真夏【魅惑のアプリコット】

 仕事前の朝────息を呑んだ。横断歩道を渡り、進行方向のレトロな喫茶店に気づいて顔を上げると目が合ったからだ。


 ガラス越しでもわかる、赤が強いアプリコット色の唇と艷やかな黒髪が朝日に照らされている。


 片手に持っていた缶コーヒーを落としかけるくらいには、その一瞬は魅力的だった。


 長い黒髪を揺らして微笑み、視線を手元のカフェラテに移してストローで氷を混ぜる女性。カランという音がこちらに聞こえそうなくらい見入っていたと思う。


 すごく綺麗な人だ。目元と雰囲気に涼しさがある……。


 長い時間に感じられたが、後ろからきた自転車を漕ぐ音で自分が立ち止まっていたことに気づいて、恥ずかしさに顔を下に逸らした。


 一気に現実に引き戻されたが、もう一度見る。


 いつのまにか魅惑の彼女の前には女性が座っていた。彼女の口は開かず、鋭い視線で相手を射抜いており驚いた。


 何があったのか関係性など気になるが考える時間は短く、喫茶店を通りすぎるほかない。


 自分は普通に出勤しているだけなのに足を動かすごとに、まるで彼女に吸い込まれているようだ。喫茶店のガラスに近づくにつれて彼女の表情が鮮明になっていく。


 チラリとガラス越しに盗み見た姿に、また息を呑んだ。


 鋭い視線だけじゃない、綺麗な顔が眉間にシワを寄せて鬼の形相。二度目は息が詰まりそうだった。


 外した視線が彼女のカフェラテにいくと、水滴がかなり付いておりコースターには水がジワリと滲んでいた。


 相手をかなり待っていたようだと、推測する。


 分かることはこれだけで、興味はあったが結局通り過ぎていつも通り出勤する。これで立ち止まっていたら変人だ。人間の好奇心というものは刺激されるとこうも上手くいかない。


 いつもならこんな冷静さを欠かない。見ないでさっさと立ち去る。他人をジッと見つめるだけでも不躾だろうに。


 夏の暑さに頭もやられたかもしれない。それか彼女に魅了されたか? なんて喫茶店を過ぎても考えている。


 いや、夏のせいだなと決めつけて残っていた缶コーヒーを一気に飲み干した。様々な人に様々な人生のストーリーがあるのだろう。


 悲しみ、怒り、喜びなどのストーリー。その他人の一瞬を、ドラマでいうクライマックス時に自分が通りかかっただけだ。


 魅惑のアプリコットはあの後どうなったのだろう。ドラマの続きが気になるが……ああ、好奇心はやっぱり厄介だな。


 暑いからかと夏のせいにしておく。


 どうせ、もう職場につく頃には忘れている。そんなものだ。





終わり。

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