彼女です
すっきりとした白壁のお店の前で待ち合わせる。街灯と照明が重なり合う薄明るい夜に会う岡辺さんは、あの始まりの夜の彼を思い出させた。
「居酒屋だけど料理が本格的でおいしいんだよ」とお店に入る直前に岡辺さんが話していたことを思い出しながら、目の前にコトンと小さな音をたてて置かれた揚げ出し豆腐を見つめる。
焼き物のような厚いお皿の上で白い湯気をたてるそれはひとつひとつが大きくて、その上にのる葱の青さも映えていた。
「ずっと思っていたんですけど、こんな素敵なお店ばかりどうやって知るんですか?」
煮物がこれまたおいしい。頼んだ料理を一通り口にしてから感嘆の息とともに尋ねると、岡辺さんはふっくらとした黄金色のだし巻き卵を一切れ口に運びながらしれっと言う。
「年の功だよ」
「そんなバカな」
もぐもぐと口を動かし始めた岡辺さんを見つめて、この人がたとえばファミレスに座っている姿なんて想像できないな、と思う。
「外食するときはいつもこういったお店で食べているんですか?」
「こういった?」
「ちょっといい店というか」
「そんなことないよ。どんなお店も行くよ」
「ファミレスとか」
「うん」
これまでに連れて行ってもらったお店を思い出しながら半信半疑で「そうなんですか」と頷くと、「橋屋の水餃子とか好きだよ」と岡辺さんはわたしの内心に気づく素振りもなく大手中華チェーン店の名前をあげた。
橋屋は焼き餃子が看板メニューだったと思うけれど、水餃子と言うところがなんとなく岡辺さんらしい。というかそもそも橋屋はファミレスなのか?とファミレスの分類に首を傾げつつ、揚げ出し豆腐に箸を伸ばす。
「じゃあ今度は橋屋に行きませんか?」
「市村さんも好きなの?」
「ふつうに好きですよ。というより、いつもいいお店にばかり連れてきてもらって申し訳なさもあるので」
そう言うと岡辺さんの目が丸くなる。つい先週もこの表情を見たような、と考えているうちに「申し訳なくなんか思わなくていいよ!」とその口が開いた。わたしを見る岡辺さんの目が真剣そうに見えて、思わず烏龍茶の入ったグラスに伸ばしかけていた手を止める。
「市村さんと一緒ならどこにでも行きたいけど、せっかく連れて行くならおいしいものをゆっくり食べてほしいと思って、こんなお店ばっかりになっちゃうだけだから」
穏やかな声と真剣な表情でなにを言い出すんだこの人は。
どういう意味で岡辺さんが言ったのかわからないけれど、それを尋ねる気はないし勇気もなかった。そもそも答えを得たところでなにかが変わるわけでもないと気がつく。ただ不可抗力で赤くなってしまった気がする頬を隠すために、少しだけうつむいた。
そうして、視線の先にあった自分の箸を見ながら思う。岡辺さんの言葉はいつも飾り気がなくて、たぶんとても素直で、わたしにはないものを見ているようで目がチカチカする。いや、心がチカチカするような、そんな感覚を覚える。
ようやく「そうですか」と片言で返した声には「うん」と軽やかな返事が返ってきて、視線を上げれば岡辺さんは何事もなかったかのようないつもの表情で天ぷらをつまんでいた。
「もう暗いから家まで送らせて」
かばんを手に取り、岡辺さんが立ち上がるのとほぼ同時に腰を浮かせると声が降ってきた。咄嗟に言葉が出てこないまま岡辺さんを見上げ、迷いながらもつい「ありがとうございます」と答えると、「近くの駐車場に停めてあるから」と岡辺さんが振り返った。
お店を出て並んで歩き始めるとまもなく、「あ」と聞こえてきた小さな声に隣を見上げる。
「あれ、岡辺?」
耳に入ってきた知らない声に再び顔を前に向けると、歩道の向こうから歩いてきた40代くらいの男性の視線が岡辺さんに向けられていた。
「おつかれさまです。ご無沙汰してます」
「ひさしぶりだな。元気か? ていうか彼女か?」
不意に下りてきた視線と笑顔にとりあえず微笑みを返しながら、彼女ですと頷いていいんだろうかと考えたのも束の間、隣から「はい」とはっきりと答える声が降ってくる。思わず見上げると、岡辺さんは顔色ひとつ変えずに男性を見ていた。
それからニ、三言を交わしたあと、ふたりは「じゃあまたな」「はい、また」という言葉とともにすれ違うように足を踏み出す。我に帰ったわたしも一歩遅れて足を踏み出した。
「入社したときの上司なんだ」
「そうなんですね」
歩みを止めないまま岡辺さんが説明をしてくれる。それに頷きながら『彼女か?』と尋ねた男性の声とそれに『はい』と答えた岡辺さんの声が脳裏をよぎった。
あのとき迷うことなく肯定してもらえて、なぜか少しだけうれしかったのだ、わたしは。同時に、自分が岡辺さんの恋人役として役目を果たしている瞬間を目の当たりにしたことで、今まで見えていなかったこの関係の終わりが突然頭の中に思い浮かんだ。
その両方に、戸惑っている。感じた気持ちからも、見えてきた近いのか遠いのかわからない終わりからも、目を逸らすように目を伏せる。その先にはわたしに速さを合わせて歩いてくれる岡辺さんの足先が見えた。
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