リンとミハルの場合
リンとミハルの場合 前編
沈みゆく太陽が辺りを暖色に染めている。そのベンチからは街を一望できた。見えるのは取りたてて有名なものが何一つない片田舎の風景である。
肩の上で二つ結びにしている少女は、丘の上のベンチに腰掛け、ただ街を見下ろしていた。遊歩道を歩んできたため汗ばんでいたが、そよぐ風のお陰で体の熱は少し引いている。夕焼けに対抗するような臙脂のブレザーがよく似合う少女だった。
少女の名前はリンという。一人になりたくて街の外れにある遊歩道まで来てみたが、思いのほか頂上の景色が絶景で、不覚にも心を奪われているところである。体の熱が収まっていることにも気付かないほど、リンはこの光景に胸を打たれていた。
視線の向こうに、自分の通う高校が小さく見える。眼下に広がる景色の中の学校は、近くにある市役所を目印にしてようやく見つけられる程度のちっぽけな存在だった。リンは自分が、ちっぽけな街のちっぽけな学校の、さらにそこに在籍しているちっぽけな存在であることを思い知る。
いい意味で、何もかもが馬鹿らしく思えた。鬱屈とする気持ちは晴れないが、丘の上の風はリンに落ち着きと、とある思い付きを齎す。彼女はスマホを取り出してSNSアプリを立ち上げると、新規アカウントの作成をタップした。
操作を続けようとしたが、スマホカバーがやけに存在を主張してくる気がした。半年ほど前に、友人と揃いで購入したケースである。それがリンの心を縛りつけようとしたが、彼女はその制止を振り切った。
「気休めだけど」
小さくそう呟くと、彼女は新たなアカウントの情報を打ち込んで、ネット上にもう一つの自分を作り出した。リンは既に学友と繋がるアカウントを持っていたが、それとは別に、更にもう一人の自分を作り出したのである。
サブアカウントに縋った理由は、学校での人間関係にあった。個別のメッセージに返事をしていない状態でSNSを更新したことに文句を言われたり、見たくもない他人の炎上や悪口を見かけたり、リンはそういったことに辟易していたのである。彼女は自分の状態を、単にSNS疲れと呼ぶことに抵抗があった。彼女がうんざりしているのはSNSではない。SNSを通して見えてくる学友達の人間性であり、つまり人間関係そのもの疲れていると自己分析していた。
夕陽を見ながら、彼女は気付いた。自分の全てが学校の人間と繋がっているからこんなにも苦しいのかもしれない、と。嫌な出来事も、嫌な人間も、自分の人生の全てではなく一部になれば、状況は変わるかもしれないと考えたのだ。だからリンはもう一人の自分を作成した。
アカウントを作成し終えると、リンは可愛い動物の動画ばかりを流すアカウントや、笑えるニュース限定の配信サイトのアカウントをフォローした。笑えるというのはリンの基準で、下ネタが多いものや、見ているだけで痛いアクシデントが起こる動画を発信するものはフォローしなかった。見たくないものは一切フォローしない、それが彼女が定めた新たなアカウントにおけるルールである。また、ネガティブな発言をしないと信頼しているアカウントもいくつかフォローしてみる。新たなアカウントのタイムラインは一気に賑やかになり、彼女の心を和ませるのであった。
翌日の放課後。昨日よりも雲の多い空を見たリンは、同じ夕焼けは拝めないだろうと窓際の席から数時間後の空を占った。思い立ったのが昨日で良かったと密かに思う。
リンの前の席に、ある少女が座る。元の持ち主である男子は、既に部活に向かっており空席になっていた。少女は元々ここが自分の席だったとでも言うように、当然のようにそこに腰掛けている。
「リンさー、昨日どしたの?」
「え?」
「いや、一緒に帰ろうと思ったらもういなかったからさ」
「あぁ、ちょっと家の用事で」
「そうだったんだ」
リンは友人、ミハルに嘘をついた。本当は一人で誰もいない遊歩道に赴き、SNSでサブアカウントを作成していた。しかし、当然それはリンの心にしまい込まれている。何を隠そう、彼女に新たなアカウントを作成させた張本人がミハルだったのだ。手に持つスマホには、同じカバーが付いていた。
リンは、ミハルのことを嫌ってなどいない。少なくとも現時点では。しかし、価値観の違いに疲れることはあった。今となってしまえば、お揃いのスマホカバーは、リンにとって皮肉や呪縛に似た何かとも言えるかもしれない。
ミハルは、入学式でリンに声を掛けてきた初めての女子であり、たったそれだけで彼女はリンにとって特別だった。これほどミハルとの関係を捨てたがらないのは、その出会いへの義理なのではないだろうか。そう勘繰りたくなる程に、リンはその縁を大切にしてきた。
ミハルは美容や芸能への関心が非常に高く、リンの周りにはいないタイプの女子だった。いつも、ミハルが仕入れてくる噂や新商品の発売に頷くばかりで、教わり続ける立場であることに居心地の悪さを感じることもなかった。むしろ、垢抜けない自分にとっての救世主のような存在だと思っていた。自慢の友達だった。
この学校の女子の交友関係は目まぐるしく変わった。入学式から一年と数ヶ月ほど経ったいま振り返ってみると、多くの女子が当時の交友関係を奇妙だと感じることだろう。要するに、入学直後は適当に連絡先を交換し、なんとなしにつるむことが非常に多かったのである。多くの女子達にとっての最優先事項は【一人でいないこと】だったと言える。それはリンも同じだった。しかし彼女は間に合わせで人と関われるほど社交的ではない。だから、ミハルはリンにとって救いだった。さらに、女子達の派閥や力関係がはっきりしてからも、ミハルはリンを見捨てることはなかった。これについても彼女は感謝している。いや、だからこそ、リンはミハルの見たくなかった部分について見ることになってしまったとも言えるのだが。
何か探りを入れた訳ではなく、単純にミハルが隙を見せただけと言える。露呈したその思想を受け入れ難く感じ、自分には関係のないことと割り切ろうにも違和感が付き纏う。じわりと侵食される感覚は、インクのシミの広がりや、燃えて朽ちていく紙に似ていた。しかしそのままではまだ性急で、それらをスローで再生すると、ここ数ヶ月のリンの心に限りになく近い汚れ方、壊れ方をすると言える。
ミハルには人を見下す癖があった。容姿の優れない者はもちろんだが、他にもミハルが下に見ている存在がある。最近は慣れたもので、彼女は息をするように自然にそれをリンに曝した。
「そういえば昨日さ、二組の田原がフォロー飛ばしてきたんだよね」
「そうなんだ。田原くん、話したことないな」
「あいつ、フォロワー二十人いないの。ヤバ過ぎない?」
「あぁー……」
「百はいるでしょ、フツー」
馬鹿にするように笑うミハルの正面で、リンは苦笑いを浮かべていた。言うべきでないことは理解しているが、他になんと返答していいのか分からなかった彼女は口にしてしまう。そうすれば、リンの嫌うミハルの口癖を引き出してしまうというのに、会話を続けることを意識し過ぎて忘れていた。
「私も、四十人くらいだよ」
「リンはあいつとは違うって!」
やってしまった、リンは今、自分が上手く笑えているか、自信が無かった。何かを小馬鹿にしたり見下したりした後、ミハルは決まって同じ立場であるはずのリンをフォローをする。それがリンにとって最も苦痛だった。
こんなやりとりを一年以上繰り返して、リンはようやく気付いたのだ。きっとミハルにとって、自分は側に置いて安心できる道具なのだ、と。確かめたことはないので、あくまでもリンの主観によるものではある。しかし、本人がそう思っている以上、苦しさは拭えない。だからリンはもう一人の自分を作ったのだ。ミハルとその友人らに存在を知られることのない、もう一人の自分を。勝手に品定めして見下されない、もう一人の自分を。
今のは自分の返答が悪かったな。リンがひっそりと反省する中、ミハルはマイペースに話題を変えた。ボリュームのある黒髪の毛先を指でくるくると弄びながら。
「そういえば、リンはLGBTってどう思う?」
「へ?」
唐突で、ミハルにしては珍しい話題に、リンは目を丸くする。ミハルの口からこのような話題が出たことがあっただろうかと思い返すが、リンには覚えがない。記憶の限り、否定的な発言をしている場面を見たことはないはず。しかし、彼女の性格を考えると肯定的に捉えているとも言いにくい。
逡巡し、リンはやっと気付く。ミハルの思想を推察して衝突しないようにしている自分の矮小さに。顔色を窺うことが染み付いているようだ。それを恥じ、惨めな気持ちを押し殺すように、当たり障りの無い本心を述べた。
「本人達の自由じゃない? 男の人が女湯に入ってきたりしたら、怖いけど」
「あぁそれも話題になってたよね」
「でも、なんで?」
「昨日からめっちゃ炎上してんだよ。知らない?」
「あぁ、ごめん。知らないや」
昨日、リンは作成したアカウントのタイムラインを見ていたので、元あったアカウントに一切ログインしていない。元のアカウントを覗いていれば、ミハルや数少ない学友達が共有した話題に触れていただろうが。しかし、炎上案件などわざわざ視界に入れなくなかったリンは、新しいアカウントを作ってよかったと、改めて思い直すのであった。
「パレードって知ってる? LGBTの人達がするやつ」
リンは耳から入ってきた情報を整理して、どこかが聞き間違いだった可能性はないかと考えた。それくらい、耳に馴染みのない情報の羅列だった。ミハルを見つめてみると、彼女は続きを促されたと解釈して、話を続ける。
「よく分かんないけど、そうやって存在をアピールして、差別やイジメは止めてって訴えるんだってさ」
「聞いたことあるかも。それが炎上してるの? どうして?」
リンには分からなかった。立場の弱いものが立ち上がることで炎上するだなんて、可哀想だとも思った。しかし、事態はそれほど簡単でも、性的少数者に直結したものでもなかった。
「パレードっていうかそういうイベントに、制服で参加した奴がいるんだよ」
「別にいいじゃん」
「それが夜のイベントじゃなければね」
「あー……なるほどね」
段々、話の雲行きが怪しくなっていくのを感じる。制服、つまり未成年、夜。監視社会とも言えるこのご時世、餌を撒いているようなものである。
「パレードみたいなことをしようっていう小規模なイベントで、店先でビラを配ったりしてさ。その様子を配信してた人がいたんだよ」
「もう、聞きたくないかも」
リンは小さく「わぁ……」と呟き、苦々しい表情をして見せた。他人の諍いを見たがらないリンには、少々刺激の強い話題である。飲食店の客席の調味料に不潔な行為をして見せる等のシンプルな炎上の方が幾分かマシだろう。所謂ポリコレ関連の話題は論点が捩じれて収拾がつかなくなる印象があり、見かけると中身を読む前に非表示にしてしまうこともあるくらい警戒している話題だった。
「まぁまぁ。そんでイベントの主催者が、未成年が混じってるなんて知らなかったとか言ってさ。酒類を提供してるのに知らないなんて、管理はどうなってるんだって突っつかれて」
珍しくハッキリと“聞きたくない”と伝えたリンだが、心の何処かではこうなることを分かっていた。ミハルというのはこういう女だ。押しが強く、友人になると頼もしいときもあるが、一度頭に浮かんだことは伝えなければ気が済まない性格でもある。
すぐに諦める方向にシフトしたリンの対応は殊勝なものだった。これ以上強く聞きたくないと言えば面倒な問答が増えるので、そうなんだという表情を作って聞き流す。この望まない表情こそが、高校に入学してから彼女が最も多く見せている表情と言えるかもしれない。
ミハルの勝手な振る舞いはともかくとして、LGBTイベントの主催者に思わぬ厄介事が舞い込んでいるのは間違いない。ミハルは面白がって炎上理由を説明するが、実際に面白いのだから仕方がないだろう。リンは好まないが、少なくとも炎上に加担するような人々は、こういったオモチャを常に欲している。
その後、ミハルから語られた展開は、どこかで見たようなものだった。主催者は「未成年だからと言ってパレードやそれに準ずるイベントに参加すべきではないという意見について、断固反対する」とSNSで発言している。口に出さずとも、リンはうんざりした。主催者が論点をすり替えたことにも、それに気付かずに誘導される者が少なくないことにも。
あらましを話し終えると、ミハルは声を潜めて、机の上に置かれていたリンの手首を握る。これはとっておきの話をする時のミハルのサインである。無意識のようなので、リンが本人に告げたことは無いが。しかし、ここから重大な、とっておきとも言える話とはなんだろうか。見当がつかないリンは、素直にミハルの言葉を待った。
「観てよ。動画」
「……うわっ、びっくりした」
未成年が映っているとされる部分のみを切り取り、SNSで拡散された動画だった。ミハルが三角の再生ボタンを押すと、それは唐突に始まる。再生と同時に大きな音が鳴り、リンは思わず眉間に皺を寄せる。地鳴りのように響く不快な音の正体は、会場で流されている音楽である。パレードと言われるとデモ行進のようなものを想起するリンだが、このイベントはそのイメージからはかけ離れていた。
店先でちょっとしたダンスイベントを開いているような趣きである。カメラは会場全体の様子を収めることを目的としているようで、ゆっくりと首を振っていた。そのぎこちないパンチルトは、ブレ方などから明らかに人の手で行われていると分かるものだ。しかし、手が止まることはない。強い使命感を持って、どうしてもこの様子を世界に届けなければいけないとでも言いたげな動きだった。
道路に向かってプラカードを掲げている者もいれば、背の高いスタンドテーブルを挟んで談笑する者もいる。通りを歩く人間にチラシを配る者、ブースの中でターンテーブルを操作するDJの手元に注目する者も。カメラはやはり一定のスピードで動いていく。制服の子なんてこの大勢の中から見つけられるはずがない、リンはそう諦めかけた。ミハルの「そろそろだよ」という声に気を張ると、目を凝らすまでもなく「この子だ」という人物がリンの視界に飛び込んだ。映像に映った女子は、臙脂のブレザーを身に纏って、「PRIDE」と書かれたプラカードを頭上に掲げている。この少女はリンと同じ高校の生徒で、リボンの色から察するに後輩だったのである。
そこからミハルが言おうとしていることは、リンにとってはかなり予想外だった。
「かっこいいなって思ったんだよね」
「……へぇ」
珍しい、と。リンは言葉にせず、心の中で感心した。長いものに巻かれつつ弱者を見下すことが多いミハルが、素直に人を褒めたことが意外だったのである。しかし、イベントの内容が内容なので、リンは誤解が無いようにしっかりと意味を確認することにした。
「その、かっこいいって、どういう?」
「……え? いや違うって! びっくりしたー! 人としてね! 自分の意見があるっていうかさ」
「あぁ、そういうことね」
「もう一個の意味だったらヤバいでしょ」
「そう?」
有り得ないこととして茶化そうとするその姿勢こそが、彼女達が訴えようとしている差別なのではないか。ミハルの態度にリンはそんなことを考えたが、また面倒なことになると思い、口を噤んだ。ミハルが観せる動画を再び再生する。渦中の少女は、ウルフカットを片側だけ刈り上げていた。見るからに個性的で、よくは分からないながらも、リンに「それっぽい」と感じさせた。
「とにかく、今はこの騒動がアツいんだって」
「その子、多分後輩だよね?」
リンは先ほどよりも少し気が軽くなっていることを自覚する。この謎の少女についてはかなり気になる。興味がリンの気を引いてくれるおかげで、ミハルの悪癖が目につくこともない。ミハルの嫌なところばかり目に付くのは、自分の人生が退屈でつまらないせいなのでは、という考えが頭を過る。リンは好き放題に飛ぶ思考を諌めて、会話に集中しようとした。
「そう。でも、多分見つけるのは結構大変だよ」
「……まぁ、そうだろうね」
トーンダウンしたミハルに、リンは素直に同調する。動画の中の少女は、目の周りを黒く囲うようなメイクをしており、元の人相が分かりにくいのだ。濃い化粧では誰もが同じような顔に見え、髪についても同様である。黒髪に見えるが、光の当たり方によっては青にも見える。そんな特徴的な髪色だが、恐らくは洗い流せるヘアマニュキュアなので、手がかりとは言えない。髪型も、刈り上げた部分は普段見えないように下ろしているだろうから、大したヒントにならない。というのが一目見たリンとミハルの見立てである。
「こんな派手な女子見たことないよ」
「いたら絶対話題になってるって。校則違反でビンゴ狙ってんのかって感じじゃん」
校則はそれほど厳しくはないが、さすがに髪を青に染めることは許されていないし、あの派手な刈り上げを見た教師はいい顔をしないだろう。あの容姿で爪だけが大人しいとは考えにくく、動画の少女は校則違反の擬人化と言えるような存在であることが予測される。しかし、当然ながらそんな誤った度胸を発揮する女生徒を、二人は知らなかった。
「普段、どんな恰好でいるのか、気になるじゃんね?」
「……まぁ。見せられたら「へぇー」ってなると思うけど」
「そーじゃなくて。リン、探すの手伝ってくれるよね?」
「……いいけど」
リンの返答を聞いて、ミハルは素直に喜んでみせた。一方で、リンは複雑な気持ちでいる。この一分ほどのやりとりだけを見れば、ミハルはリンが尊敬していたミハルだった。そんな彼女に悪戯とも悪巧みとも取れる提案をされ、リンは嬉しかったのだ。探しもののパートナーに選ばれたことを誇らしいとすら感じている。そしてそんな都合のいい部分だけを見ようとしている弱い自分が嫌になった。
二人は部活動に所属していない。直接的な後輩が一人でもいれば手掛かりになったかもしれないが、彼女達にとってそれは金で買うことのできない種類の、手に入らないものであった。
リンは、ミハルが不意に覗いてこないようにさりげなく斜めにスマホを構えて、ひとまずアカウントをミハルと繋がっているものに切り替える。とにかく自分の目で騒動を読み直すことにしたのである。ミハルの投稿履歴を遡るだけで良かったので、トレンドを追うのは簡単なことだった。
引用して再投稿されたり、ミハルが共有しているページを順に読めばなんとなくではあるが、炎上の流れを紐解けた気になった。未成年が酒類を提供する店に出入りしていいのかという指摘と、学生をLGBTに関わらせるなという指摘があり、前者は正当な意見だが、後者は誤りだ。学生にもLGBTはおり、関わらせないようにするも何も、彼らは既に立派な当時者である。
それに対し主催側は、制服を着た学生が混じっていたことに気付かなかったと説明した。店舗の形態や珍しい色の制服であったことを考慮すると、主催の説明はさほど無理のないものであったと言える。議論に熱くなっているのは店の常連だった。彼らは「学生とLGBTを関わらせるな」という意見に対して猛反発した。カムアウトしている人間ばかりではない為、当事者と関わらないように完璧に気をつけるのは無理であるという意見から、こういった発言に対抗する為に彼らはイベント会場に居たのではないかという指摘もある。
——私達は不平等に対して声を上げているだけです。どうしてそれが分からないのですか。
ここまで読んで、リンは視線を窓の外に戻した。窓の外は平穏そのものである。多いと思っていた雲の数なんて、今は全く気にならなくなっていた。鳥でも虫でもなんでもいいから、外を飛んでいる何かになりたいと、リンは空想する。とにかくこのアカウントから覗ける不毛なやりとりが嫌だった。
——マジョリティは【普通】という言葉を凶器にして振り回しますよね。
イベント主催サイドと、それを叩いている者達の攻防は、リンに何の収穫も齎さない。両陣営共、納得できる意見を出す人はいるが、会話になっていなかったり論点がズレていたりで、リンにとっては見るに耐えない文字の応酬が続いていた。頭が痛くなりそうだと弱音を吐きそうになったリンだが、彼女が何かを吐き出す前に、ミハルが声を発する方が早かった。
「このレオってやつ……間違いないじゃん!」
「わっ」
「あ、ごめん。デカい声出して」
ミハルの声に驚いたのはリンだけではない。教室に残って歓談していた生徒の多くが彼女の声に意識を取られた。全く意味が無いのは明白だというのに、ミハルは誤摩化すように窓の外を見る。リンがそっぽを向いているミハルの手元に視線を下ろしてみると、そこにはあるアカウントがあった。
「レオ……あぁ」
ミハルが声に出した人物のアカウントである。大きなレンズのサングラスを掛け、とぼけた口元をしたアイコンは、動画で見た制服の女子と似ていた。目元が見えない上に髪型も色も違うが、輪郭や鼻に面影がある。リンはそのアカウント名を見て、手入力でアドレスを打ち込む。すると、ミハルが表示しているのと同じページに辿り着いた。
フォロワーは三千を超えており、一介の高校生にしてはかなり多い方と言える。前からこれくらいの数だったのか炎上を期に増えたのか、調べる術は無い。しかし、炎上をすると野次馬が増えるという傾向から、リンは元々多かったフォロワーが炎上でさらに増えたのだと分析した。また、フォローもしていないリンが現在見れているということは、非公開アカウントにしていないということになる。炎上に関わった者はアカウントを消したり、非公開にして嵐が過ぎ去るのを待つことが多いが、レオと名乗る女は真っ向から迎え撃とうとしていた。
——マジでめっちゃ燃えてて草
——DM送れないって言われても。元からそういうのは受け付けてないよ
――プロフィールの見方、知らない人が多いのかな(笑)
——レオは自分の為に参加しただけ。酒とか煙草についてはイチャモン過ぎてちょっと(笑)制服で参加した理由は、放課後にイベントがあるって知って向かったから。制服ダメって書いてなかったし。途中で服買えって(笑)相手が女子高生だって分かってて言ってる?レオが毎月お小遣い十万くらい貰えるならそうしたかも?
最新の書き込みをいくつか見て、リンははっきりと実感したことがある。レオという少女は、この炎上を一切気に病んでいない。楽しんでいるような余裕すら見える。
「これさ、マジかな」
「なに?」
「ほらここ。「学校特定しました。クレーム入れます」ってやつ」
「あぁ。どうだろうね」
ミハルが発見したのは脅しとも取れるレオへのメッセージだった。しかしレオの返答は「せめて入れてから言えよ(笑)」であり、堪えている様子には全く見えない。リンは自分に置き換えて考えてみることにした。
夜に出歩いていると発覚することと、親が性的少数派であることを知らなかった場合は、そこで一悶着あるかもしれない。が、学校がこの件に関わっているのは、在籍している生徒が制服を着て夜間に外出した、その一点のみであると考える。
「んー……レオって子の親が放任主義で、性的少数派であることも知っているなら、あんまりダメージ無いかもね」
「こんな髪型してんだから、厳しい親ってことはないよねー。っていうかクレームを受けてうちの学校がレオを停学や退学にしたら、それこそお仲間が黙ってないんじゃない?」
お仲間、という馬鹿にするような言い方に少し引っ掛かったリンだが、今の論点はそこではない。というか彼女がミハルの細かい言い回しを指摘する機会など、滅多に訪れないだろう。
リンは極めて現実的に、学校の出方を推察する。自由な校風、茶髪やピアスを認める緩い校則、それらが売りの一つとなっている学校で、当事者の反感を買うような判断を下すだろうか。答えは簡単である。
「口うるさいクレーマーとLGBT界隈、どちらを敵に回すって、うちの学校なら前者だと思うな」
「ね。「確認します。事実だった場合は本人には厳しく言いつけます」とか言っていくらでも躱せそうだし」
ミハルはメッセージを送り付けたクレーマーにご愁傷さまと告げて、レオの投稿一覧のページに戻る。「こういうことする連中って暇だよね。レオが夜間外出しなくなって、こいつらの人生になんかメリットあんの?」と嘲笑するミハルの姿を見て、それについては完全に同意できると、リンは頷いた。
「ちょっと待って。レオ、いま投稿した」
「え、なんて?」
「気にしないでって言ってる。これ、誰かとの会話だ……さやかって名前の人。この人からレオに大丈夫? って送ってて、その返事だね」
「ふぅん……?」
本人の特徴に繋がるような投稿や、現在の居場所についての投稿でないことをリンは少し残念に思ったが、ミハルの目はまだ死んでいなかった。レオにメッセージを送ったさやかのプロフィールへと飛ぶと、そこには学年と通っている高校名、卒業した中学の名前が記されていた。当然、略称ではあるが、地元の人間が見れば察しは付く。
「加茂西、ね。大分遠い」
「ミハル? なに見てるの?」
「ほら、話してる子。加茂西出身の子らしいよ」
「……ネットで探偵できそうだね、ミハル」
「こんくらい当然っしょ」
得意げにそう言い放つミハルだったが、リンは少し恐ろしかった。自分が何か決定的な発言をせずとも、繋がっている人間から簡単に情報が漏れてしまうという事実が。ミハルと離れた後、もう一つのアカウントでフォローした人々が、元のアカウントと繋がりがないことを確認しようと、リンは人知れず心に誓った。
「でもホント、加茂西って結構遠いよね」
リンの言葉に、ミハルは生返事をする。まだ何か探っているのは明白だった。いつの間にか、リンはもう一つの自分のアカウントと、探りを入れられているレオのそれとを重ねて考えていた。見つからないで欲しい、何故かそう願いながら、レオを暴くことを諦めさせるような発言をする。
「レオは顔も広そうだし、同じ中学って繋がりとは限らないよ。イベントで知り合ったって言われたら、それこそ調べようがないっていうか」
「あぁいや、中学の友達でビンゴだわ。さやか、少し前に、中学の友達がネットで炎上しててちょっと心配って言ってる」
「そう、なんだ」
こうしてレオの出身中学が簡単に暴かれる。ここまで来ると、本人の特定もすぐだろう。なにせ、加茂西はミハルの言う通り遠い。バス通学でゆうに一時間以上かかるところに位置しており、彼女達は正確に把握していないが、同学年で元加茂西の生徒は四名しか居ないのだ。一つ下の学年から急にここに通う生徒数が爆増したとは考えにくい。
「加茂の方から通ってる子なんてほとんど居なくない?」
「そうだね。ミハルの知り合いにもいないの? 一人くらい知ってそうだけど」
「うーん……友達の友達なら。でも、加茂西出身って事が分かったならもっと簡単な方法がある。リン、明日の放課後空けといてね」
「いいけど……ミハルは、どうしたいの? レオに会いたいの?」
リンはこのやりとりの最中、ずっと気になっていた質問をミハルにぶつけた。彼女が本当にこの学校の生徒なのか確かめたい好奇心は理解できるが、日を跨いでやるようなこととは思えない。
特定したがる熱量に怯えることはあっても、リンはミハルとの会話を楽しんでいた。こっそりとアカウントを作ったことを思い出すと、罪悪感で胸がちくりと痛むほどに。しかし、リンは心のどこかで気付いていたのだ。ミハル本人すら、もしかすると気付いていないかもしれない思惑に。それを否定して欲しくて、リンはミハルの言葉を待った。
「面白い子じゃん、会ってみたいよ。プライベートはあんななのに、学校じゃ大して目立たないわけじゃん? どうやって擬態してるのか、興味あるっていうか」
「そっか……」
「あ! もし見つけても、リンは無理して喋らなくていいからね! 人見知りなんだし!」
「うん、ありがとう」
ミハルの回答は、概ねリンが望んだものだった。要は、ただ気になるだけ。理想的な回答であったはずだというのに、彼女の気は晴れなかった。そこでリンは思い知った、もう何を言われても納得できないのだと。
それから二人は学校を出ることにした。喉の奥につかえているのに決して本人に告げるつもりの無い言葉は、リンが自室に戻ってから吐き出された。誰も見ていないアカウントが、記念すべき初投稿をする。
――フォロワーが三千人もいるから、だからだよね。明日はっきりする。私は人に失望したくない。
投稿してから、陰で不満を漏らすことしかできない自分を恥じたリンは、猫の画像を大量に共有して、自らの汚さを隠すのであった。
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