第118話 滅んだ世界
疲れた顔をした女性が、謁見の間に入ってくる。
ロダス・エルヴァーシュ。
エルヴァス国の王だ。
ヨルは立ち上がり、武人式の拝礼でロダスを迎えた。
「よせ、そう畏るな」
「そういうわけにはいきません」
「私とお前は、本来対等な関係だろう」
「私が聖女だったのは、もうずっと前の話です」
「そうだったな。聖女をやめ、今や英雄だ。無能な王よりも、よほど国民から必要とされている」
「そんなことはありません。あなたが王でなければ、この国はとっくに滅んでいます」
「どうだかな。……先王は暗君として歴史書に名を残した。私はどうなることやら」
「当然、明君として……」
「後の世に、歴史書があればな。いや、後の世があれば、の方が正しいか」
「…………」
ロダスは自重するように笑う。
「すまない。お前はそうは思っていないようだが、私はお前を対等な相手だと思っている。弱音を吐ける相手が、他にいないのだ」
「それであなたの荷が、少しでも軽くなるなら」
「ありがとう。……少し、混乱している。報告はすでに聞いた。それをどう受け止めればいいのか、わからなくてな。お前が下界で見たもの……」
ロダスは戸惑ったように言う。
「……事実、なんだな?」
ヨルは頷いた。
「空の向こうを——青い空を、初めて見ました」
「そうか。私が幼い頃は、稀に空に穴が開くこともあったのだが……」
ロダスは窓の外に視線をやる。
凍てつく大地を、灰色の雨が汚す。
いつもの光景だった。
「ミレヤ様のお導きか」
「ええ。ただ……」
いい澱んだヨルの言葉を引き継ぐように、
「報告にあった男か」
とロダスが言う。
「……はい」
「私が信じられんのは、その話だ。……本当に、お前より強いのか?」
どうやら報告は、少し歪んで伝わっているようだ。
ヨルは首を振る。
「現状では、私の方が強いでしょう」
「なんだ」
強張った顔が綻ぶ。
「それなら、なんの問題も」
「現状では、の話です」
「……どういうことだ?」
「私は、これ以上強くなることはないでしょう。すでに限界まで鍛えてしまっている、そのことが感覚でわかるのです。技術や経験の蓄積、武器性能の向上で多少は強くなっても、劇的に成長するようなことはもうありません」
でも、とヨルは続けた。
「あの男は違いました。底が見えなかった」
一撃だ。
ヨルは思う。
私があの男に勝つには、一撃で仕留めるしかない。
心臓を貫くだけでは不十分だ。
首を刎ねるか、頭を潰すかしなければ。
もし仕損じれば、その時は——
あの男は私の強さに順応してしまうだろう。
自傷に近い鍛錬を積み、何度も死線を潜り抜けてようやく辿り着いたこの境地を、あの男はものの半歩で踏み越えてしまうだろう。
(もしかしたら、もうすでに……)
「なら、なおのことだ」
ロダスが戸惑ったように言う。
「なぜ逃げ戻ってきた? 相手は武器を手放したのだろう? その場で仕留めるのが最善手じゃないか」
「……申し訳ありません」
「…………」
ロダスは椅子に深く座り直し、大きく息を吐いた。
「すまない、お前を責めたいわけではないのだ」
「いえ」
「お前は、これからどうしたい?」
「私はあなたの駒です。私の意見など」
「わかっている。それでも、お前の意見が聞きたいのだ」
「……できることなら」
ヨルは血が滲むほど、拳を強く握りしめる。
震えを抑えるように。
恐怖に耐えるように。
「あれとは二度と、会いたくはありません」
「……そうか」
それから長い時間、沈黙が続いた。
雨が窓を打つ音だけが、延々と、ただ延々と——
「この世界は、とっくの昔に滅んでいる」
唐突に、ロダスが口を開いた。
「我々は、宿主が息絶え肉体が朽ち果てるまでのわずかな時間を生き永らえる寄生生物に過ぎん」
度重なる天変地異。
千年にも及ぶ隣国との対立。
攻め込んでくる上界の民たち。
彼らは一体、何が目的なのだろう。
こんな世界に侵攻してきたところで、得られるものなど何もないはずなのに。
それとも——
上界はここ以上の地獄だとでも言うのだろうか。
「最近、よく考える。先王は——父は正しかったのではないか、と。私は実の父をこの手で殺め、国民たちを無闇に苦しめているだけなのではないか。いっそ、一思いに死なせてやるのが、王の務めなのではないかと」
「…………」
「私たちにはもう、時間も選択肢も残されてはいない。お前にばかり負担をかけて、本当にすまないと思っている。だが……わかってくれるな?」
「はい」
「せめて私も、王の立場を捨てて、お前と一緒に戦えたらと……。そう思うのだがな」
「何をおっしゃいます。いつも共に戦ってくださるではないですか」
「え?」
「私に剣を教えてくれたのは、あなたでしょ、姉さん」
ロダスは、今にも泣き出しそうな顔で笑った。
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