取っておきたい


『今週末うちにおいでよ。ごはんご馳走するよ。なにがいい?』


夜の10時すぎに岡辺さんからメッセージが届いたのをベッドに寝転びながらスマホを触っていたその手で確認する。目を通してから、はたと考えた。


たしかに岡辺さんの自宅におじゃました日、マンゴーの切り方の話から料理の話になり、『市村さんはよくなにを作るの?』と聞かれ、『簡単なものばかりです。味噌汁とかチャーハンとか』と答えたあとに『岡辺さんはよく料理されるんですか』と聞き返すと『うん。家事の中で料理がいちばん好き』と答えた岡辺さんが最後に『いつでもご馳走するよ』と言ったことを思い出す。


あのときは社交辞令ととらえて話半分に頷いたけれど、考えてみれば岡辺さんと社交辞令は驚くほど似合わない。


『岡辺さんの好きなものを』と返信を打つ途中、緩やかな坂道をボールが下るように、ゆっくりと転がっていく自分が脳裏に見える。この仮初めの恋人役関係の上を、わたしはいつまで、どこまで、下っていくんだろう。最後にはどこにぶつかって止まるのか。


ドアの向こうで洗濯機が終了の合図を鳴らして止まる。指先で送信を押してから、重い体に喝を入れて起き上がる。




「いらっしゃい」


にっこりと笑みを浮かべて玄関のドアを開けた岡辺さんに迎え入れられてリビングに入ると、テーブルの上にはすでに料理ののったお皿が並べられていた。いい匂いが鼻先をくすぐって、無意識のうちに深く息を吸う。


「待っててもらう時間がもったいないから作っちゃった。もうすぐ全部できるよ」


料理を見下ろしていたわたしに岡辺さんの声が横からかかる。おいしそうなそれらから視線をはずしながら、手に提げていた小さな白い箱を差し出した。


「モンブランです。お口に合うかわかりませんが、よかったら食べてください」


わたしが知る中でいちばんおいしいケーキ屋さんのモンブランだ。ゆっくりと長い腕を持ち上げて、岡辺さんが箱を受け取る。


「合うよ。絶対合う」


見上げた先にある感極まったような表情は予想外だけど、喜んでもらえたようでとりあえず安堵する。


「このまま取っておきたいくらいうれしい」

「言い過ぎですよ」

「そんなことないよ」


笑みがもれる。岡辺さんはまだ立ち尽くしている。「喜んでもらえてうれしいです」という言葉が喉元まで出てくる。岡辺さんといると、その素直さにあてられる。


「いつものお礼です。それと昨日経営部の大柳さんと会議だと耳にしたので。いっしょにいると疲れるって有名な人なので」

「うん、疲れた。嫌味言われるし、話が全然進まないし」


本当に疲れたような表情を浮かべる岡辺さんがめずらしくてつい見ていると、箱から視線を上げた岡辺さんと目が合う。


「あとでいっしょに食べよう。今サラダもってくる」



岡辺さんが作ってくれたのはイタリアンだった。


「おいしいです」

「でしょ? 得意料理」


テーブルの向こうで岡辺さんがあどけない表情をする。並ぶ料理たちは色鮮やかで、味もお店のものとは違ってどこか家庭的なのに風味豊かでおいしい。


視線を落としてパスタをフォークに巻く。この場で聞こうと昨晩思っていた言葉は、いざ岡辺さんを前にすると声にならなかった。


『恋人役に期限はあるんですか?』


たった一言なのに喉につかえる言葉を、パスタといっしょに飲みこむ。お茶を手に取る岡辺さんの顔を一瞥してから心の中だけで息をついた。


この人と過ごす日々が終わることが、終わりを覚悟することが、わたしは怖いのかもしれない。岡辺さんと過ごす時間はなんだかんだ楽しいし、そばにいない時間も含めて心地がよくて、そして。


「ね、市村さん」

「はい」

「今度は市村さんの手料理が食べたいな」

「かろうじて食べられる程度のものしか作れませんよ」

「いいよ」

「栗ごはんにします?」

「ううん、味噌汁とチャーハンがいい」


先週の会話を思い出す。ふっと自分の頰がゆるむのを感じながら「わかりました」と答える。


離れがたいな、と思った。

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