第116話 下界
瞼の裏の闇が、ぐるぐると渦を巻く。
祈りを捧げている時、いつもヨルが見る心象風景だ。
いずれ自分もあの渦に呑まれ、ミレヤ様の元に還るのだ。
その事実に、安らぎを覚えた。
それと同時に——
一抹の不安があることも、また事実だった。
(ミヤレ様は、私を歓迎してくださるだろうか……)
——本当に、これでよかったのか。
何度目かもわからない自問に、気持ちが塞いでいく。
目を開けると、とっくに祈りを終えていた仲間たちが、ふっと息をつくのがわかった。
ヨルの祈りを邪魔しないようにと、呼吸音にすら気を遣わせていたみたいだ。
なんとなく、仲間たちの顔が見られなかった。
後半は祈っていたのではなく、ただ惑っていただけだ。
「ではでは、食事と致しましょう」
カッシの言葉に、待ってましたと男二人が盛り上がる。
神殿の隅に即席のかまどが作られ、火もすでにつけられていた。
ヨルも三人の背中を追いかけ、かまどへと歩み寄って行く。
その足が、ぴたりと止まった。
閉ざされたままの扉が、視界の隅に入ったからだ。
下界へと続く扉が——
「……」
「お姉様?」
カッシがこちらを振り返る。
その表情は、どこか不安そうだった。
ヨルが見つめる先に、その原因はあるのだろう。
「……先に始めていてくれ」
ヨルは兜を拾い、被り直した。
スリット越しの限られた視界。
周囲の音も遠のいて聞こえる。
そうやって世界から半歩離れることで、ヨルは残酷な現実と向き合っているのだ。
「まさか下界へ……」
「ああ」
「お待ちください。そんな」
「ダンジョンを攻略したからって、全てが終わったわけではない。むしろここからだろ。それに……」
ヨルは声を落とす。
「下界は地獄のような場所かもしれない」
ヨルの言葉に、三人の顔が曇った。
そんなこと、言われるまでもなく理解しているはずだ。
だからこそ誰も下界のことには触れず、束の間の歓びに浸ろうとしていたのだ。
水を差すつもりはなかった。
ヨルの中にだって、達成感や充足感は確かにあるのだから。
それでも——
「馬鹿かお前」とパッケが怒ったように言う。「だとしても、一人で行かせるわけがないだろ。待ち伏せとかされてたらどうすんだよ」
「だからこそ、一人で行くんだ」
ゲートは一人ずつしか通れない。
もし下界の民が待ち伏せていたら、すぐに引き返すつもりだった。
仮に爆撃されたとしても、その影響がゲートを越えることはないからだ。
でももし後続がいたら、撤退の妨げになってしまう。
安全を考えるからこそ、単独で下界に降りる必要があるのだ。
「だからって……」
まごつくパッケとは対照的に、
「確かに、お姉様のおっしゃる通りですね」
とカッシがキッパリとした口調で言った。
でも、と彼女は続ける。
「それは私の役目です。お姉様にもしものことがあってはいけませんから」
「ダメだ」
「どうしてですか?」
「情報を持ち帰らなきゃ意味がないからだ」
「だとしても、お姉様が出向くのは私が死んだあとでも遅くないはずです」
「死んだかどうかをどう確認する?」
「それは……」
「下界の民を刺激するだけ刺激して、情報も持ち帰らず無駄死にする気か? 傍迷惑な話だな」
カッシがぐっと押し黙る。
酷い言い草だと自分でも思うが、こうでも言わないと彼女が引き下がらないことを、長い付き合いで知っているのだ。
「安心しろ。本当にただ、様子を確かめるだけだ。あとで落胆したくないからな」
半分は本心で、もう半分は欺瞞だった。
ヨルは聖女の立場を捨てて、ダンジョンに挑むようになった。
そのことを賞賛する人々もいる。
例え聖女の立場を捨てても、その心はなによりも気高いと。
そうじゃない、とヨルは思う。
ヨルはただ、逃げただけだ。
祈ることしかできない自分から。
救いを求める無数の手から。
——ミレヤ様を信じられないのか。
神殿長の言葉が、いまだに耳の奥に残っている。
——お前の裏切りを、ミレヤ様は決して許さないだろう。
ヨルの主張は間違ってはいない。
下界がどんなところか確認する必要がある。
場合によっては、これまでの努力が全て無駄だったと突きつけられるかもしれない。
安全のために一人で偵察に行かなきゃいけないのも事実だ。
でもそれ以上に——
ヨルはただ確かめたいのだ。
自分の選択が間違ってはいないことを。
ミレヤ様を疑ったわけでも、裏切ったわけでもないのだと。
「ま、こいつなら大丈夫だろ」
場をとりなすように、ダックが言う。
カッシがキッと睨んだ。
「無責任なことを言わないでください。下界がどんなところかもわからないのに……」
「だからこそ、だと思うがな」
「どういう意味ですか?」
「こいつが逃げ帰ってくることすらできない世界だってんなら、もう無理だろ。諦めるしかねえよ」
色々とな、と最後に付け加える。
軽口を装っていたけれど、その言葉はあまりにも重かった。
それ以上の反対意見は出てこなかった。
下界へと続く扉を開けると、すぐに階段がある。
人ひとりが通れる程度の、狭く薄暗い階段だ。
ヨルが扉を潜ると、仲間たちもついてくる。
「ゲートまでの道が安全だと決まったわけじゃないですから」
ヨルが何かを言うより早く、カッシが言った。
「下界の民は、ボス部屋まで来てたんだ。罠が仕掛けられてる可能性もある」
ダックがそう言い、
「裏ボスがいないとも限らないしな」
とパッケは冗談めかすように続けた。
なんだそれは、と思ったけれど、絶対にないとは言い切れないのがダンジョンだ。
それにそれぞれの顔には、断固とした色があった。
結局ヨルは何も言わず、階段を降り始めた。
階段を降りた先には、ただまっすぐな通路が続いている。
人の姿も、魔物の気配もない。
罠が仕掛けられているようなこともない。
当然、裏ボスだっておらず、すぐに突き当たりのゲートに辿り着いた。
「お前たちは戻っていろ」
まだ何か言いたげな三人を振り返り、
「私の分の肉は残しておけよ」
と続ける。
珍しいヨルの軽口に、仲間たちは少し安堵したようだ。
「保証はできないな」
「さっさと帰ってこねえと、全部食っちまうぞ」
「安心してください、お姉様。お姉様のお肉は、私が死守しますから」
ダックが苦笑して、
「死守ってお前、大袈裟だな」
「たとえ死なせてでも守ります!」
「あ、死ぬのは俺ら?」
そんな仲間たちの声を聞きながら、ヨルはゲートを越える。
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