで構わないと考えている。熱心にメッセージを入力するミハルの顔を、定期的に思い出す。何かに取り憑かれたような表情だった。口を開けばレオの話が飛び出すだろう。その極めて現実的な想像は、リンを暗い気持ちにさせた。
女友達を取られて嫉妬するなどという微笑ましい話はよく耳にするものだが、リンがミハルに対してそれに近い感情を抱くことはなかった。むしろ嫌悪である。ミハルとレオのSNSのやり取りを目にする機会は何度かあった。ミハル本人が、レオとの繋がりを誇示するように広めているからである。彼女をフォローしているリンは、奇襲とも言えるその書き込みに対応することができなかった。レオへの、やけに気があるような返答を見て、鳥肌が立つのを感じていた。ミハルがレオを心から好いているのであれば、リンは嫌悪しなかっただろう。リンには透けて見えてしまうのだ。レオと仲良くすることで、渦中の人物と仲がいいと、周囲に知らしめらがっているミハルの浅ましさが。自己顕示欲に心を溶かされてしまった少女の残骸が。
とはいえ炎上騒ぎは既に収まりつつあった。遅れて騒動を知った者が興味本位でレオのアカウントを訪れることはまだ続いているが、それすらすぐに収まるだろう。ミハルにとってレオの価値が無くなった後、彼女はどうするのだろうか。考えている風を装いながらも、リンには分かっていた。ミハルはあっさりとレオへの興味を失うだろうと。
元々ミハルにはそんな節があった。例えば、それまで興味を示していなかった男性教員が密かに人気があると聞きつけた途端、頻繁に声を掛けるようになったり、部活で大きな成績を残したと一目置かれる生徒がいれば、同じ中学だったと周りに話す機会が増えたりした。今回も同じような流れになろうだろうと、リンは考えているのだ。ミハルの目的は注目を浴びている人物と親し気に接し、周囲から羨ましがられたいというものなので、同性だろうと成立する。
欲求に溺れようとしているミハルを視界に収めたくなかったリンだが、自分の悩みが取るに足らない下らないものだと思い知らされる大きな事件が起こった。
SNSから嘘が消えるというエックスデーを迎えたのである。
エックスデーが大きく報じられた翌日の放課後、支度を終えて帰宅しようとしたリンに声を掛ける者がいた。ミハルである。あと少し早く支度をしていれば避けれたかもしれないという後悔が胸に湧く。
「あの騒動、マジでなんなの?」
「え? 何?」
「決まってんじゃん、SNSから嘘が消えたって話!」
ミハルは苛立ちをリンにぶつけるように言い放った。とぼけたものの、ミハルの用件に心当たりがあったリンは気が気でなかった。心当たりとは二つ。レオとの関係にヒビが入る可能性について愚痴を言われることと、投稿の一部が消えていた事を指摘されることである。
自らを大きく見せようという欲求がほとんど無いリンが、SNSで嘘をつくことは基本的に無かった。しかし、ミハルが妙な絡み方をしてきた時は別である。嘘をつかされることが間々あった。いや、リン自身それを嘘とは思っていない。が、リンの投稿のいくつかは消えていた。その中でも、ミハルとはずっと友達でいたいと思っているよ、という発言が消えていることが、リンの心に小さな黒い染みを作っていた。
「あっちこっちで色々あってさ、もうワケ分かんない」
「うん。混沌としてるって感じだよね」
「でさ。レオは投稿が全然消えてなくてすごいねって言ったら、ミハルは結構消えてるなって言われたんだけど、これヤバいよね」
「うーん……」
リンは後ろめたさを感じながらも、会話を転がしていく。本人にとっては一大事らしい。自分の立場に立って考えれば、リンももう少しだけミハルの焦りに共感できたかもしれないが、あまりにも馬鹿馬鹿しくて試す気にはなれなかった。
ミハルが相変わらずレオとのやりとりに執心していることを思い知らされたわけだが、それ以上に収穫と思えることが確認できた。それは、ミハルはリンのアカウントに微塵も興味を示していない、ということである。悲しく感じることはなかった。リンはただ安心したのである。むしろ、この状況で自分を一切気にかけていないことに感謝すらした。上辺だけでも心配するような言葉を掛けられたとしたら、情に絆されていたかもしれないのだから。要するに、たった今この瞬間、ひっそりと区切りが付いたのである。
二人の性格を考えると、来るべき時が来た、と言えるかもしれない。きっと敏いリンは心の何処かで気付いていた。だから、自分の投稿が消えていると気付いた時に、意外に思ったりしなかったのだろう。この混乱に乗じて、ミハルと距離を置こう。リンはやっとそう決断した。
結論から言うと、リンの決意は早々に亡き者になる。ここ数日、彼女は学友と繋がっているアカウントに顔を出していなかった。投稿だけではなく、ログインすることもしていない。ネットのトレンドが気になるときは、知人が一人も居ない例のアカウントから世の中を覗いた。そうして過ごしていたお陰で、ミハル達のやりとりを眺めずに過ごしていたのである。
だから、ある日ミハルが見るからに怒りながらリンの机にやってきたときは、まさに晴天の霹靂だった。
「見た?」
ミハルは苛立ちを隠さずに問う。リンはミハルのご機嫌を取ろうとした自らを制止して、向こうが話し始めるのを待った。反射的に宥めようとする自分に嫌気が差す。暗い表情すら押し殺して待っていると、予想外の単語が耳に飛び込んできた。
「レオに決まってんじゃん。昨日のアレ、どういう意味?」
「えぇと……」
事情は全く分からないが、リンにはすぐに察しがついた。自分が見ていない間に、SNS上で何かがあったのだと。机の上に置きっぱなしになっていた端末を手に取ると、リンはすぐに内容を確認すべく操作する。ミハルのページに飛んで昨日のやりとりまで遡ると、明らかに不穏なレオの投稿を見つけることができた。
――あのさ。前から気になってたんだけど、もしかして私本人がそっちだと思ってる?そういうアクセが欲しいなら他当たれよ
思わず上がりそうになった口角を抑えるのに苦労する。これほど痛烈にミハルを否定する人間がかつていただろうか。少なくともリンの記憶には存在しない。すっきりすると同時に、自責の念が胸にあった。レオもミハルに言い寄られて満更でもないのだろうと思っていたので、もっと早くにミハルを止めようとしなかったことを小さく後悔したのだ。スマホから少し顔を逸らして、ちらりと目配せをすると、ミハルは待ってましたと言わんばかりに吐き出した。
「ちょっと仲良くしてやっただけなのにね」
「あぁ。うん。まぁ、恋人が同性だと、同性の友達とトラブルになりやすそうっていうか。困ることがあったのかもよ」
リンはできるだけミハルの気が和らぐ言葉を掛けようと努めた。それはリンのためでも、ミハルのためでもない。突然巻き込まれて面倒を被ったレオのためである。多少のふてぶてしさはあるものの、リンはレオを見た目ほど分かり合えない人ではないと考えている。見殺しにしたような罪悪感は、リンに献身的な態度を取らせるのだった。
「っていうか、こっちをそういう対象として見てんのはそっちだろっての」
「ミハル。そういう決めつけは本当によくないよ」
「はぁ? リンもあいつの味方なわけ?」
「同じ学校の生徒なんだよ? どこで誰が聞いてるか分からないじゃん」
「……まぁ」
あいつの味方なのか。そう問われて「そうだ」と即答できなかったリンは、また違う罪悪感を抱えることとなった。
ミハルはあくまで自らの振る舞いに正当性があると思っているようだが、リンから見たミハルは、独占欲の強いレオの取り巻きである。ここで彼女ではなく取り巻きという言葉が出てきたのは、あまりにも一方的だったせいだろう。
ミハルを宥めたリンは、役割を終えたと思い込んでいた。鞄を掴んで立ってみると、当然のように彼女も立ち上がり、ついてこようとしていることに心の中でため息をついた。
「マジで腹立つ」
「まぁ結構キツい言い方だよね」
「それな!?」
「本当に心当たりないの? あんな言い方、普通いきなり……」
しないと思うよ。リンはそこまで言いかけたが口を噤んだ。何度か見たレオの投稿は、かなり過激だった。炎上を恐れない物言い、喧嘩になってもいいと思っていそうな口調、とにかくレオは自由だった。
ミハルもミハルならレオもレオだ。やっとその考えに思い至ったリンは、急激にレオを庇わなければという気持ちが萎んでいくのを感じた。しかし、ミハルがその細やかな心境の変化を察知し、リンを慮るはずがない。
校門を出てからも、ミハルはドス黒いオーラを発しながら、舌打ちやレオへの決めつけを繰り返していた。リンはというと、レオを庇う気持ちも薄らいだため、完全に静観している。たまに相づちを送り、たまに無視をした。相手にしないちょうど良い塩梅を探りながら、リンはミハルの意図から逃げていた。意図とは、リンにレオへの悪口を言わせたり、自分の意見に賛同させようとすることである。
徹底的に関わらないようにした方がいい。嘘でもミハルの言葉に頷きたくない。リンは何度も頭の中でそう唱えて、交差点でやっと解放された。
ミハルがレオに突き離されてから一週間ほどが経過した。嘘がSNS上から消えてしまったことについて、世間はまだ騒いでいる。子供であるリンにも分かっていた、これは数日そこらで収拾する規模の話ではないと。
大きなニュースは山ほどある。それらを眺めながら、たまに自分だけのアカウントに籠って、動物や楽しい話だけを流してくれるアカウントを見るのが日課となっていた。後者のアカウントで投稿されていたのは、本当にあった話という体で語られていた楽しい話だったが、その多くは削除されていた。しかし、リンはあまりがっかりしない。数少ない生き残りを読み、「残ってるってことは、え、これ実話だったんだ……」という楽しみ方ができるからである。
自分なりにこの騒動の波乗りの仕方を掴んできたリンは、ミハルに声を掛けられずとも前ほど気にしなくなった。外に目を向ければ、今は様々なトレンドがリンの興味を引いてくれるのである。このカオスが、彼女にとっては有り難いものと言えた。
そんなやっと訪れた平穏に慣れた頃、帰宅しようと下駄箱に手を入れたリンは、違和感に気付いた。紙の感触に驚いて、手に取ってみる。それは手紙だった。まさかラブレターだろうか。だとしたら人生初のラブレターであり、告白である。しかし、自分にはこのちょっとした日常のイレギュラーを共有できる友達がいない。リンはそれに気付くと、落ち込む代わりに中を見た。
十六時、化学室の廊下の前で待ってる。そう書かれていた。直筆の文字は明らかに女子のもので、これが男子の手によるものだと言うなら、女子っぽい字が書けるとプロフィール帳に書いてもいいくらいのものである。
リンは、ポケットに入っていたスマホを見る。まだ十五時にもなっていない。あと一時間以上、この謎の呼び出しの為に待つのは御免である。手紙を鞄にそっとしまうと、彼女は靴を履き替えて玄関ホールをくぐった。そう、手紙の主には悪いが、帰ることにしたのである。
しかし、校門の手前で声をかけられた。背後からした声は女性のもので、あまり聞き慣れない声だった。声の主がレオだったと言われても、リンは「確かにこんな声をしていたかもしれない」と納得してしまうだろう。試しに無視してみると、今度は大きく名字を呼ばれた。自分を呼び止めようとしていることは明白である。振り返るべきか迷っていると、徐々に大きくなる足音が真後ろまできて、何者かがリンの手首を掴んだ。
「わっ」
「待ってって。言ってるでしょ」
「いや誰?」
リンの脳裏に、几帳面な手紙の折り目が蘇る。やけに綺麗な字も、書かれている内容も、消去法でレオなのかもしれないと考えていた。無理もない、それ以外に学校で関わる理由のある者がいなかった。しかし、リンの手首を掴んだ女子は、完全に初対面である。
「……待って」
「あぁ。はい」
待てと言って手首を掴まれたが、一向に時は動き出さない。リンが帰るのを見かけて慌てて駆けて来たらしい。女子は、視線でリンをその場に縛り付けようとしているようだった。一体どれだけ待てばいいんだなどと考えながら、リンは見知らぬ女子の息が整うのを待った。
靴が上履きのままで、三年の色をしている。リボンも三年のものなので、上級生なのは間違いない。膝に手を当てて呼吸を整える様は、見るからに運動不足のそれだ。顔は前髪と眼鏡でほとんど見えないが、少なくとも不良とはほど遠い存在であることは分かる。
「……はぁ。お待たせ」
「いえ。え、なんですか?」
「私は、手紙を出した張本人。呼び出した相手が帰ろうとしてたら、焦るでしょ」
「時間の設定が酷かったので。誰か分からない人と話す為に一時間以上待つって……」
「私も、あなたが部活に入っていない子だって知って、その、書き換えにきたところで、たまたま見つけたの」
「そうですか……」
言葉にすることはなかったが、ちょっと鈍臭そうな人だ、と感じざるを得なかった。つまり、二人が今日会えたことは奇跡だったということになる。いくつか訊きたいことがリンの中で渋滞を起こしそうだったが、それよりも早く、上級生の女は言った。息を整えはするが、リンを追い掛けるために乱れた髪を整えようとはしないらしい。
「楽しい話をするつもりじゃないし、人に聞かれるのも厄介だから。このまま、校門の外を散歩しましょう」
「いいんですか? 上履き」
「えぇ。元々普通の人より汚れてるから」
やけに悲しげにそう言う姿に、少しだけ息が詰まる。どうみてもやんちゃとは言えない大人しそうな見た目の女子の上履きが普通の生徒よりも汚れている理由について、あまり考えたくなかった。
リンが最も気になることと言えば呼び出された理由だが、礼儀として初めに問うべきことは理解している。
「……お名前を伺っていいですか」
「そうね。鉢山よ」
「どうして私を呼び出したんですか」
「レオを守るため」
敷地の周りを辿る歩調は穏やかだが、鉢山と名乗る女の声はピリピリしていた。神経質で周りを警戒しているというよりは、掛け替えのないものを守るような緊張感がある。その声は母猫を連想させた。ただならぬ様子に、リンは自身と鉢山とレオがどのように繋がるのかと思案する。しかし答えは出ない。いや、出るはずがなかった。鉢山は眼鏡の下の眼光を鋭くして、リンを見る。
「貴方、変なアカウントを作ってレオを叩いてるでしょ」
「はい?」
この瞬間、リンは確信した。自分には関係のない面倒に巻き込まれたのだと。彼女にはその心当たりがある。舌打ちしたくなる衝動に耐えていると、鉢山はスマホのディスプレイを見せた。
――注目されてチョーシ乗ってるだけ
――いやいや(笑)なんの取り柄もないただの学生だろ(笑)
名指しではないが、明らかに悪意のある投稿がずらりと並んでいる。アカウント名は完全にランダムで決めたらしく、アイコンもデフォルトのまま変更されていない。
個人名は出していないが、レオの投稿を共有した直後に嫌味を言うことがとにかく多い。見る人が見れば、このアカウントはレオを叩くために作成されたとすぐに見抜けることだろう。それほどにあからさまであった。
叩きたいだけという欲望を包み隠さず体現しており、むしろレオを叩くという目的のためにコソコソとする方が馬鹿らしい、という考えが透けて見えるアカウント運用である。
「……え、これを、私が?」
「そうでしょう。最近レオと絡んでるミハルって子、あなたの友達でしょ」
「あー……」
まさかと思いながらSNSを確認すると、ミハルは相変わらずレオと絡んでいた。レオのキツい口撃をきっかけに決別したとばかり思っていたが、フォロワー三千人の優良物件は手放せなかったらしい。レオの本音を見た後だと、全てミハルの空回りにしか見えなかった。
まず、リンにだけ分かっていることがある。レオ叩きのアカウントの主は、リンではないということである。というか、文章の書き方や改行の調子、アカウントが作成されたタイミングから鑑みると、犯人はミハルである。
犯人を明かして解放されても、この鉢山という女は間違いなくミハルへとターゲットを切り替え、またセンスのない時間に人を呼び出すことだろう。リンは今更ミハルがどうなっても構わなかったが、誤解を解くのは彼女の言い分を聞いてからでもいいかもしれないと考えた。戸建ての軒先に咲く紫陽花に視線を奪われていることに気付くと、鉢山へと向く。鉢山はどこか得意げに言った。
「友達をレオに取られて気に食わなかったってことだよね」
「あー」
リンは本日一番の声を出した。いや、もしかすると今年一番かもしれない。苛立ちを押し殺す声で、元々気弱そうな鉢山を怯えさせるのに十分な迫力を秘めていた。
面倒に巻き込まれるのも、間違えて冤罪をふっかけかれるのも、まだいい。どちらも苦痛には違いないが、耐えられない程ではない。しかし、ミハルという浅はかな女に構ってもらう為に、率先して人を傷付けるような愚行を働く人間だと決めつけられることは、耐え難かった。
腹の中でぐらぐらと怒りが燃えるのが分かる。鉢山の眼鏡を羨ましく思う。目元を遮るものがあれば、きっとこれほど殺意に満ちた視線をはっきりと人に見られなくて済んだのだから。
一つでも反論をすれば、それを皮切りに止まらなくなる予感があった。だから発想を逆転させることにした。レオは確かに迷惑を被っていた、ミハルのせいで。止めようとせず、目を背けていたのは自分である。言ってしまえば同罪である。だから、鉢山の説教を罰だと思って聞き流すことにした。
鶏冠にきているリンは気付いていなかった。鉢山はリンを犯人だと思っているので、これであのアカウントが止まると思っている。しかし、実際にリンは何の関係が無いのだから、これまで通り何も変わらない。そうすれば、再びあらゆる意味で嫌な呼び出しを食らう羽目になるのはリンなのである。
「……訊かないんだ」
「何が?」
「なんで私がレオを守ろうとしてるか、とか」
「興味がないので」
リンは自分の感情に翻弄されていた。怒りをぶつけるのであれば、おそらくは鉢山ではなくミハルだろう。しかし、ずけずけと下らない話をする鉢山への怒りは鎮まりそうもない。
これほど他人に怒りを抱いたのは、リンの生涯で初めてのことであった。単に忘れているだけの可能性もあるが、少なくともリンはそのように自覚している。
リンは自己分析がまだ浅い。この程度の怒りはこれまでにも感じたことはあるのだ。ただ、それを表に出すのが初めてだったのである。感情表現に乏しい彼女の大きな変化であるはずなのに、本人は自覚していない。
「……とりあえず、警告はしたから」
「そうですか」
校舎を半周した辺りで会話は終わった。鉢山はちょうど青になった信号を渡り、リンだけがその場に取り残される。本人は上履きのまま外に出たことを忘れているのだろう。リンは気付いていたが、声を掛けることはなかった。
リンの帰路は正門前が最も近い。結局、無駄に学校の周りを歩かされる羽目になった彼女は表情を曇らせた。スマホを見て、まだ本来の待ち合わせ時間になっていないことを確認すると、彼女はつくづく馬鹿正直に待たなくて良かったとため息をついた。
正門まで戻ると、後はもう歩き慣れた道が続くのみである。リンは通行人に気を配りながら、先ほど見せられたアカウントを確認した。おそらくミハルが作成したであろう、愚かなアカウント。鉢山に見せられた一瞬でそのランダムな英数字の配列を覚えることはできなかったので、ミハルからレオの投稿一覧へと飛び、レオの投稿を共有している人物から探った。
それはすぐに見つかったが、改めて見ても気分のいいものではなかった。友人と昼食を摂った。ただそれだけのレオの投稿を共有し、嘲笑するような言葉を投げ掛けたり、挙句の果てには反LGBTの他のアカウントと繋がり、界隈全体の悪口を投稿していた。
「やりすぎ」
リンはそう呟くと、スマホを制服の胸ポケットにしまった。鉢山の存在について考える。友達というわけではなさそうだ。レオの昔からの知り合いかとも考えたが、帰って行った方向を考えるとそれも可能性として低い。バス停を目指しているとすれば、かなりの遠回りになる。また、普通の人よりも汚れていると言った上履きは、確かにその通りであった。終始暗い表情でいたことも引っ掛かる。学校生活が充実しているようには見えなかった。
リンは思う、鉢山は暗い顔のまま卒業を迎えることになる、と。もしいじめがあったとしても、自分で打開するしかないことがほとんどである。誰かに手を差し伸べてもらうまで待つことを時間の無駄だと考えるリンは、二つ下のレオのアカウントに執心する彼女の気持ちが分からないでいた。鉢山の身の上話に付き合ってやるほどお人好しになれなかったリンは、結局謎を持て余すのみである。
考えることが嫌になり、再びスマホを取り出すと、心の避難所となっているもう一つのアカウントを開く。嫌なことを言う人がいない、自分の好きなものだけを詰め込んだアカウント。フォロワーの最新の投稿は、簡単にできるというお菓子のレシピ動画だった。スクロールしていくと、ポジティブな発信しかしない同年代の女子の投稿があった。世間を騒がせている何か、恐らくは嘘が消えたSNSにまつわる何かしらの騒動についての投稿だろう。
——嫌いなものをわざわざ見に行くって、M!?
無邪気な投稿に、リンの頬が少し緩む。この女子に限って嫌味を言っているとは考えにくい。天真爛漫な彼女の投稿を普段から微笑ましい気持ちで眺めていたリンは、そう思う。友田もまさか、自分のあずかり知らぬところで見ず知らずの他人を勇気付けていたとは思うまい。
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