幕引き


あっという間にやってきた次の土曜日。さすがにいつも通りのチャーハンと味噌汁を出すのははばかられて、シンプルな卵チャーハンと具沢山の中華スープを用意した。


「おいしい」


岡辺さんの作る料理に比べたらまったく大したことのない出来だし、そもそもこの平凡なアパートの平凡な一室にいることがどことなく浮いて見えるにもかかわらず、岡辺さんはあたりまえのように座っていて、本当においしそうな顔をしてわたしの作った料理を咀嚼する。


「よかったです」


それでも褒めてもらえることは単純にうれしい。平日の夜に2回練習したことは秘密だ。


「岡辺さん」


ほぼ同時に食べ終えてお皿を下げてから、岡辺さんが持ってきてくれた梅のゼリーを冷蔵庫から取り出した。中に梅の実が入っているそのゼリーは見た目にも楽しい。冷たくて甘酸っぱいそれを一口食べたあと名前を呼ぶと、岡辺さんは「ん?」と視線を上げてわたしの目を見た。


返ってきた柔らかい声音に、内心では緊張しながらも体の力がゆるむ。言える、と思った。


「恋人役を降りたいんです」


離れがたいと気づいてから1週間、考えてみた。わたしはこのまま、成り行きに自分の立ち位置を委ねて、与えられるままにそれを甘んじて受け入れていくんだろうか。


岡辺さんは持ち上げていたスプーンを口につける前にゆっくりと下ろすと、驚いたような困ったような、いわゆる青い顔をして固まってしまった。


「なんで?!」


少しの間のあと、岡辺さんはわたしを見つめたまま口だけを動かした。その揺れる瞳とは対照的に、彼が意思が強くて努力家で自信家なことを知っている。


『努力したからだよ』


今までのように流れるままに過ごすよりも、努力をしてみたらなにかが変わるのかもしれない。岡辺さんとの日々を続けたいと思っているなら、終わりがくることを怖がっているだけではなく、終わりがこないことを祈っているだけではなく、先に進むための努力をしようと思った。


「岡辺さんの恋人になりたいんです」


照れくさくても目を逸らさずにいられるのは、きっと相手が岡辺さんだからだ。不思議だ。この人の前だと、少しの勇気を出すだけでいつもよりずっと素直になれる。岡辺さんの返事を待っていると、その形の良い唇が小さく開いた。


「泣きそう」

「え」


思いがけない返事に内心で慌てるわたしに気づいていない様子の岡辺さんは、視線を落としたままゆっくりと続きをつぶやく。


「うれしくて」


その言葉に、今度はわたしが目を丸くした。岡辺さんは「びっくりした」と胸をなでおろすようにして大きく息を吐き出した。待って。今はわたしがびっくりしているんですけど。


「うれしい、んですか?」


岡辺さんは下げたままだったゼリーののったスプーンをようやく口に運ぶ。


「うん、うれしいよ。話すと長くなるけど」

「ぜひお願いします」


自己完結して話を終えそうだった岡辺さんの言葉に返事を返すと、岡辺さんは考えるような表情をしてから小首を傾げた。


「つまり、3年前に居酒屋で介抱してもらったときからずっと、また会いたいなって思ってたんだよね」

「はあ」


話がつながるようでつながらない。混乱している頭を回転させているあいだにも岡辺さんはゼリーをもうひとくち口にした。


「あのあと居酒屋に毎週通ったのにちっとも会えないから、ほかの店員さんに聞いてみたらやめたって言われて」

「ああ、卒業ですね」


思い起こせば、あのときは大学卒業を控えていた時期だった。卒業直前にバイトをやめたから、岡辺さんが足を運んでくれたころにはもういなかったのかもしれない。


「なんてタイミングなの。打ちひしがれたよ」


当時を思い出したように悲痛な声で語る岡辺さんに視線を寄せながら、頭の中に残るひとつの疑問はますます大きくなる。


「どうして恋人じゃなく恋人役になってほしいって言ったんですか?」


話を聞くかぎり、岡辺さんは居酒屋で会った日以来わたしのことを気に留めてくれていたらしい。この関係が始まった夜、「恋人になって」と言われたとしてもおかしくはなかったような話ぶりだ。


「だって、会社で会ったときがほとんど初対面みたいなものだったでしょ。役って言わなかったら断られる気がしたから」


たしかに。あの日の自分を想像してみると、まだよく知らない岡辺さんに単に「恋人になって」と言われていたら断っていたような気がする。


「異動してきて市村さんを見つけたとき、陳腐な言葉だけど運命だと思ったんだよ。また手遅れになる前に行動しなきゃって思ったし、失敗したらもう取り戻せない気がした」


岡辺さんでもそんなふうになにかを恐れたりするんだな、と落ち着きを取り戻しながらおそらく場にそぐわないことを思う。


「恋人役を探していたわけではないんですか?」

「うん。結婚を訊かれるのは本当だけど、どうでもいいと思ってたし」


あっけらかんと答えながらも岡辺さんは真面目な表情で続ける。


「どうしたら市村さんが頷いてくれるか必死に考えたよ。外堀埋めてからゆっくり僕のこと知ってもらって、好きになってもらって、それから付き合ってって言うつもりだった」


なんでも涼しい顔をしてこなす岡辺さんが、わたしのことで必死になっていたらしい。伏せられたまぶたを見つめながら、心が軽くなっていくのを感じた。


「じゃあ、作戦成功ですね」


男の人に思うかわいいは好意とほとんど同義なんじゃないかと、ふと思う。目を丸くした岡辺さんがそのままの表情で口を開く。


「ねえ、その言い方かわいい」

「はい?」


思わず聞き返すと、岡辺さんは目を細めてうれしそうに笑った。





エリートによる恋人計画の、


(想定外な幕引き。)

(そして、ふたりの新たな幕開け。)

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