好きなものは?
「書類の確認をお願いします」
岡辺さんのデスクに向かい、手に持っていた数枚の書類を差し出すと、真剣な目とは対照的に「はい」と軽くて明るい返事が返ってくる。
会議や出張で不在がちな部長に代わって、副部長が部下の仕事を見る機会は多いように思う。岡辺さんが来てからもうすぐ1ヶ月が経つけれど、たとえば1年前からここにいますと言われても違和感がないなと書類に目を通す岡辺さんを見つめながらふと思った。
「先方には経過を報告した?」
「いえ、まだです」
「じゃあ今日中にこの資料を添付して、連絡を入れて」
「はい」
向きを変えて返された書類を受け取り、踵を返す。数歩進んだところで「市村さん」と呼び止められた。
初めて食事に行ってから2週間。聞き慣れてきた声に振り返ると、岡辺さんとちょうど目が合う。向けられるその眼差しは少しだけやわらかくなったような、そうでもないような。
「その資料、松本さんにも回しておいて」
「はい」
抜かりはない。
週に1回ごはんに行こうという言葉どおり、毎週岡辺さんからお誘いがかかり、わたしたちは週に1回昼食をいっしょに食べる間柄になった。
先週はお蕎麦屋さん。古民家を改装したような一軒家のお店で、筆と墨で書かれた達筆なメニューにはいろんな地方のお蕎麦の名前が並んでいた。『好きなだけ迷っていいよ』という岡辺さんの言葉に甘えて迷って選んだお蕎麦は、もちろんおいしかった。
そして今週は。
「ひとつずつ好きなの頼むのと、おまかせとどっちにする?」
「……おまかせで」
「2人とも本日のおまかせ10貫でお願いします」
「はいよ」
お寿司は大好きだけど、いつも1皿100円とか200円の回転寿司に行くわたしにとって、回らないお寿司屋さんは未知の世界だった。それに加えて、初めて岡辺さんのとなりに座っている。肩を並べるこの位置はなんとなく落ち着かない。
「イサキです」
よく通る声とともに最初の握りがカウンターの向こう側からすっと差し出されると、おいしさって見ただけでもわかるものなんだ、とつややかなその表面に思わず見入る。岡辺さんが手に取ったのを横目で見てから手を伸ばした。
「きらいな食べ物はないって言ってたけど、好きな食べ物は?」
3貫目を食べ終えたころ、岡辺さんの声がして右隣に顔を向けると岡辺さんもこっちを見ていた。
「お寿司好きです」
「へえ、よかった。もっと食べる?」
「いえ、十分です」
頰をゆるませた岡辺さんは本気なのか冗談なのかわからない声音で聞く。「ほかには?」と続いた声に、少し考えてから口を開いた。
「揚げ出し豆腐が好きです」
「渋いね」
「よく言われます」
岡辺さんがふっと笑った。つられてわたしの口元もゆるんだ。「アジです」という声とともに、薬味ののった握りが目の前に差し出される。
「岡辺さんは好きな食べ物ありますか?」
生姜の辛味とアジの旨みを堪能してから聞き返すと、すぐに返事が返ってくる。
「モンブラン」
かわいいな、と食い気味に浮かんだ感想は喉元で止めた。
「甘いものお好きなんですか?」
「うん」
意外であるような、そうでもないような。岡辺さんとモンブランを並べて想像してみると、うん、けっこう似合う。
「あとは栗ごはんかな」
「栗がお好きなんですね」
なんの変哲もない相槌だったと思うけれど、岡辺さんの目がなぜか丸くなる。
「たしかに!」
そして目から鱗とでもいうような表情で、どっちも栗だったね、栗ごはんは最近好きになったから気づかなかった、とつぶやいた。
仕事に抜かりはなくてもプライベートは抜けているらしい、というか抜けすぎじゃない?と思っている間に「来週は揚げ出し豆腐を食べに行こうよ」という楽しそうな声が聞こえてくる。
「いえ、栗ごはんに行きましょう」
ほとんど反射的にそう返してから、言わなければいけないことを思い出した。
「来週は、土曜日も日曜日もお昼に用事があるんです」
「すみません」と続けると、「そうなの?」とこぼした岡辺さんの目がみるみるうちに悲しげになっていく。あ、また子犬のような目だ、と思ったとき自覚する。わたしはたぶんこの目に弱い。
「会いたい」
視線を落としかけるとまもなく聞こえてきた声に、驚いてもう一度岡辺さんに視線を戻しながら言葉を失った。てっきり来週はなしだねという返事が返ってきて、食事は1回流れることになるだろうなと考えていたから、予想にかすりもしない返事とどこか甘えるような声になんと応えたらいいのかさっぱりわからない。
わたしたちは「恋人」ではなく「恋人役」なんだよね?と確かめるように心の中で自分に問いかける。そんな戸惑いの間にも岡辺さんから向けられつづける視線に、口からは「えっと」と意味のないつなぎの言葉が出てきた。
「土曜日の夕方からなら空いてますけど」
「じゃあ土曜日ディナーに行こう」
とたんに輝き始めた目に否定の言葉を返せるはずもなく、夜に会うのは本当の恋人みたいで気が引けるなと漠然と思っていた気持ちは奥に引っ込み、まあいいか、という気持ちが残って小さく息をついた。
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