ごはんに行こうよ


青天の霹靂。寝耳に水。あと、なんだろう。わたしの語彙からはもう出てこないけれど、つまり、「なにがどうしてこうなった」。


「市村さん、きらいなもの特にないって言ってたから僕の好きなフレンチのお店にしたよ。味はどう?」

「おいしいです」


一口食べれば、フレンチなんて食べ慣れていないわたしの舌でもおいしさがわかる。この美しい料理たちはきっと本領を発揮しきれていないだろうけれど。


時は土曜日の正午ごろ。テーブルの向かい側に座るのは「でしょ?」と少し得意そうに口元をゆるめて、流れるような動作で手元の前菜にフォークとナイフを滑らせる副部長。


彼から料理へと視線を戻して、白いテーブルクロスの上のこれまた真っ白なお皿の右端にのっている、三角形のキッシュを一口サイズに切る。


ほうれん草と思われる深い緑色が覗くそれを口に運びながら、この奇妙とも言える食事会の発端を走馬灯のように思い出す。



自分のデスク周りの散らかりようを見て見ぬふりをした、その月曜日は久しぶりに仕事がたまっていた。先週、先々週に急ぎの仕事以外を放ってさっさと帰宅していたから、そのツケがきっちりと回ってきただけなのだけれど。


月曜日は早めに切り上げて帰る人が多いから、その日もぽつぽつと周りの人たちは帰り始め、気がつくと19時を回っていて、つぎに顔を上げたときにはフロアに残っているのはわたしと副部長だけになっていた。


その状況に少し驚きつつ、副部長の横顔を一瞥してからパソコンに視線を戻す。軽く首を回して、キリもいいしそろそろ帰ろうかと考えながら再び視線を上げたとき、副部長と目があった。


『おつかれさまです』

『うん、おつかれさま』


見つめあって数秒。無言で目を逸らすのも不自然に思えて、当たり障りのないあいさつをする。視線を落としかけたとき『市村さん』と名前を呼ばれた。


『相談があるんだけど、そっちに行ってもいい?』


相談、という言葉の意味を思わず考える。この人が? わたしに? わたしがこの人に、ならまだありえる話だろうけれど。


『相談ですか』

『そうそう』

『あ、いえ、わたしがそちらに行きます』


腰を浮かしかけた岡辺さんを制し、立ち上がる。なんだろう、わたしに聞くことなんて、と考えているうちに岡辺さんのデスクの前にたどり着いた。


『唐突な相談なんだけど、僕の恋人役をしてくれない?』


ほかに人のいないフロアはしんと静かで、広く感じる。蛍光灯の光は昼間よりも白く遠く見える。目の前の岡辺さんはわたしを見つめると、顔色を変えずに言い放った。


『唐突ですね』


それ以外に返す言葉が見つからなかった。



鯛のポワレのなんとかソース添えです、と店員さんがそつのない動作でお皿を差し出しながらにこやかに説明してくれた料理を視線だけで見下ろす。


ほどよく焼き目のついた皮。側面の身はふっくらと白く、その下には濃いオレンジ色の名前の聞き取れなかったソースが広がる。


見た目も匂いも味覚をくすぐるような料理や、つやりと磨かれたカトラリーについ背筋が伸びるけれど、隠れ家のようなアットホームな雰囲気の小さなお店であることが救いだった。


「このお店はとくに魚料理が絶品なんだよ」


入店直後に比べるとだいぶ小さくなったものの、場違いなんじゃないかという緊張を抱えているわたしの心境なんておそらく知らない、この場にきれいに馴染んでいる岡辺さんに「そうなんですか」と相槌を打つ。


その流れで「このお店にはよく来られるんですか」と聞いてみると、岡辺さんはグラスを口に運んでいた手を止めて頷いた。


「うん。おいしいでしょ? 知り合いから教えてもらったんだよ」


でも内緒だよ?と人差し指を唇に寄せてほほえむ仕草が様になっていてズルい。このイケメンめ、と心の中でぼやいてからポワレにナイフを入れた。



『だめかな?』


思わず唐突ですねと返すと、岡辺さんは小さく首を傾げてまるで子犬のような無邪気な目でわたしを見上げた。だめというか、なんというか。ツッコミどころが多くて、なにから聞こうかと思考をめぐらせる。


『役っていうのは、どういうことですか?』

『30過ぎたとたん、結婚相手は?って聞かれることが増えたんだよね。それがいったん落ち着くように、しばらく僕の恋人としてふるまってくれない?』

『はあ』


納得だか疑念だかわからない相槌が出る。


『どうしてわたしなんですか?』

『覚えてない? 僕たち先週がはじめましてじゃないんだよ』


岡辺さんの口から出てきた意外な言葉に目を瞬かせる。彼の顔を見つめながら頭を回転させるけれど、思い当たる記憶は見つからない。


『どこかでお会いしましたっけ?』

『3年前に居酒屋で会ってる。市村さんバイトしてなかった?』


していた。大学の1年目から4年目まで、日本料理がメインのそこそこ繁盛している居酒屋でバイトをしていた。そんなところで会っていた?


『覚えてないかー。そうかあ』

『あの、ごめんなさい』


まるで犬が耳を垂らすように悲しそうな目になった岡部さんに、謝罪が口をついて出る。


お客さんとして来ていたんだろうか。一人一人覚えていられないけれど、相手が覚えているのに自分が覚えていないというのも申し訳なく感じていると、岡辺さんの座る椅子からキシッと小さく音が鳴る。


『トイレ前の廊下でうずくまってた酔っ払いに、水を持っていったことは?』


ある。覚えている。


『え、あの時の?』


言われてみれば、こんな人だった。まさか三拍子揃ったイケメンエリートが大衆の居酒屋で酔い潰れていたなんて思えないから、記憶が繋がらなくてもしかたなかった。


『思い出した?』


少しうれしそうに破顔した、その笑顔にやられたのかもしれない。頷いたわたしはその日から副部長の恋人役になったのである。



「聞きそびれていたんですけど、恋人役ってなにをしたらいいんですか?」


小さな丸いガトーショコラに、カットされたいちごとオレンジが寄り添うようにのっている。ひとくち口に入れるとチョコレートの濃い苦味と甘味が溶けるように口の中に広がった。


それを飲みこんでから、食事の間中胸につっかえていた疑問への答えを得るべく、口を開いた。


「週に1回ごはんに行こうよ。今日みたいに」


すると、岡辺さんはなんでもないことのように答える。それからガトーショコラを口に運んで咀嚼し始めた。


言葉につまって、思わず岡辺さんをまじまじと見つめる。


「それは……必要です?」

「ん? なんで?」


こっちがなんでと聞きたいくらいだけど、岡辺さんも心底不思議そうな表情で聞き返してくる。


「人に紹介するために恋人役が必要だったんじゃないんですか?」


てっきり岡辺さんの友人や家族に「彼女です」と紹介されるのが役割だと思っていた。だから、このランチにはなんの意味があるんだろうと思っていたのに。


「ううん。僕嘘つくのきらいだから、聞かれた時に彼女いるよって言えればそれでいいの」


岡辺さんの考えることはわたしの頭が考えられることとはかけ離れていて、よくわからない。


「はあ」


感服するような、呆気にとられるような。岡辺さんと会話をしていると「はあ」と言ってしまう頻度が高い気がするけれど、たぶん気のせいじゃない。



岡辺さんの恋人役に抜擢された月曜日の夜から、わたしたちの会話や間に流れる空気や生活が変わることはまったくなかった。


会社で交わす岡辺さんとの会話はあいさつと仕事の報連相のみだし、顔を合わせる頻度も話す頻度も態度も口調もなにもかも、あまりにもこれまで通り。


だから、あの会話は夢だったんじゃないかと疑っては自分のスマホを眺めて、月曜日の帰り際に交換した岡辺さんの連絡先が存在していることを確認する毎日を過ごすことになった。


『土曜日ランチに行かない?』


交換した連絡先が初めて役目を果たしたのは金曜日。昼休憩に食堂の席に着き、いつものようにスマホを取り出すと、朝の7時過ぎに岡辺さんからメッセージが届いていた。


今朝はバタバタしていて会社に着いてからもスマホを確認していなかった。画面に表示されている岡辺さんの名前と内容とタイムラグのすべてに衝撃を受けて、スマホを手に持ったまま固まる。


たった1行のメッセージを3回は読み返した。



お店を出ると「車で送るよ」と声をかけてくれた岡辺さんに「バス停が近いので」と断って、来たときと同じようにバスに乗った。ランチ代を結局全部支払ってくれた岡辺さんにお礼のメッセージを送っているあいだに、大きな窓の外は見慣れた景色になっていく。


「ただいまー」


アパートに着いて自分にだけ聞こえる小さな声でつぶやきながら、玄関の扉を閉めた。靴を脱ぎ、そのまま部屋の奥まで進んでベッドのそばにハンドバッグを下ろす。


白いレースカーテン越しに光が薄く差し込んで、天井まで明るく照らしている。一人暮らし向けのこの部屋がどこかがらんと広く見えるのは、気持ちの問題だとしっている。


2週間前までこの場所にいた人は去り、つられてその人が使っていた物たちもきれいになくなった。でも、減った物はたいした量じゃない。


洗面所に手を洗いに行こうと思いながらも、ベッドの上に腰を下ろす。ふと冷静に思い返せば、岡辺さんの相談というか提案は突拍子もなかったけれど、それに頷いたわたしのほうが突拍子もなかった。


3年と少し付き合った彼氏とは約1年間同棲した。実家に住んでいた彼と、もともとわたしが一人暮らしをしていたアパートで一緒に暮らし始めた。


気がつけば熱は冷めていて、気持ちは少しずつ離れて、ここ半年ほどはただ別れを切り出せないまま、なあなあに付き合いつづけているだけだということをきっとお互いがわかっていた。


彼と別れたことが特別悲しいわけでも寂しいわけでもないけれど、長い時間をいっしょに過ごしてきた人がいなくなるということは少なからず心に穴をあけるのかもしれない。だれかといっしょに過ごしていたくて、わたしは岡辺さんの提案に頷いたのかもしれなかった。


ふう、と軽く息をついて、腰を上げる。洗面所へと足を向けた。


帰り際、バスで帰る旨を伝えると、岡辺さんは予想していたかのように「そう?」と引き止めることもいやな顔をすることもなくあっさり頷いて、「じゃあまた月曜日にね」と笑顔でわたしを見送った。


ちょっとした約束のようなその言葉を、わたしはその日と日曜日に何度か思い出していた。

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