卵が孵る時

 あさくらさとこがラジオのトーク中、「学生時代にはエキストラのバイトをしていたことがある」なんて話も挟んでくるのを思い出していた。あれだけの容姿と存在感だ、街を歩いていてスカウトされたことも少なからずあったのだと想像できる。それに何だかの国家資格も持っていて、その方面での実績に基づく著書もあるという認識だった。


 というよりは、それが彼女の始まりだったということを共有フォルダを見ながら焼きそばを食べていて初めて知った。単なる面白い人というわけではなかったのだ。余談だが身長は162㎝らしい。焼きそばは冷凍ではなく手作りだ。僕が自分で焼いた。



 朝倉さんは大学卒業後に製薬会社に就職するも、希望していた品質管理の職には就けなかった。入社して以来ずっと我慢しながら苦手な営業を続けているうち、新規の輸出入業務に関する仕事を任されるようになる。なんとなくだがやりがいを見出せた気がした。それから海外支社での勤務を何度か打診されるが毎回はっきりと断っていた。


 海外は怖い。それも望んでいるとは言えない仕事だ。その為に移住することなんて考えられなかった。それなのに何度断っても打診は続いた。回数を重ねるにつれて、だんだんと希望から遠のいてゆくのを案じるようになってきた。断り続けることへの後ろめたい気持ちもあったのだと思う。いつか「嫌なら辞めていいよ」と申し渡される日が来るかもしれない。その為の打診ではないだろうかとまで考えてしまう。ただでさえ職業婦人にはまだまだ風当りが強かった時代だ。


 彼女が入社5年目を迎える春のことだ。昼休みに会社近くの公園で喫煙中のところ、パートの主婦と知り合う。



「営業部の方ですよね?」



 ニコニコしながら声をかけてきたのは相手の方からだった。主婦かと思ったがそういういうわけではなく、高校生の娘さんがいる今でいうシングルマザーらしかった。当時は珍しかったのと、相手が若々しく見えたのもあって朝倉さんは驚いた。そのまま世間話を交わして朝倉さんはすぐに彼女を気に入った。相手も同じだったようだ。ちょっとした愚痴を言い合う仲になり少しは気が楽になった部分があった。同時に、この会社には世間話をできる相手もいなかったということに気が付いた。


 そして転機のきっかけが訪れる。すっかり気心の知れた頃、他部署で雇われている彼女から「パートの従業員には交通費が出ない」という勤務条件を知らされて朝倉さんはショックを受けた。営業部には正社員しかいないから知らなかった。なんということだろう。こんな都心まで徒歩や自転車で通える距離に住む人なんているものか。いたとしてもパートになんか出る必要の無い人に限られるだろう。


 それが理由で退職を考えていると彼女から打ち明けられた時、自分の中で何かが砕けた。「卵が孵る時のような音が聞こえた」気がすると後に彼女は綴っている。ヒビが割れた隙間から向こう側が見えたような気がしたのだと。それが光だったのか闇だったのかはわからない。


 とにかく何か変えられないかと考えた彼女は人事課への異動を試みる。が、受理されず何も変わらない日々を歯がゆい気持ちで送った。パートの友人は退職してしまった。朝倉さんの異動願いも受理されないままだった。



 好きで学んだ英語を活用できるのは楽しい。言葉が通じれば嬉しさもある。


 だが、どうだ。

 これで良いのか。

 今のままで本当に。


 この件について会社へのアプローチを諦めた朝倉さんは転職に目を向けた。見切るのも行動に移す早さも然り齢は二十代後半、昭和ではそんな彼女の姿は人の目にどう映ったことだろうか。根気が無いだとか所詮腰掛けだったのだとか。無謀にも見えただろう、若者の先見の無さと感じた人間もいたかもしれない。


 とにかく人事に携わることができる事務職へ転職したいと考えた彼女は、簿記を習得すべく然るべき学び舎へ赴いた。人事を学ぶようなスクールは見つからなかったのと、ひとまず少なくとも経理ができれば総務系の部署に入りやすいと考えた為だ。そして運命の出会いがあった。赴いた先で、壁に貼られたフライヤーからビジネス法務の教室が開かれていることを知る。講師の社会保険労務士は女性だった。




「それまで私、そういう資格があることすら知らなくて」



 彼女が目を煌かせるのを見て僕は無言で頷く。僕もこの件で初めて知った資格だった。


 毎週金曜日に仕事の後で学校へ通った。在職中に簿記の取得を済ませ、会社は翌年――――昨年末に退職した。春先にはビジネス法務の講座も卒業してすぐに実家へ戻って現在に至る。今は目下、社会保険労務士の資格取得に向けて勉強中なのだそうだ。おばあちゃんを病院に連れて行くために勉強の合間で運転免許を取ろうと考えたのだという。朝倉さんは志の高い人で、目標を必ず達成する実行力もある。




「偉いですね」


「そんなことないよ」



 あ、照れている。こんなことはきっと珍しい。かわいい。忘れていたけれど、こんなにかわいかったんだ。容姿の良さなんて忘れてしまうくらい朝倉さんと話している時間は楽しかった。










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 “あのスレ”に居合わせた彼らを繋ぐ合言葉をひっそり募集します。チーム名みたいになると嬉しいですが、そうでなくても何でも結構ですので、ダサいのください。後半の大事な場面クライマックスで登場させたいので思い付いた方はコメント欄にご記入いただければ幸いです。


 応募作は全て作中で登場させていただきますが、一番ダサいことを言った方が優勝です。











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