分けあえばいい


「昨日おいしいマンゴーをもらったんだよ」


小籠包を食べ終えた岡辺さんが口を開いた。続けて「マンゴー好き?」と小首を傾げながらわたしを見る。


結局橋屋ではない、ちょっと本格的な中華料理屋さんの回転テーブルについている土曜日のお昼。外はパリパリ、中はとろりとした春巻きを咀嚼し終えた。


「はい、好きです」


けど、と疑問に思いながら言いかけると、テーブルの向かい側に座る岡辺さんの口元に笑みが浮かぶ。


「よかった。このあと時間あったら、うちに寄らない? 少しもらってよ」


なんとなく既視感を覚えて、面と向かって訊かれると頷きがちなわたしの性分がバレているんじゃないかと勘繰りつつも、ありがたく「いただきます」と答えて、お店を出ると促されるまま岡辺さんの車に乗った。


高層マンションの最上階とかじゃないだろうか、と若干緊張しながら助手席で揺られているうちに着いた先は、ごくごく普通の、とは言いがたい、高層ではないけれどちょっとおしゃれな黒っぽいマンションだった。


かろうじてオートロックがついているわたしのアパートとはもちろん違う、広いエントランスを岡辺さんの背中を追って進む。5階で止まったエレベーターから降りて少し歩いたところで、岡辺さんが立ち止まった。


「ここだよ。持ってくるから、玄関で待っててね」


シックなデザインの黒いドアノブに手をかけた岡辺さんをその場で見送るつもりで立っていると、ドアを大きく開いて一歩下がった岡辺さんと目が合う。お互いにわずかに首を傾げた直後、入って待ってていいってことかな、と考えたのと同時に岡辺さんが口を開く。


「あ、ごめんね! 玄関に入って待ってて」


岡辺さんの前を通り、思わず慎重に足を踏み入れながら気づく。きっと、わたしは岡辺さんの内側をもっと知りたいと思い始めている。




今度こそ岡辺さんの背中を見送ってから、待っているあいだに何気なく玄関を眺める。受けるのはきれいという印象で、それは内装がというよりも掃除や整理整頓がされているきれいさだと思った。


そうしているうちに廊下の先からカサリと乾いた音とともに岡辺さんが戻ってくるのが見える。近づくにつれて岡辺さんの圧迫感が強いなと思ったら、玄関の段差によっていつも以上に身長差が開いているせいだった。差し出される白い紙袋を見下ろすと、赤色とも橙色とも言えない濃い色が目に入る。


「おいしそうですね」

「でしょ? おいしいよ」


言いながら伸ばした自分の指先が紙袋に触れる直前、「あのさ」とつぶやくような声が落ちてくる。視線を上げると、岡辺さんの視線は紙袋に向けられていた。


「よかったら、一緒に食べない?」


そう尋ねた岡辺さんの声はいつになく小さい。ささやくような声で、自信がなさそうに話す岡辺さんを初めて見る。


新鮮さと驚きとともに、なんだかかわいいなという感情がじわじわと湧いてきて自然と口元がゆるんだ。「はい」と答えながら上がった口角に気づかれないように、慌てて唇に力を入れた。


岡辺さんのあとについて廊下を進むと、大きな窓のあるリビングに出る。白を基調としたその部屋は狭すぎず広すぎず、シンプルな家具で揃えられていた。


「適当に座っててね」


岡辺さんはソファーの横まで来ると踵を返して、一人キッチンに向かっていく。その後ろ姿に目をやってから、キッチンに背を向けて置かれている触り心地のよさそうなソファーに視線を戻す。しばらく考えてから、岡辺さんの後を追うようにキッチンに足を向けた。


「見ていてもいいですか?」

「え、緊張する」


さっきのしおらしさはどこへやら、自宅だからか鼻歌でも歌い出しそうな表情でまな板と包丁を取り出している岡辺さんに声をかけると、驚いたような表情と声が返ってくる。それでも迷惑そうな感情は見当たらなかったから、そのまま岡辺さんと向かい合うようにキッチンの前に立ってみた。


「岡辺さんでも緊張するんですね」

「するよ。僕のことなんだと思ってるの」


冗談混じりに言うと、岡辺さんはさっきと同じような声音で答える。ためらいのない手つきでマンゴーに包丁を入れ始めた岡辺さんの後ろには、調味料や調理器具が並ぶガラス棚が見えた。視界の左隅にはいくつかの食器が立てかけられている水切りかごが映る。


「なんでもできる人だなと思ってます」

「そうなの?」


マンゴーを包む左手と包丁を握る右手の動きを眺めながら、本音を言う。


「なんでもはできないよ」

「そうかもしれませんが、仕事も家事もできるように見えるので」

「それはそうだね」


謙遜のけの字もない言葉が返ってきたけれど、不思議と嫌味はない。


「仕事と家事ができるのは努力したからだよ」


岡辺さんはなんでもないことのように軽くそう付け加えながら、包丁を滑らかに動かしてマンゴーにさいの目状の切れ目を入れる。


「そうなんですか?」

「褒められるのってうれしいでしょ? 家族に褒めてもらいたくて家事も勉強も習い事も、がんばったんだよね」


子どものころの小さな男の子だった岡辺さんが頭の中に思い浮かんで、ほほえましくなった。


「仲のいい家族なんですね」


岡辺さんはうれしそうに笑ってから、美しく切られたマンゴーをお皿の上にのせた。




「市村さんの話も聞かせてよ」


テーブルについてマンゴーを一口食べたあと、岡辺さんは光沢のある銀色のスプーンを手に持ったまま期待のこもった視線を向けてきた。大容量の冷凍マンゴーとは明らかにちがう濃厚な香りと甘さを飲みこむ。さっき思い浮かべた幼い岡辺さんを思い出してから、自分の過去を思い浮かべてみた。


「あらたまって聞いてもらうようなおもしろい話はないんですけど」


謙遜でもなんでもないのが困ったところで、ほんとうに聞いてもらうほどの話が思いつかない。記憶をたどりながらもさっき岡辺さんが口にした『努力したからだよ』という言葉が頭から離れないでいた。


「わたしは、努力はあまりできない子どもでしたね」

「へえ」


納得とも意外ともとれない声音を、目の前のマンゴーをスプーンで掬いながら聞いた。視界の隅に入る、動きを止めた岡辺さんから続きを待つような視線を感じて、つい口を開く。


「さっきの岡辺さんの言葉を聞いてふと思ったんですけど、わたしが仕事も私生活もどこか中途半端なのは努力を昔からあまりしてこなかったからなんだろうなって」

「そうなんだ? 仕事は中途半端には見えないけどね」


やっぱり言わないほうがよかったかもしれないと思い始めた直後に思わぬ言葉が返ってきて視線を上げると、岡辺さんは小首を傾げていた。つられて首を傾げそうになりながら口を開く。


「そうですか?」

「だって周りのフォローがうまいよね。目を配りながら気を配りながら仕事するって、なかなかできないっていうか僕にはできないよ。人の言ったこともよく覚えてるし、頼りになる」


そうだろうか。というよりも岡辺さんがわたしの仕事をそんなに見ていてくれていることが意外だった。忙しい人なのに、と思っていれば「市村さんって」と岡辺さんの言葉が続く。


「現実的なのにネガティブなんだね」


現実的かどうかは置いておいて、ネガティブなのは自覚がある。言葉だけ聞くとデリカシーが欠けているのに岡辺さんは新しい発見をしたような純粋な目をしていて、自然と笑みがもれた。


「そうですね」


そう答えて、マンゴーにスプーンを入れながら思い至る。


「岡辺さんは現実的なのにポジティブなところがありますよね」

「そうかもしれないね」


頷くように答えた岡辺さんは、口元からスプーンを下ろしながらほほえむ。


「じゃあ僕といっしょにいて分け合えばいいよ」


さっき口に入れた、まだ少し大きかったマンゴーを飲みこむ。視線が合うと「どう?」と楽しそうに付け加えてから岡辺さんは次の一口を掬う。


いったいどこまでが本気なんだ。言葉全部を素直だと感じられるところは変わらないのに、岡辺さんの気持ちを推しはかる自分がいる。


「わたしが岡辺さんにあげられるものがネガティブさしかないじゃないですか」


苦笑が混じる。恋人ではなく恋人役になってと言ったからには恋人の存在は求めていないんだろうけれど、恋人役のわたしはいったいどこまで踏みこんでいいんだろう。


「そんなことないよ」


思いがけず少し強い声が返ってきた。岡辺さんは「そんなことない」と今度はいつもの穏やかな声音で、確かめるようにもう一度言う。


その声がなぜか優しく耳に届いて、ほんの少しだけ泣きたくなった。泣かないけど。

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