38.ばらと毒虫(5)
Ⅸ
気がつくと、市場のうらがわに立っていました。
ひとけのない場所を選んだのです。
ひさしぶりの日光と、外の空気に、むねがはずみます。
なにより、あの子に会えることがうれしくてたまりません。ひとめ見ようと、おおよろこびでかけ出しました。
市場にあふれるスパイスや、ガラスのランプ、カラフルな織物には目もくれず、あの子のもとへ。あの子のもとへ。
息を切らせて、屋敷の前にやって来ました。
すると、へいの外にも中にも、たくさんの人々がいます。
入り口の門が大きく開かれ、庭には花があふれています。木々や柱にはキラキラと光るかざりが下がり、音楽が流れています。
めかしこんだ人々が屋敷の中に入っていきます。音楽隊や大道芸人もいます。
若者が一度も見たことのない、屋敷の様子でした。
いったいなんだろうと、人々の話に聞き耳を立てます。
どうやら、今日はパーティーのようです。主人の妻が子どもを産んだので、出産のお祝いらしいのです。
あの子だ! と思いました。
主人の妻にさせられていたのだ。早く助けに行かないと。パーティーならば、マジックは
異国のマジシャンの格好をした彼は、大道芸人の中でもめずらしく、招待客たちがふり返ります。そんなことは気にとめず、恋人を探して進みます。
門をすりぬけ、人波をぬって、広間に入りました。
中央のソファに、主人と恋人が座っているのが見えました。
恋人は、赤んぼうを抱き、ふんわりとほほえみました。
となりに寄りそう主人と話し、またやわらかくほほえみます。
主人は、宝物でも見るようにまぶしそうに、目を細めています。
そこには、たしかに、幸せの香りがただよっていました。
若者の足が止まりました。
体がこおりつき、まわりの世界だけが動いていきます。
招待客や召使いたちのうわさ話が、かってに耳に入ります。
主人は結婚してから、人が変わったらしいこと。
妻を心から愛して、優しくしていること。
奴隷だった妻と結婚してから、妻とおなじ人種である奴隷たちにも、優しくなったこと。
食事と給金をたっぷりあたえ、ちゃんと休ませていること。
貧しい人を無償で受け入れる病院を建て、もうけを寄進していること。
奴隷たちは、よい主人にめぐまれたと思うようになったこと。
事実を知って、若者はよろめきました。
おれはどうすれば……
そのとき、広間の奥の祭壇が目に入りました。
祭壇には、若者の肖像画が飾られていました。
どうして?
ふらふらと肖像画に近づきます。
たしかに自分の顔でした。
近くにいる召使いの少女に、肖像画のことをたずねました。
まだ幼さの残る少女は、ぺちゃくちゃとしゃべってくれました。
「それは、この屋敷に仕えていた奴隷ですよ。不幸な事故で、死んでしまいましたが……。いい人でした。あたしの父さんが、助けられたことがあります。
その絵は、奥さまが描いたんです。奥さまの恋人だったんですよ。だんなさまの求婚を、奥さまはことわっていたけれど、恋人が死んで、受け入れたんです。そのときに『でも、わたしは彼を一生忘れません』と言って、この絵をここに置いたんです。
今では、奥さまはだんなさまと仲がよろしいですが、むかしの恋人のことも大切に思い続けていて、いつも花をそなえていますよ」
「主人はそれを許しているのか?」
「だんなさまのほうが、もっと、この絵に話しかけていますよ。仕事中の事故で亡くしたので、もうしわけない気持ちがあるのでしょうね。奥さまがいないときに、ひとりでこの絵に向かってあやまっているのを、何度も見たことがありますよ」
「あやまる?」
「すまなかった、ゆるしてくれと頭を下げて……。そうそう、死んだ彼に親はありませんでしたが、だんなさまは、彼の親類に手当てを出したり、めんどうを見たりもしているんですよ」
少女は「いけない、しゃべりすぎちゃった。すてきなマジシャンさん、ないしょにしてくださいね」と人差し指を口にあて、パタパタともどっていきました。
若者は、もう自分の出る幕はないとさとりました。
せすじをのばして、むねをはり、広間の中心に歩いていきました。
主人と恋人の前に、まっすぐ立ちます。
「さて、ご出産のお祝いに。何のへんてつもないシルクハットから、贈り物を出しましょう」
マジシャンらしい大げさな身ぶりで、ハットの中が空っぽであると見せていきます。
「たねもしかけもございません……アブラカダブラ!」
シルクハットからは、毒虫ではなく、大量の花々がふき出しました。
真っ赤なバラや、真っ白なユリや、ピンクのトルコキキョウ。
水流のようにあふれ出て、夫婦と赤んぼうにふりそそぎます。
夫婦はおどろき、そのあと、顔を見合わせて笑いました。
かこんだ人々が歓声をあげ、口々にほめます。
拍手と花びらが舞う中、マジシャンはぺこりと礼をして、けむりのように消えうせました。
「奥さま。どうか末永くお幸せに」
Ⅹ
洞窟では、大ムカデがとぐろを巻いてすわっていました。
彼は今ごろ恋人と再会しているだろうか、と考えていました。
そこに、若者があらわれました。
大ムカデはあわてて、女のすがたに変身しました。
それから、首をかしげました。もう会うことはないと思っていたのです。
若者は、すべてを話しました。
魔物は、悲痛な
「ごめんなさい。よけいなことをして、あなたを傷つけてしまった。それに、あなたを生きることもできない土人形にしてしまった」
「いいさ、あの子にまた会えたんだから」
「これからどうするの?」
「そうだな、あの子と子どもを見守ることにするよ。主人が完ぺきに心を入れかえたともわからないしね。危険がせまったら、こっそり助ける。あの子が天に召されるまで」
「そう」
「それだけでは時間があまってしまうから、世界を旅するのもいいかもしれない。このくつがあれば、あの子を見守りながら、どこへでも行ける。マジシャンのふりをして、世界中をめぐれるぞ」
「すごい。わたしは、この洞窟から出たことがないから……」
「興味があるなら、きみも行こう」
「え?」
魔物はもじもじと手をふりました。
「む、むりよ。わたし、化け物よ」
「人間に変身すればいい。それに、マジシャンには美女の助手がつきものだろ?」
若者がじょうだんめかしてウインクすると、魔物は、目をぱちくりさせました。
「だが、ひとまず、少し休みたい。生きている間ははたらきすぎたから。ここでねむってもいいかい?」
「ええ、もちろん」
「ありがとう。おれは親がなくて、行くあてがないから、助かるよ。目が覚めたらあの子たちを見守ろう。そのあとのことはそれから考えるさ。時間はたっぷりある。今はとにかく、どろのようにねむりたい……」
若者は、じゅうたんに横になると、あっという間に寝息を立てはじめました。
魔物は、若者にうすい織物をかけ、となりにすわりました。そして、
「ずっとひとりぼっちでさみしかったの」
とつぶやいて、顔に手を当てて泣きました。
おしまい。
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