第117話 未知との遭遇

 下界に足を踏み入れた途端、視界がくらりと歪んだ。

 攻撃されたのかと身構えたが、そうじゃなかった。


 青と緑。


 フルアーマー越しですら、空気が澄んでいるのがわかる。

 暖かで穏やかな風が装備の隙間から入り込んでくる。

 ヨルはふらふらと一歩を踏み出し、ぎょっとして足元を見た。

 土と下草の、柔らかな感触。


 貴族の庭園にあるような本物の草花だ。

 そんなものが、地平の果てまで続いている。


 ヨルはまた、空を見上げた。

 天井のない、抜けるような青空。


(ああ、やっぱり……)


 ヨルの胸を多幸感が満たす。


(私は、間違っていなかった)


 ミレヤ様は怒っていらっしゃらない。

 むしろ祝福してくださっている。

 こんな世界に、導いてくださったのだから——


 まさに天にも昇る心地で、ふらふらと歩く。

 その時だ。

 視界の隅に人影が見え、ふとそちらに視線を向けた。


 ——なんだ。


 一目で手練れの集団だとわかる。

 この距離まで接近に気づかないなんて、ヨルらしからぬ失策だ。

 一瞬で緊張感が高まり——


「動くな!」


 男が何事かを叫んだ。

 意味はわからなかったけれど、どうやらヨルにではなく仲間たちに向けられたもののようだ。

 今まさに飛びかかってきそうな姿勢で硬直している。

 ヨルも大剣の柄を握った格好で固まった。


 ——なんだ。


 女の中に一人、危険な者がいた。

 ヨルのパーティにいてもやっていけそうな佇まいをしている。

 そんな女が、武器を構えてこちらの隙を窺っていた。

 無警戒でいていい相手ではない。

 それなのに——

 ヨルの視線は、武器も構えず棒立ちしている男に向けられていた。


 ——なんだ。


 男が武器を手放した。

 どうやら争うつもりはないらしい。

 きっと彼らは、ダンジョンに用があったのだろう。

 先遣隊がやられ、本隊が動いた。

 そんなところだろうか。


 小声で何かを言いかわし、他の連中も武器を手放す。

 これ以上ないチャンスだった。

 この距離で、相手は無手。

 地の利もこちらにあった。


 ——なんだ。


 しばらく無言で睨み合ってから、ヨルはふと、大剣の柄から手を離した。

 キョロキョロと辺りを見回す。

 手近な木に手を伸ばし、枝をちぎった。

 足元の石を拾い、くるりと背中を向ける。

 それから悠々とした足取りで、ゲートに向かった。


 ——なんだ。


 ゲートを越えると、薄暗い通路が。

 仲間の姿はない。

 戻っていろと言ったのはヨル自身だ。


 ——なんだ。


 振り返らない。

 振り返れない。

 悠々とした足取りは、すぐに早足になり、やがて駆け足に——


 ——なんだ、なんだ、なんだ。


 そして枝と石を投げ捨てて、全力で走り出した。


 ——なんなんだ、あの化け物は!


 裏ボス。

 ジョークだったはずのその言葉が、ヨルの頭の中で反響する。


 階段を駆け上がり、勢いのままに天井に激突した。

 ボールのようにバウンドしながら、ボス部屋に転がり込む。


「お、お姉様っ!?」


 カッシの慌てた声。

 ゴロゴロと転がりつつ、その勢いすら利用して出口へと向かう。


「おい! 逃げるぞ!」

「え? でも、お肉が……」

「そんなものは捨ておけ!」


 ヨルが人前で——

 いや人前に限らず、これだけ取り乱すのは人生で初めてのことだった。

 物心ついたころから聖女として。

 その立場を捨ててからも、それまで以上に己を律し続けてきた。


 そんなヨルの狂乱ぶりに、仲間たちもパニックになる。

 彼らは荷物もろくにまとめず、ヨルの背中を追って、危険なダンジョンの中に逃げ去っていった。

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